Skip to content →

08 恐れ

 
 ティーカップを持つ手が震える。琥珀色の液体の表面に、波紋が映る。私は、意識を紅茶へと必死に向けながら、今にも逃げ出しそうな身体を押し止めた。向かい側のソファで、先生が私が持って来た資料を眺めている。部屋には、私と先生しかおらず、雄太君の姿も赤ん坊の姿もなかった。初めは姿が見えないことに安堵を覚えたけれども、十分もした頃から、どうして居ないのか酷く気になり始めた。声すら聞こえないのが不安で堪らない。もしかしたら、あのまま包丁で刺されて二人とも殺されたなんて事ないわよね。恐ろしい想像に、膝が笑いそうになる。
 
 
 背もたれに凭れ掛かって、長い足を組んだ先生の姿は、とても優雅だ。だけど、私は先生の姿を直視する事が出来ない。細い指先が紙をめくる音に、私の身体は意図せずビクリと跳ねた。先生の視線がちらりと向けられる。
 
 
「板垣さん、どうかした?」
「い、いいえ、何でもないです」
 
 
 穏やかに問い掛けてくる声に、身体が硬直する。唇が笑みを刻もうとして、惨めに痙攣するのが解った。ぎこちない私の動作を見て、先生がうっそりと目を細めて笑う。
 
 
「君が何もしなければ、私も何もしないよ」
「え?」
「理由もなく人は殴れない。そうだろう?」
 
 
 一瞬返す言葉が思い付かなかった。理由もなく人は殴れないと先生は言うけれども、だったら二日前の事は何だったんだ。雄太君を殴り蹴り飛ばしたのには、一体どういう理由があるのか。どういう理由があれば子供を殴っても許されるのか。私には理解不能だった。スカートの裾をぎゅうと握り締めて、震える声で訊ねる。
 
 
「あ、あの、雄太君は…?」
 
 
 資料から視線を上げた先生が微かに哀れむような眼差しで、私を見た。人の忠告も聞かず馬鹿な質問する女だ、とその目が言っていた。瞼の裏で、赤い警告灯がチカチカと点滅する。倉田編集長の言葉が何度も頭を過る。私は、それを必死で打ち消した。だって、例え何も出来なくたって、このまま知らぬ振りをするのはもっと地獄なの。
 
 
「雄太が気になる?」
「は、い…」
「雄太を気にかけても、君にとって良い事にはならないと思うけどな」
 
 
 真綿で首を絞められているような感覚。先生の声音は優しいけれども、私をやんわりと脅しているようにしか聞こえない。崖っぷちに立たされたように冷汗が滲み出てくる。真下は絶壁だ。私の背後には、笑顔の先生がいる。肘掛けに肘を落として、先生が品定めでもするかのように私を眺めてくる。まるで自分が肉屋に飾られているミンチにでもなった気分だ。
 
 
「裏にいるよ」
 
 
 咄嗟に反応出来なかった。先生は、既に興味を失ったかのように私から視線を逸らしたまま、「裏口から出るといい」と呟いた。私は、暫く呆然と先生の顔を窺った。しかし、先生が私へと視線を向ける様子はない。私は、震える膝を鼓舞しながら立ち上がった。
 
 

backtopnext

Published in 箱庭の少年

Top