Skip to content →

01 編集部にて

 
 可哀想、という言葉は万能だ。
 唇から零しただけで、まるで善人のように振る舞いながら
 安全地帯から同情し、優越感を満たすことが出来る。
 頭を撫で、優しげに構ってやり、そうして潮時だと思えば、
 直ぐにそいつを放り出して身を引ける。
 可哀想という言葉には、責任がなく、また拘束力もないからだ。
 何故なら可哀想という言葉は、 所詮『感情』の表現でしかないからだ。
 約束でもなければ契約でもない。
 感情は移り変わる。
 だから、見捨てたところで無責任になりはしない。
 責任を取ることなく、第三者のまま、自身は優しく満たされる。
 何て素晴らしい言葉なんだろう。
 嗚呼、可哀想、可哀想、可哀想―――
 
 
 
 01 編集部にて
 
 
 
 先生の新刊一ページ目の文章だ。私はこの文章を読んだとき、岬先生の担当者は無理です、と編集長に改めて泣きつきそうになった。原稿用紙を両手に鷲掴んだまま、ぶるぶると小刻みに震える。今は午前十時半、岬先生のお宅に窺うまで後一時間半しかない。その現実に、私は今更ながら泣き出しそうだった。
 
 
 岬先生は、うちの出版社の稼ぎ頭の作家だ。五年前から、純文学、サスペンス、純愛、ホラー、ジャンルを問わずベストセラーを叩き出し続けている。私が一年前から勤める青羽出版社は、大手ではない。岬先生以外の作家は、幾ら本を出しても売上げ千部いくかどうかの鳴かず飛ばずな作家達ばかりだ。そんな中、岬先生だけが、まるで一番星のように燦々と輝いている。青羽出版社の売上げは岬先生一人であげていると言っても良い。ビルを建て、私達に給料を払っているのは、うちの社長ではなく岬先生、それは社員全員が知っている紛れもない事実である。こんな小さな出版社には場違いな、宝石のようなお方なのだ。
 
 
 そんな宝石、ダイアモンド先生の編集者として、入社して二年を迎える私が任命された。任命されてしまった。何という悪夢なんだろうか。誰か神様、仏様、悪魔様、夢なら覚めて下さい。いや、勘違いしないで欲しいのだが、私は岬先生が嫌いだとか苦手だとか生理的嫌悪で近づけないとか、そんなわけではない。そんなわけがない。むしろ、私は、岬先生の大大大ファンなのだ。岬先生の文章に携わりたくて編集者を目指したと言っても過言ではない。過言どころか、全く丸っきりそのままのストライクだ。
 
 
 学生時代に岬先生の文章に出会い、脳味噌にズガーンと雷が落ちたような衝撃を感じて以来(実際、その時階段から転げ落ちて頭を打ったが)、私は岬先生の虜になった。新刊が出たと聞けば、深夜から寝袋を着て本屋に並び、本屋の店員に警官を呼ばれて事情聴取を受け、文庫本化したと聞けば、保存用、貸出用、拝読用、とわざわざ三冊も購入した。私は生粋の岬先生フリークで、岬先生命でこの五年間生きてきて、岬先生に嫌われたら、もう山手線に飛び込むしか道がないのだ。だから、私は岬先生の担当者に死ぬほどなりたくて、死んでもなりたくなかった。岬先生の前担当者が急遽社を辞めなければ、決して巡って来る事のない大役だった。
 
 机に蹲ってぐすぐすと鼻を啜る私を哀れんでか、鬱陶しがってか、のっそりと倉田編集長が近付いてくる。
 
 
「板垣ちゃん、悪魔先生の担当者が泣くほど嫌なのぉ?」
 
 
 頬にしんなりと掌を押し当てる姿は、まさしくオカマだ。倉田編集長は妻子持ちながら、何故だかオネエ言葉で喋るという奇妙な癖がある。小太り気味なヒゲ男が、野太い声でオカマ言葉を使うなんて、まさしく視覚と聴覚への拷問としか考えられない。
 
 編集長は、デビュー仕立てだった頃の岬先生の担当をしていたらしい。その頃のあだ名なのか、岬先生のことを悪魔先生などと失礼な名前で呼ぶ。
 
 
「その呼び方やめて下さいよぅ」
「何がぁ」
「悪魔先生。何だか私の岬先生が汚されたみたいで嫌です」
「私の岬先生って、あんた、まだ悪魔先生に夢抱いてんのぉ?」
「夢じゃないです現実です。岬先生は、私の憧れなんです。天使です、神です、世界の中心です」
「あんたのそういうとこ、心底気持ち悪いわぁ」
 
 
 バシンと強めに背中を叩かれると、思わずむせ返ってしまった。確かに編集の仕事に付いてからは、女を忘れて仕事に励んでは来たけれども、身体は一応女のままなのだ。男の力で叩かれて平気なわけがない。肩越しに編集長をきつく睨み付ける。私の精一杯の睨みをさらりと受け流して、編集長はにっこりと笑った。
 
 
「あんたが悪魔先生を崇拝しようが惚れようが勝手だけど、原稿落としたら首絞めて殺すからね」
 
 
 言外に、さっさと原稿取りに行け、という脅しを投げつけられて、私は唇を引き攣らせた。実際問題、岬先生の原稿を落とすという事は、青羽出版社にとって何千万という損失を生み出す。最悪、倒産という可能性もあり得なくもない。首を絞められても文句一つ言えるわけがない。むしろ首を絞めて殺される前に、屋上から飛び降りる方が早そうだ。
 
 時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。郊外にある先生のお宅に行くにはギリギリの時間だ。慌てて鞄を肩に引っ提げて駆け出すと、背中からオーイと声をかけられた。
 
 
「悪魔先生対処法、ちっちゃいものには関わらないこと!」
 
 
 へらへらと笑いながら、編集長が手を振っている。その笑みや言葉の意味を考える前に、私は扉から飛び出していた。
 
 

< back ┃ topnext

Published in 箱庭の少年

Top