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04 赤ん坊の泣き声

 
 穏やかな微笑みを浮かべた男性がそこに立っていた。全体的に柔らかな輪郭をしており、顔立ちは優しそうだった。その繊細な姿は、私が今まで思い浮かべた先生のどれよりも最上だった。
 
 
 一瞬、私は歓喜の渦に呑まれて、それから自分の咽喉から予期せぬ悲鳴が溢れたのを聞いた。それは歓喜ではなく、紛れもない恐怖の叫びだった。先生の手の中には、血まみれの兎が二匹握り締められている。長い耳の根元を握り締められたまま、ゆらゆらと揺れている白い塊に、私の目は釘づけられた。金切り声を上げる私を見て、先生は少し苦笑いを浮かべた。
 
 
「あぁ、ごめんね。今狩りに行ってたんだよ」
「たった兎二匹?」
 
 
 少年が不服げに訊ねる。先生は肩を竦めて、視線だけ扉の方へと向けた。
 
 
「外に鹿が転がしてある。後で捌いて、薫製にでもしようか」
「何でもいい。シチューにするから兎寄越せ」
 
 
 伸ばされた少年の手に、先生は絶命した兎を無造作に乗せた。先生のように上手く持つことが出来ないのか、少年の細い腕は直ぐに兎の血にまみれて真っ赤に染まった。よく見ると、兎の片方はもう一匹よりもずっと小さい。きっと赤ん坊だったんだ。そう思うと、背筋にぞくっと寒気が走った。
 
 先生が変わらない穏やかな笑みで私を見る。
 
 
「それで、君は誰かな?」
「あ、あの、私…」
「イタガキさん、あんたの新しい担当」
 
 
 どもる私を代弁するように少年が言う。途端、先生の笑みに冷たいものが走った、ような気がした。
 
 
「雄太、御前には聞いてないよ」
「そりゃ、悪かったね」
 
 
 少年が皮肉げに頬を歪める。先生の咎める眼差しに構いもせず、背を向けて兎を両手にキッチンへと向かって行く。先生が呆れたように溜息を吐いた。
 
 
「すいません、あの子も根はいい子なんですが」
「あの、あの子は…?」
 
 
 おずおずと問い掛けると、先生はふっと笑った。私の対面上のソファに腰掛けると、手に付けた革手袋をはずし始める。
 
 
「彼は私の甥っ子です。兄夫婦の息子だったんですが、二年程前に家族で事故にあって夫婦が他界しまして、生き残った彼を私が引き取りました。岬雄太と言います」
 
 
 咄嗟に思い出したのは、少年の右足首のことだ。ぐにゃりと曲がったその足は、事故の後遺症か何かだろうか。そう思うと、少年の生意気な態度も何処か悲しく思えてきた。心身に傷を負った少年と、少年を支える心優しき叔父だなんて、いかにも泣ける小説になりそう。
 
 
 手袋を取り去った先生の両手が晒されると、その指先の繊細さに私の目は釘付けになった。一種女性的とも思えるほど、その指は美しかった。たおやかとも、あでやかとも表現出来そうだ。その指先に私がうっとりとしていると、先生が不可思議そうに首を傾げた。
 
 
「それで、イタガキさん、ご用件は?」
「あ、あのっ、広本さんの代わりに本日付けで私が先生の新しい担当になりますので、そ、そのご挨拶、っと、再来月号のげ、げげ、原稿を頂きに参りました!」
 
 
 勢い余って、最後は殆ど叫ぶように言っていた。余りの羞恥に赤面して縮こまると、先生が小さく笑うのが聞こえた。うぅ、恥ずかしくて死にそう。どうか今すぐ自殺用の手榴弾をください神様。
 
 
「広本君は辞めてしまったのかな?」
「あ、はい、そうです。いつの間にか、辞職なさったようで…」
「そう」
 
 
 その瞬間、先生の唇が微かに歪むのを、私は見た。穏やかな顔立ちには似合わない、残忍とも思える笑みだった。その微笑みに、私は背筋が戦慄くのを感じた。
 
 しかし、唐突に響き渡った泣き声に、私の身体は戦慄くどころかソファの上で飛び上がった。
 
 
――ぎゃあぅ、ぎゃあああぁ、わぎゃあぁぁぁ、
 
 
 まるで怪獣のような喚き声に、思わず両耳を塞ぐ。それは隣の部屋から響いているようだった。キッチンに居た雄太君が慌てた様子で、右足を引き摺りながら廊下を駆けて行く。兎を捌いている途中だったのか、肘まで真っ赤に染まっていた。
 
 
 暫くして、小さな塊を抱いた雄太君が戻ってきた。タオルケットに包まれた“それ”は、生後一年にも満たないであろう赤ん坊だった。産毛がぽつぽつと生えた丸っこい頭が何だかエイリアンみたいに見える。雄太君の腕に付いていた血が真っ白なタオルケットにじわじわと沁みて行く。まるで捌いたばっかりの肉の塊を抱き締めているみたいで気味が悪い。
 
 雄太君が不機嫌そうな顔で、赤ん坊を先生へと差し出す。
 
 
「あんたが赤ん坊なだめろよ」
 
 
 命令口調が憎たらしい。私が苛立ちを込めて睨み付けても、雄太君は気付く様子もない。まるで親の仇のように先生を睨み付けている雄太君を見ていると、『この恩知らず!』となじってやりたいような、そんな衝動に襲われる。先生に養ってもらってるくせに、何て可愛げのない子供なんだろう。怪我だって始めは可哀想だと思っていたけど、今はざまあみろぐらいにしか思わない。どうせあんたが勝手に暴れ回って付けた傷でしょう。自業自得!
 
 
 先生は、雄太君の生意気な態度を気にも留めず、何処か愛おしむような眼差しを向けた。赤ん坊を受け取ると、胸元にそっと抱き締める。雄太君は赤ん坊を手放すと、直ぐさまキッチンへと戻って行った。その足取りは荒い。あやすように赤ん坊を左右に揺らすと、泣き声が微かに治まって行くのが解った。あぁ、それにしても、赤ん坊を抱き締めた先生は、まるで聖母マリアのよう! 何て神々しいんでしょう!
 
 
「この子は、雄太の弟の圭太です。雄太がしっかり面倒を見てくれてるので、とても助かってます」
 
 
 先生が大切なものを食むような口調で呟く。それを夢見心地で聞いていた私だけれども、直ぐさま微かな違和感に気付いた。先生は、先ほど二年前に雄太君の両親が亡くなったと言ったはずだ。でも、目の前の赤ん坊はどう見ても二歳には見えない。親が死んだ後に産まれる子供なんて居るわけがない。それならば、雄太君とこの赤ん坊は血が繋がっていないことになる。それなのに弟だなんて、一体どういう事だろう。
 
 
 それを訊ねようと口を開いた瞬間、キッチンの方からギラリと煌めく銀が飛んできた。それは放物線を描いて、ぐさりと先生のソファの肘掛けに突き刺さる。それは、血に濡れた包丁だった。キッチンへと視線を滑らすと、そこには怒りに顔を歪めた雄太君が立っていた。まるで悪鬼のようなその憎悪の表情に、私は悲鳴をあげることも忘れた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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