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07 ゴミ袋

 
「あんた、ゴミ袋みたいな顔色してるわよ」
 
 
 トイレから出た途端、倉田編集長に捕まった。殆ど引き摺られるように会議室に連れ込まれての第一声がコレだ。酷いにも程がある。私が女子ってこと忘れてるでしょう、このオカマ。
 
 
「ゴミ袋って…」
「生ゴミが詰まったゴミ袋って感じ。あんたその顔で悪魔先生のところ行くつもり?」
 
 
 反射的に背筋がビクッと痙攣した。そうだ、今日は先生の家に資料を届けに行かなくちゃいけない。でも、行きたくない。絶対に絶対に行きたくない。あんな異常な家、異常な人達、おぞましすぎる。
 
 目を潤ませる私を見て、編集長は深々と溜息を付いた。頬に掌を当てて、しんなりと壁に凭れ掛かる。
 
 
「雄太君のこと?」
 
 
 その名前に、塞き止めていた涙が再びぶわっと溢れ出すのを感じた。ぐじゅぐじゅとみっともなく泣き始めた私に、編集長が呆れ顔でティッシュを渡してくれる。大量に引き抜いたティッシュを顔面に押し当てたまま、私は嗚咽に咽喉を引き攣らせた。
 
 
「へんしゅーちょおー、わっ、わたし、もう、むりですっ。だめです。限界ですぅー…」
「たった一回で諦めてんじゃないわよ」
「だ、だって、だってぇ、目のまえで、ゆぅたくん、な、なぐられて、蹴りとばされて…あ、あんな、あんなの、岬、せんせぇがぁー…」
 
 
 震える私の背筋を、編集長が宥めるようにぽんぽんと叩く。まるで赤ん坊にするような仕草に、私はまたぶわっと涙を零した。
 
 
「だから、ちっちゃいものには関わるなって言ったでしょ?」
「でもっ、でも…」
「でも、じゃないのよ。あたし達にはどうしようもない事なんだから、考えちゃ駄目なのよ」
「だ、だって、それじゃ、ゆうたくん、あのまま、じゃないですかぁー…」
 
 
 まるで見殺しにする事を肯定するかのような編集長の言葉に、私は唖然とする。確かに私の中にも、そういった気持ちはない訳じゃない。だけど、それを公然と口に出すなんて。編集長が眉を吊り上げて訊く。
 
 
「だったら、あんた何とかしてあげれんの?」
「…け、警察、とかに」
 
 
 ポケットの中に手を突っ込んで、携帯を引っ張り出す。口に出しながらも、さっきと同じようにどうせボタンが押せないだろう自分に気付いていた。そう解っていながらも、私は偽善を口に出さずにはいられなかった。編集長が微かに鋭い眼差しで、私を睨み付ける。私の手に握り締められた携帯を見ると、バシンとその甲を叩いた。掌から零れ落ちた携帯が床の上を転がる。
 
 
「痛い!」
「あんた、職失う覚悟はあんの?」
「は、はい?」
「あんた、この会社が何て呼ばれてるか知ってるわよね。岬御殿よ。この会社は岬先生でもってるようなものなのに、その会社の人間が先生を売り飛ばすような事できると思ってんの?」
「で、でも、虐待は、犯罪です。あの子、まだ子供なんですよ!」
「犯罪だから何? 売れる本書いて貰えんだったら、子供の一人や二人殴るぐらい、私は目を瞑るわ」
「編集長!」
 
 
 思わず、叫んだ。呆然と編集長を凝視する。編集長は、私を睨み付けたまま微動だにしない。その揺らがない姿勢を見ていると、私は自分の中で何かが崩れて行くのを感じた。一体何が正しくて正しくないのか、ボーダーラインが曖昧に溶けて行く。
 
 私の叫び声に驚いたのか、会議室のドアが控えめに叩かれる。ドアの隙間から覗いたのは、半年後に出産を控えた古株社員の福永さんだ。少し心配そうな眼差しで、私と編集長を見ている。
 
 
「あの…大丈夫です?」
「ええ、大丈夫よ。気にしないで、ちょっと議論がヒートアップしただけだから」
 
 
 編集長がいつもと変わらぬ暢気そうな笑顔を浮かべると、福永さんは安堵した様子でドアを閉めた。暫く沈黙が流れる。重々しい静寂が数十秒続いた後、編集長は酷く小さな声で私に問い掛けた。
 
 
「…責任取れんの、あんた」
「責任?」
「会社潰れたときに、うちの社員数十名を路頭に迷わす責任よ」
 
 
 重たい言葉に、ひくりと咽喉が震えた。頭から足下まで一気に血が下がって、体温がなくなっていく。数十名の人間の人生、そんな責任負えるわけがない。
 
 
「社員だけじゃないわ、その家族もよ。さっきの福永ちゃんは赤ちゃんを産む予定だけど、仕事を失ったら、どうなるのかしら。旦那さんは、イラストレイターよ。収入だって不規則だし、安定してない。そんな中、自分が無職になったら、赤ん坊を産むのを今回は諦めてしまうかもしれない」
「そ、そんなの所詮可能性じゃないですか!」
「可能性だってゼロじゃないなら、起こりえる現実よ」
 
 
 噛み付くように放った言葉は、一瞬で叩き落とされた。私は泣き出しそうな顔で編集長を見つめたまま、きつく唇を噛み締めた。
 
 
「それに、もしあんたが岬先生を逮捕させずに雄太君を助けたとして、雄太君はどうするの? それに赤ん坊は? あんたが育てるの? その歳で、子供二人も抱えて生きていけんの?」
「それは…施設とか、いろいろ…」
「無責任なこと言うんじゃないわよ。保護者でもない、他人のあんたが一体あの子達に何をしてやれんのさ。何も出来ないくせに、一丁前に助けてあげたいだとか思うのは欺瞞よ」
 
 
 編集長がハッと嘲笑を吐き出す。私は何も答えられなかった。編集長の言う通り、私には責任を負う覚悟なんて一つもない。ただ偽善だけ喚いたって、薄汚く無力なだけだ。拳を固く握り締めたまま、もう何一つとして返す言葉なんてない自分を実感して、涙が溢れてくる。編集長が吐息を吐き出す。
 
 
「ねぇ、板垣ちゃん。この世の中には、どうしようもない事もあるの」
「でも、めの前で、おっ、起こってるんです…」
「目の前で起こってても、あの人たちは遠い国の人達と同じ。私達とは違う世界の人なの」
 
 
 編集長が微かに諦念を滲ませた笑顔を浮かべて、肩を揺らす。もう希望を抱くことは止めたような表情だった。
 
 
「間違っても、雄太君を助けようなんて思っちゃ駄目よ? そんな事をしたら、傷付くのは雄太の方よ」
 
 
 私には、上手く意味が理解出来なかった。首を傾げると、編集長が誤摩化すように笑みを深める。だけど、その笑顔は紙一重で泣き顔のようにも見えた。そうして、ぐしゃぐしゃになった私の顔にティッシュを押し付けると、編集長は勢いよく私の背中を叩いた。
 
 
「はい、じゃあ今日も元気に悪魔先生のところに行ってらっしゃい」
 
 
 私は、また噎せた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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