Skip to content →

02 玄関にて

 
 岬先生のお宅は、郊外の山奥にある。鬱蒼とした林道を走り抜けながら、何度も狸や猪が車の前を気ままに横切るので、その度に私は心臓が止まるような思いを味わった。
 
 
 そうして、辿り着いた岬先生のお宅は、まさしくお城のようだった。『お城のよう』と言うよりかは、『お城』と言った方がいい。レンガ仕立ての外壁に、ツンと円錐型に出来た黒い屋根、まるで古代ヨーロッパの城がそのまま移動して来たようにも思える。
 
 
 私は唖然と城を見上げた後、感動にぷるぷると身を震わせた。まさしく岬先生に相応しい場所だと思ったからだ。エレガントビューティー、この優雅な城の中で、あの素晴らしい文章が書かれているかと想像するだけで、鳥肌が浮かんでくる。美しいイタリア製の机の前に腰掛けて、万年筆で原稿用紙に文字を書き連ねる先生の姿。これ程までに美と呼べるものはない、とすら思った。だけど、机に向かう先生に顔はない。
 
 
 岬先生は、人前に顔を出すのが苦手らしく、今までご自身の本に顔写真を出したこともなければ、サイン会なども開いたことがない。学生時代から私の脳味噌の中では、幾つもの岬先生の顔が浮かんでは消えて行った。それは、漫画のキャラクターであったり、テレビで見たアイドルの顔などであったが、一つとして『岬先生』という存在にしっくりと当て嵌まるものはなかった。それほどまでに、私の中で岬先生は特別な存在だった。その岬先生に今から会うと思うだけで、心拍数が異常に跳ね上がるのを感じた。今血圧をはかったら、きっと異常な数値を叩き出すことだろう。変質者のように荒げそうになる息を必死で整えて、玄関らしき扉の前に立つ。
 
 
 信じられない、指先どころか腕まで震えてる。扉を叩こうと手を上げた時、その震えに気付いて私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。駄目よ、駄目、こんな顔が真っ赤な顔見られたら、岬先生に『猿の尻のような顔だな』なんて思われてしまう。それが自分の想像だけでも耐えられない。
 
 
 何度も深く息を付いて、今度こそ扉を叩こうとした瞬間、ドゥーン、と何処からか鈍く轟くような音が響いた。鼓膜を芯から揺さぶるような重厚な音だ。森の奥から聞こえたその音は、暫く木々の間を擦り抜けるように響き続けて、消えた。何事かと思って左右を見渡す。
 
 
「何の音?」
「猟銃」
 
 
 驚きに肩が大きく震えた。独り言だと思っていた言葉に、思いがけず返事が返ってきたからだ。視線を落とすと、薄く開いた扉の隙間から、ぎょろりとした目玉がこちらを見上げていた。思わず息を呑んで、目玉を凝視する。
 
 よく見ると、それは黒い髪をした少年だった。片方の肩が見えそうなほど襟口が伸び切ったTシャツとぶかぶかな短パンを身に付けている。手の甲で鼻辺りを押さえて、ぐずぐずと鼻を鳴らしていた。
 
 
「え、風邪?」
 
 
 反射的に問い掛けると、少年が何処か虚ろな目で瞬いた。そうして、緩慢な動作で鼻から手を退ける。見えたのは、乾きかけた血が盛大にこびり付いた小さな鼻だ。目を凝らして見てみれば、少年の左目は、赤紫色に腫れ上がった瞼で殆ど潰れていた。Tシャツの袖や、短パンの裾から覗く四肢にも、同じような紫色の痣が痛々しく浮かんでいる。その凄惨な姿に、目を見張る。少年は、そんな自分の姿に頓着しない様子で言う。
 
 
「血が鼻ん中で固まって、がびがびして気持ち悪い」
「そ、そそ、そんな事言ってる場合じゃないでしょう! ど、どうしたのこの怪我!」
 
 
 怪我をしている本人よりも、私の方が慌てていて何とも滑稽だった。素っ頓狂な声で問い掛けると、少年は不機嫌そうに顔を歪めた。
 
 
「あんた、誰」
 
 
 少年の私を見る目付き、まるで親の仇を見るみたいな鋭い眼差しに、私の心はガチンと凍り付いた。目だけで言われる。御前は敵、御前は敵、御前は敵だ、殺すぞ。息を呑んで、否定するみたいに首を左右に振る。馬鹿みたい、だって子供じゃない。
 
 
「君、岬先生って判るかな? 私ね、今日から岬先生の担当者になった板垣清美って言うんだけど」
「広本さんは」
 
 
 疑うように少年の口から出された名前に、私は一瞬ギクリと身を竦ませた。広本さんは、岬先生の前担当者だ。いつも朗らかに笑っている人で、締め切り近くなれば、自分の事はさておいて他の編集者を気遣うような優しい人だった。確か今年産まれたばかりの娘さんがいて、出産費用やら何やらで家計が火の車だよとか言っていた。だけど、そんな広本さんは、つい先日、何も言わずに会社を辞職してしまったのだ。辞職を申し出たときも、その後も、誰一人として広本さんの姿を見た社員はいない。その広本さんの後釜が私だ。
 
 
「広本さんは、辞めちゃったんだよ」
 
 
 一言だけ零すと、少年は驚いたように片目を大きく開いた。唇を半開きにしたまま、ぽかんと私を見詰めている。その唇は、まるで冬のようにガサガサにひび割れていた。暫くして、少年が「そう」とだけ短く呟く。悲し気な響きだった。
 
 
「広本さん、やさしかったから」
 
 
 諦めたように呟くその言葉に、違和感を感じる。優しかったから、何だと言うんだろう。しかし、それを問い返す前に、少年が扉を大きく開いて手招きをしてきた。
 
 
「博文、今外に出てるから、中で待ってたら?」
「え、ヒロフミ?」
「博文――岬センセイ」
 
 
 苦虫を噛み潰すような顔をして少年が言い直す。まるで先生付けするのが、気色悪くて堪らないとでも言いたげな表情だった。しかし、その時の私は少年の言葉を、歓喜をもってして頭の中で反芻していた。岬先生の名前は、ヒロフミ。嗚呼、何て素敵な名前なんだろうか。名前から既に知的な匂いが香ってくるなんて、岬先生はまさしく天人としか考えられない。
 
 
 そんな私の妄想を置いてきぼりにするように、少年は壁に手を付きながら歩き出した。歩く度に、ずる、ずる、と何かを引き摺る音が響く。少年は右足を、まるで身体に付けられた重しのように引き摺っていた。右足首がぐにゃりと力なく垂れ下がっているのを見て、私はギクリと身体を強張らせた。アキレス腱の辺りに、まるで刃物で入れられたかのような横一文字の傷痕が見える。この少年は、足が不自由なのだろうか。歩く度に力なく折れ曲がる右足首は、少年の身体についた痣と相まって、何処か不気味な雰囲気を醸し出していた。
 
 

backtopnext

Published in 箱庭の少年

Top