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11 忠告

 
 薄っすらと赤い爪痕を滲ませる背がひくりと震える。生気を失った眼球が緩く宙を彷徨って、それから焦点を結ぶ。口角から流れた涎を、手の甲で気だるげに拭いながら、雄太君はしゃがれた声で「離せ」と端的に呟いた。先生は、一度微笑んだ後、雄太君の身体をゆっくりと膝の上から持ち上げた。生ぬるい水音が響いて、小さな尻からグロテスクな男性器が引き抜かれる。
 
 雄太君は、両腕を背後で縛られたまま、生まれたての小鹿のような覚束ない足取りで立ち上がると、そのまま右足をずるずると引き摺りながら歩き始めた。私の横を通り過ぎる時ですら、一度も私に視線を向けようとはしない。無言の拒絶だった。そうして、その拒絶を打ち破る方法を、私は知らなかった。倉田編集長の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
 
 
 『ねぇ、板垣ちゃん。この世の中には、どうしようもない事もあるの』
 
 
 これが、どうしようもない事だって言うんですか。子供が目の前で犯されて、何も出来ない無力な自分を感じることが、どうしようもない事なんですか。視界が涙でぼやける。口元を掌で覆って、私は雄太君に掛ける言葉を必死で考えた。答えは出てこない。何一つとして、私が雄太君に与えられる言葉なんて有りはしなかった。
 
 身なりを整えた岬先生が悠然と足を組む。震える私に、にっこりと微笑みかけて、その笑みの何て和やかなことだろう。
 
 
「板垣さん、いらっしゃい」
 
 
 迎合するように先生が両腕を大きく開く。緩く首を傾げて、甘やかな笑い声を咽喉で転がしていた。その笑い声に、ふっと背筋が粟立つのを感じた。恐怖ではなく、堪え切れない憤怒がこみ上げていた。皮膚の毛穴が一気に開いて、全身の産毛が逆立つ。
 
 
「――先生は、私が来るのを知ってらっしゃいました」
「そうだね」
「解っていて、私に見せたんですね」
「そう、君が余計なことを考えないように」
 
 
 こともなげに答えられる台詞に、脳味噌が破裂しそうになる。はらわたが煮えくり返って、髪の毛を掻き毟りたくなる。あんなにも尊敬していた人を、こんなにも憎めるという事を私は初めて知ったのだ。憎悪に翻弄される衝動というものも。
 
 
「どうして、あんな酷い事が出来るんですか…!」
「僕がしている事が酷いというのであれば、この世の中の生物全てが残酷な行為の結果産まれたことになる。それは、つまり生命自体が残酷だという事だ」
「合意の上での行為と、無理矢理の行為では、全く意味が違います!」
「雄太にとってはどちらでも同じだ」
「同じわけないじゃ…!」
「君は雄太の何を知っているの?」
 
 
 言葉が遮られる。先生の眼差しが唐突に鋭さを持って、私に突き刺さる。私は、息を呑んだ。先生の口角が嘲笑にゆっくりと歪んでいく。
 
 
「君は、雄太が可哀想な子だと思い込んで、同情する自分に恋しているんだ。他人を可哀想だと思って哀れむのは、君を酷く満たすだろう。自尊心や優越感を心地よく刺激するだろう?」
 
 
 まるで断罪するかのような言葉が皮膚に突き刺さる。上昇していた体温が急激に下がって、体内の血液が凍り付くのを感じた。
 
 
「――私は、そんなつもりじゃ」
「じゃあ、一体どういうつもりなんだい? 君は雄太を見ていると、庇護欲にそそられて、何かをしてやりたいと思うだろう。そのくせ、君は安全地帯から出ない。出られないんだ。助けてやらないくせに、助けてやりたいなどとほざきはじめる。可哀想な子に優しくする自分に酔い痴れながら。それこそが最も醜い――」
 
 
 ふっ、と先生が息を吐いて哂う。
 
 
「自覚なき自己愛だ」
 
 
 唇から、か細い呼吸がひゅーと音を立てて零れ出す。身体の内側から、何かが抜けて行く。それと同時に心が砕けて、踏み躙られた感情がばらばらに床に散らばり落ちていった。今まで培ってきた思想や感情が根底から否定されて、ぐじゃぐじゃに踏み潰されて行く。
 
 助けられない。私には、雄太君を助けられない。何故助けられないのか。それは、私に覚悟がないからだ。私は所詮何一つ失う覚悟なんてない。そのくせ哀れみだけは一丁前に持って、可哀想だなんて思って――
 
 その時、ふと先生の言葉が脳裏を過ぎった。
 
 
『可哀想、という言葉は、万能だ。責任を取ることなく、第三者のまま、自身は優しく満たされる』
 
 
 あれは、私のことだ。私の事を言っていたんだ。先生は、隣で寝息を立てる赤ん坊へと興味なさそうに視線を向けて、それから緩く溜息を吐き出した。
 
 
「でも、雄太は、君が思っているような可哀想な子じゃないよ。余計な事を考えずに、君は仕事にだけ専念すればいい。そうでないと、君まで取り返しの付かないことになる」
「…それは脅迫ですか」
「まさか、心からの忠告さ」
 
 
 そういう先生は、少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべていた。諦めたような疲れ切ったようにも見える微笑み。私は奥歯をかたく噛み締めて、そっと部屋から出た。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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