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06 最低の馬鹿女

 
 二日前から気分が悪くて、物を食べる気になれない。胃が縮み上がって、キリキリと刺すように痛む。凹んだ脇腹を掌で押し込みながら、原稿に齧り付く。この校正が終わったら、いい加減何か食べよう。何なら最近近くに出来たフランス料理店に行ったっていい。私にだって時々はご褒美が必要だ。ご褒美――
 
 
 そう思った途端、胃袋がせり上がるような嘔吐感に襲われた。オフィスのトイレに駆け込んで、咽喉の奥に指を突っ込んでえずく。まともに水分も取ってないせいか、胃液すら出て来ず、ただだらだらと唾液だけが溢れて来た。惰性のように涙も一緒に零れる。
 
 
 岬先生、雄太君、赤ん坊。私の脳味噌は二日間そのことしか考えてない。二日前のことを思い出す度に、私は震え上がる。雄太君を殴り飛ばした先生の拳、雄太君の引き摺られた右足、赤ん坊の五月蝿い泣き声、壁一面に貼られた写真。リフレインされる度に、私はどうしようもない自己嫌悪と恐怖に襲われる。
 
 
 社に持ち帰った先生の原稿は、素晴らしかった。鮮やかな文章、巧みなストーリーテリング、深みのある人物描写、途方もなく美しいのに何処か物悲しい、大学時代から私が憧れてやまなかった先生の文章。先生もその文章と同じく美しい人だと信じてやまなかった。だけど、現実の先生は違う。子供を殴り付ける悪魔のような人。そのギャップが私を酷く苦しめた。裏切られた気がして悲しかった。けど、それ以上に勝手な妄想を作り上げて、虚構の岬先生を崇め奉っていたそれまでの自分が惨めで堪らなかった。
 
 
 そして、それ以上に、どうして雄太君を置いて逃げてしまったのかという事が私を苦しめた。あんな小さい子、殴られて平気な訳がない。血だって吐いてた。もしかしたら殺されてしまうかもしれない。それなのに、どうして、私は雄太君を助けなかったんだろう。雄太君を連れ出すことも、先生を制止することも、警察を呼ぶことすら何一つせず、私はただその場から逃げたのだ。私は、自分可愛さに、あんな小さな子を見捨てたのだ。何て酷い人間だろう。思い出すと、余りの自己嫌悪に身体がはち切れそうになる。
 
 
 ポケットから携帯電話を取り出す。何度も110番を押そうとした。あの屋敷で行われていることを通報すれば、きっと警察が雄太君を救ってくれるはず。それが一番正しいに決まってる。それなのに、最後のボタンを押そうとすると、身体が硬直して動かなくなる。このボタンを押したら、もう二度と岬先生の文章が読めなくなる。私はそれが途方もなく怖かった。何て女だって罵られてもいい。軽蔑されたっていい。
 
 
 
――それでも、先生の文章は美しい。
 
 
 
 私は、あの悪魔のような先生の姿を見ても、まだ先生を神様だと思っている最低の馬鹿女だ。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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