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09 ふれたい

 
 広い屋敷を迷い歩いて、探し出した裏口の向こうは視界いっぱいの草原だった。一面シロツメクサが生えており、草葉の間を擦り抜けるように涼やかな風が通り抜ける。柔らかな光が満ちたその場所は、澱んだ空気が漂う屋敷の中とは正反対に鮮やかに美しかった。青々とした草花の匂いに、自然と鼓動が落ち着いて行く。
 
 
 視線を巡らせると、草原の真ん中に白い何かが転がっているのが見えた。近付いて、咄嗟に息を呑んだ。風に吹かれて、白いシーツの端がふわりとめくれ上がる。視界に映ったのは、鮮やかなコントラストだ。
 
 
 
 
 まぶしいほどの白に、なめらかな肌色。
 
 
 
 
 シーツに包まれるようにして、雄太君は眠っていた。何も身に付けていない細い身体がまるで母親の胎内にいるかのように丸められている。雄太君の胸には、タオルケットで包まれた赤ん坊がそっと抱き締められている。小さな子供が自分よりも小さな赤子を抱く倒錯的な姿に、私はくらりと目眩を覚えた。
 
  シーツの隙間から垣間見える雄太君の肋や太腿には、暴力の痕が色濃く残されている。ナイフで切られたような痕に、煙草を押し付けられたように黒く炭化した部分もあった。赤黒い痣、青い痣、紫色の痣、様々な色彩が混じり合って、まるで肌の上に華が咲いているようにも見える。男でもなく子供でもない、その完成し切っていない身体は、儚げで、酷く煽情的で――
 
 
 
 
 ふれたい、と思った。
 
 
 
 
 そう、つよくつよく願った。胸が苦しかった。自分の鼓動の音が五月蝿くて、こめかみの血管が破裂しそうに脈打ってる。もし恋におちる瞬間というのがあるとするならば、きっと今がそれだ。私は、一瞬で心を奪われたのだ。こんな小さな少年に。
 
 
 立ち尽くしたまま動けなくなる。心臓を掻き毟りたくなるような熱の感情に翻弄されて、息が出来なくなる。
 
 
 その時、赤ん坊がぐずる声が聞こえた。タオルケットの中で、小さな四肢をもぞもぞと動かして、赤ん坊が「ヴぁあ」と呻くような声をあげる。その声に、雄太君の瞼がゆっくりと開かれて行く。暫く寝惚けたように瞬きを繰り返していたけれども、私を見た瞬間、雄太君は「わっ」と叫んだ。上半身を起こしたところで自分が裸なのを思い出したのか、真っ赤な顔でシーツを頭から被る。
 
 
「な、なんで、イタガキさん居るの?」
「雄太君のこと、気になって。ねぇ、どうして服着てないの?」
 
 
 視線をあわすようにしゃがみ込みながら問い掛けると、雄太君は赤い顔を更に紅潮させた。シーツの端を指先で手繰り寄せながら、耐え切れないように俯く。
 
 
「…おれ、が、まちがって、全部洗った…から…」
 
 
 たどたどしく答えられた言葉は、明らかに嘘だと解るものだった。きっと雄太君が裸でいるのだって、先生が何かしら関わっているんだろう。だけど、それを問い質すほど残酷にはなれなかった。
 
 
「そっかー。でも、もうすぐ夏になるし、直ぐに乾くよ」
 
 
 わざとらしく明るい声で言う。雄太君は暫く不思議そうに私を眺めてから、不貞腐れたようにそっぽを向いた。ぐずる赤ん坊を緩く抱き締めながら、唇を尖らせる。
 
 
「別に、あんたに関係ないし」
「冷たいなぁ。もっと仲良くしようよ」
 
 
 引き攣りそうになる口元を、必死で笑みの形に留める。雄太君は、困惑とも拒絶とも付かない眼差しを私へと向けた。
 
 
「仲良くなんか、したくない。俺に構うなって、倉田さんから聞いてないの?」
「え、倉田編集長?」
 
 
 雄太君がきょとんと瞬く。
 
 
「倉田さん、編集長になったんだ。すごいな」
「ちょ、ちょっと待って。雄太君は編集長と知り合いなの?」
「だって、倉田さんは、博文の一番最初の担当だ。倉田さんは、いい人だった」
 
 
 雄太君は、曖昧な笑みを浮かべた。喜ぶような嘆くような、どちらとも取れる微笑みだった。
 
 その笑顔に、私は微かに胸が疼くのを感じた。雄太君が倉田編集長のことを褒めるのが何だか釈然としない。だって、編集長は私に、雄太君を助けるな、と言ったのだ。仕方ないことだから諦めろ、と。そんな人間がいい人だなんて、雄太君は騙されているとしか思えない。だから、思わず刺々しい声で問い返していた。
 
 
「いい人だった? 何で?」
「あの人は理解しようとしてくれたから」
 
 
 子供らしくない台詞だった。真顔のまま雄太君は呟いて、唇を真横に引き結んだ。
 
 
「それに、あの人は、俺が可哀想なんて一言も言わなかった。――それが、俺にはすごく嬉しかった」
 
 
 雄太君は、疲れたように笑う。その笑みが無性に切ない。そうして、顔を曇らせると、落ち込んだ声で呟く。
 
 
「広本さんもいい人だったけど、あの人は優しすぎた。だから、いなくなった」
 
 
 広本さんという名前に、身体が反応する。そうして、咽喉から微かに「あぁ」と呻くように声が零れた。雄太君の言葉で、私は何かが解った気がした。優しい広本さん、いつも自分よりも他人を優先する広本さん、奥さんが無事出産を終えたと電話越しに聞いたとき編集室で男泣きした広本さん、だから、きっとこの場所に耐え切れなくなったんだ。姿を見せずに消えてしまった広本さんを、そっと思う。子供が虐待されているのを見て見ぬ振りをしなくてはいけないのは、どれほど苦痛だったんだろう。
 
 
「広本さんは、此処に来る度に頭抱えてた。時々、俺を抱き締めて泣くんだ。ごめん、ごめんな、って。無視されるよりも、笑われるよりも、そっちの方がずっと辛くて悲しい」
「広本さんは、雄太君を助けたかったんだよ」
「俺は助けてなんて言ってないよ。あんたにも言わない」
 
 
 唐突に、雄太君の眼差しが尖る。私を睨み付けたまま、雄太君は下唇を固く噛み締めた。
 
 
「別に強がってるわけじゃない。嫌がらせのつもりでもない。助けてって言わないのが、何より俺のためでもあるって解ってるから言わないんだ」
 
 
 決然とした響きだった。大人よりもよっぽど大人らしい腹を括ったその態度に、私は微かな物悲しさと一緒に誇らしさのようなものを感じた。彼が強くあることを、私は胸の何処かで喜んでいたのだ。全く勝手な自己中心的な思いだけれども。
 
 
「私には、解んないよ」
「解んなくていいよ。解られたら、それこそ――たまんない」
 
 
 掠れた声で、雄太君が囁く。何処か遠くをみるような眼差しを、私はじっと見つめた。
 
 
「だから、イタガキさんも、俺のこと気にしなくていいよ。何かあいつ専用のサンドバッグみたいなもんとして思ってていいからさ」
「そんなの、無理だよ…。何で先生はあなたのこと殴るの?」
「俺だって、そんなん解んないよ。大人になれば解るかもしれないけど、今はまだわかんない」
「なら、早く大人になってよ」
「無茶言うなよ」
「じゃないと、私たえられない」
「担当変わってもらえよ」
「いやよ。だって、雄太君、気になるんだもん」
 
 
 駄々を捏ねる私の方がよっぽど子供っぽい。雄太君は小さく溜息を付いた後、ふっとはにかむように笑った。
 
 
「あんた、俺のこと好きみたい」
 
 
 その笑顔に、ぎゅうと心臓を掴まれる。彼の笑顔が切なくて堪らない。私は『可哀想』という言葉を、咽喉の奥で噛み締めた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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