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20XX/04/02 犬のぬいぐるみ

 
《世界が終わるまで356日》
 
五歳の誕生日にプレゼントされた犬のぬいぐるみを、いまでも時々思い出す。
犬種はおそらく柴犬だった。
目が小さくて、耳と尻尾がピンと立っていて、ふわふわな毛並みをした可愛い犬だった。
カイエダはそのぬいぐるみをどこに行くにも連れて行った。
家族でのハワイ旅行にも、予防接種を打ちにいった病院にも、時々はランドセルに隠して学校にも一緒に行った。
カイエダはその子を一等大事にしたが、十歳になる頃には屋根裏へと仕舞われていた。
小学五年生にもなって、ぬいぐるみを大事にしていることが恥ずかしかったのだ。
その数年後、雨のように降り注いだ焼夷弾によって実家が母と姉と一緒に焼け落ちてしまった時、不意にあの犬のぬいぐるみが頭に浮かんだ。
ずっと忘れていたのに、走馬灯のようにその姿が駆け巡った。
その瞬間、カイエダは自分が何かを失ったことに気付いた。
だが、涙は溢れなかった。
涙の流し方を忘れていた。
その失ったものが何なのか、今でもカイエダは思い出すことができない。
 
***
 
まるで、ぬいぐるみのようにハマの身体を抱き締めていた。
かすかに朝日が射すハマの頬を眺めて、その上に残る涙の痕へと指先を這わす。
ハマの目尻は痛々しいぐらい真っ赤に染まっている。
随分と泣かせたと思う。
酷いことをしたとも思う。
だが、過去をやり直せたとしても、自分は同じことを繰り返すだろうとも思った。
頬をぐずぐずと弄くっていると、ハマが薄らと目を開いた。
二三度瞬いてから、ゆっくりとカイエダを見上げる。
 
「…おはよぉ」
「おはよう」
 
ハマがぐずと鼻を鳴らす。
ティッシュを取って鼻に押し付けてやると、そのまま幼児のようにチーンと鼻をかんだ。
鼻をかむと、まだ寝足りないのか大欠伸を零して、カイエダの胸と無防備に額を寄せる。
 
「いま何を考えてる」
 
目蓋を閉じたハマへと小さく問い掛ける。
ハマはむずがる子供のように小さく唸り声を零してから、再び目を薄く開いた。
 
「…ねむい、とか、おなかすいた、とか、…なんで、カイエダが最後までしなかったのかな、とか、いろいろ…かんがえる」
「最後までしてりゃ良かったのか?」
「カイエダがしたいなら、してもよかった」
 
でも、昨日みたいに痛いのはいやだ、とハマが弱々しく囁く。
布団の下のハマの全身には、おそらくカイエダがつけた噛み痕が縦横無尽についているだろう。
中には血が滲むほどきつく噛み付いた箇所もある。
ハマがゆっくりと腕を伸ばして、カイエダの首へと抱きつく。
すぐに肩口に痺れるようなかすかな痛みが走った。
ハマがカイエダの皮膚を淡く噛んでいる。
痛みと呼ぶにはあまりにも淡すぎる、甘い痺れだった。
肩口から唇を離したハマが小さく笑う。
 
「しかえし」
 
ハマの肩に残った薄い歯形に満足したのか、ハマは額をカイエダの胸にくっ付けて再び寝息を立て始めた。
皮膚に残る甘い痺れを感じながら、カイエダは溜息を零した。
 
「お前は犬か」
 
それを言うなら、自分だって犬かもしれない。
眠るあたたかいぬいぐるみを抱き締めながら、カイエダもそっと目蓋を閉じる。
あのとき自分が失ってしまったものが何なのか、カイエダには解らない。
だが、解らなくてもいいんじゃないか、と今は時々そう考える。
 
 

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Published in 世界が終わるまで365日

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