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05 壁一面の写真 *暴力表現有

 
「巫山戯んじゃねぇ、何が面倒を見てくれてるだ! そんなもん弟じゃねえよ!」
 
 
 血走った雄太君の眼球が一直線に先生を睨み付ける。がなり上げても怒りが治まらないのか、雄太君は両手で髪の毛を掻き毟って、傍らのドアを蹴り飛ばした。先生は、それでも微笑んでいる。腕に抱き締めていた赤ん坊をそっとソファの上に降ろすと、悠然たる面持ちで立ち上がった。そのままいきり立つ雄太君へと近付いて行く。
 
 
 そうして、次の瞬間起こったのは、暴力の破裂だ。先生は、雄太君の頬を思いっきり殴り飛ばした。雄太君の華奢な身体がまるで玩具のように吹っ飛んで、絨毯の上を転がる。それでもなお唸り声を上げる雄太君を、先生は今後は蹴り飛ばした。まるでサッカーボールでも蹴るかのような滑らかな動きだった。薄い腹が蹴り飛ばされて、ぐちゃりと内蔵が潰れる音が聞こえてきそうだった。
 
 
 雄太君の口から、まるで絵の具を溶かしたかのような赤い液体が零れてくる。ああ、いやあ、あれは血だ。血、血を吐いてる。先生、雄太君は血を吐いてるんですよ。解りますよね、血が、血があぁ、
 
 
 私は、咄嗟に目を瞑った。目の前にある光景が信じられなかった。信じたくもなかった。先生は、私の岬先生は、小さな子供に暴力を奮うような人間じゃない。頬を殴ったりしない、腹を蹴ったりしない、そんなのは岬先生じゃない!
 
 
 不意に、ぎゃああ、という悲痛な悲鳴が聞こえて来た。その声に薄目を開けてしまった事を、私は未だかつてないほど後悔した。いつの間にかソファの肘掛けから引き抜かれていた包丁が先生の手に握り締められていた。仰向けに転がる雄太君を取り押さえた先生は、包丁を振り翳したまま、にっこりと愉しそうに笑っている。
 
 
「ねぇ、雄太。今度は何処を切って欲しい? 右足だけじゃなくて左足も切ろうか? それとも目玉? 二つあるんだから、一つは要らないよね? それとも、耳? 鼻? 何処でもいいよ?」
 
 
 その言葉に、私は雄太君の右足首に付けられた傷痕を思い出した。アキレス腱に刃物で切られたかのような真一文字の傷痕。あああぁ、まさか、嘘でしょう!?
 
 残忍な言葉に、雄太君は青褪めた顔で、首を左右にぎこちなく振る。先生は、咽喉を微かに震わせて嗤った。
 
 
「じゃあ、目だね」
 
 
 赤く濡れた包丁の切っ先がゆっくりと下ろされて行く。見開かれた雄太君の眼球に、切っ先が突き刺さろうとした瞬間、再び怪獣の泣き声が響き渡った。ソファの上に置いてきぼりにされた赤ん坊がギャアギャアと泣き喚いている。その叫び声に、興を削がれたように先生が雄太君の上から退いた。雄太君は、腹を抱えて床の上に転がったままだ。先生は、机の上に無造作に包丁を置くと、そっと赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊の顔を覗き込んで、ゆったりと微笑む。その姿は、先ほど雄太君を殴っていた人間と同一人物とは思えないほど穏やかだった。
 
 
 私はスカートの裾を両手で握り締めたまま、ただソファの上で震えていた。骨の芯から震えるっていうのは、きっとこういう事だ。身動き一つ取れないほどの恐怖に、全身が締め付けられる。咽喉がカラカラに乾いて、今にももどしそう。私は、込み上げてくる吐瀉物を必死で飲み下した。
 
 
 泣き止んだ赤ん坊を抱き締めたまま、先生がそっと私を見下ろす。私は先生を見返すことが出来ない。膝を見つめたまま、ガタガタと震えていた。
 
 
「イタガキさん、そこの棚に再来月分の原稿を置いてあるから持って帰ってもらえるかな?」
 
 
 優しげな先生の声、まるで天使のようだ。嗚呼、でも、先生はきっと悪魔だ。私は、倒れた雄太君を顧みることすら出来なかった。先生が傷付けた子供を見るのが恐ろしくて堪らなかった。ソファからぎこちなく立ち上がって、先生が指した棚へと近付いて行く。茶封筒に入った原稿を手に取って、ふと壁へと視線をずらした瞬間、戦慄が走った。
 
 
 壁一面に貼られた写真らしきもの、遠目ではよく見えなかった。それは、全て雄太君の写真だった。おそらく赤ん坊の頃から今まで、壁一面雄太君で埋め尽くされている。家族写真らしきものも見えた。雄太君は、今の姿からは想像も付かないほど無邪気な笑顔を浮かべている。その周りに両親らしき男女も立っているが、その顔は真っ黒に塗りつぶされていた。女性の腕に抱かれた赤ん坊の顔ですら、執拗なまでに潰されていた。何、これ、何これ、何これ何これ、こんなの異常よ。
 
 
 悲鳴を噛み殺す。もう背後を振り返ることなんか出来なかった。私は殆ど逃げるように、その屋敷を出た。パンプスの踵を踏んずけたまま車に飛び乗って、残酷なまでに日の光に満ちた林道をただただ走り抜けた。気付いたら、私はぐじゃぐじゃに泣いていた。膝の上に乗せた先生の原稿の上に、ぼたぼたと私の涙が落ちる。
 
 
 先生、岬先生、貴方が怖いです。堪らなく怖いです。そのとき始めて私は、倉田編集長が岬先生のことを悪魔先生と呼んでいる理由が解った。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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