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12 とまらない

 
 廊下の奥から、叩き付けるような水音が響いてくる。昼間だというのに雨戸まで締め切られた屋敷の中は、じめじめとして薄暗かった。水音を標にして、向こう側が見えない廊下を壁をすがるようにして歩いていく。
 
 眼球の奥がキリキリと締め付けられるように痛む。涙を流したせいで眼球が乾いたせいかもしれない。手の甲で目蓋を擦ると、右目のアイシャドウが殆ど剥げてしまった。親指の付け根にたなびくようにこびり付いた青のラメを見て、私は泣きたくなった。みっともない、惨めな、そんな言葉がピッタリ当て嵌まる。
 
 私は、自分が一体何をしたいのかがさっぱり解らなくなってしまったのだ。雄太君を見捨てる勇気も、助ける覚悟も、先生を打ち負かすだけの論理も、私は何一つ持ち合わせないまま、雄太君を捜し求めている。この感情と行動の矛盾がいずれ私を絶望へと追い詰めるかもしれないという事が解っているのに。それでも、私は足を止めることが出来ないのだ。この制御出来ない感情ですら、先生の言う自己愛でしかないんだろうか。
 
 水音が近くなる。激しい水流の音が鼓膜を叩く。ゆっくりと扉を開くと、半透明なシャワーカーテンの奥に小さな影が見えた。淡い肌色、私の焦がれる色。震える息を吐き出して、そっと指先を伸ばしてカーテンを引く。
 
 
 そこには、呆然と立ち竦む雄太君の姿があった。両腕は縛られた状態のままで、手首が痛々しく腫れ上がっていた。シャワーヘッドから流れ落ちる冷水を、頭から浴びたまま、見開いた目でじっと自分の爪先を見つめている。その目は、何も見ていなかった。見ようとはしていなかった。雄太君の内太腿を、白濁した粘液が伝っている。その光景を見た瞬間、私の咽喉から「あぁ」という呻き声が溢れた。呻き声が咽喉を這いずり回って、どろどろとした感情の泥に重く沈殿していく。
 
 
「ごめんなさい」
 
 
 どうしても私は言わずにはいられなかった。この言葉が逃げだとしてもだ。それでも吐き出さずには耐えられなかった。両手で顔を覆ったまま、震える声を何度も吐き出し続ける。
 
 
「ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「――なんで、謝るの…?」
 
 
 掠れた声が水音に混じって聞こえた。虚ろな目をした雄太君がじっと私を見詰めている。
 
 
「わからない。どう言ったらいいか、どうしたらいいか、何もわからないの」
「それは、謝る理由にはなんないよ」
「でも、謝りたいの」
「俺は…謝られたくなんかないよ…。板垣さんにも、広本さんにも、誰にも謝られたくなんかなかったんだ。謝られると、自分が惨めだって、そう思わなくちゃいけないじゃないか…」
「でも、それでも、ごめんなさいとしか、言えないの」
 
 
 繰り返される言葉に、雄太君の肩が小さく震えて、咽喉がゆっくりと上下する。そうして、酷く悲しげな掠れた声が聞こえた。
 
 
「……ごめんなんて、言うなよお」
 
 
 不意に、くしゃりと雄太君の顔が歪む。額を壁のタイルに押し付けて、雄太君が背筋を小さく震わせた。そうして、破裂する。バスタブの中にぺたりと座り込んで、雄太君は生まれたての赤ん坊のように泣き声を上げた。身体を引き裂くような哀切を帯びた泣き声だった。大粒の涙を零して、わあわあと咽喉を嗄らして叫ぶ。雄太君の背を、水が打ちつける。涙が水と混ざり合って、排水溝へと流れていく。
 
 
 心臓がはち切れそうだ。正体不明の情動に押し流されて、私は泣きじゃくる雄太君の小さな身体を抱き締めた。頭から降り注ぐ冷水の中、冷えていく身体を感じながら私は必死で考えた。こうやって雄太君を抱き締めていることすら単なる自己愛でしかないとしたら、本当の愛は一体何なのですか。どうすれば愛だと証明することが出来るんですか。
 
 身体が芯から凍えてガタガタと震える。それなのに、心臓が焼き切れそうなぐらい熱い。込み上げて来る感情の渦が私の理性を攫っていく。
 
 
 
 腹を括るんだ。たった一つのために、他は全部捨てちゃうんだ。
 
 
 
 衝動に支配されたまま、私は棚に積まれたバスタオルを鷲掴んで雄太君の身体を頭から包み込んだ。そうして、雄太君の身体を一気に抱き上げた。腕にずっしりと重みが掛かる。悲しみの詰まった重さだった。雄太君が涙をいっぱいに溜めた目で、突然走り出した私を驚いたように見つめている。
 
 
「板垣さん…!?」
「黙って! お願いだから、何も言わないで!」
 
 
 何も考えたくなかった。仕事だとか金銭だとか、打算的な事を何一つとして思い出したくなかった。これが愛情なのか自己愛なのか区別が付かなくたっていい。私は、この子を助けたい。この子が殴られている事が耐えられない。たったそれだけで、こうする事の理由は十分だったんだ。
 
 
 途中で広間に寄る。ベビーベッドで寝息を立てる赤ん坊を一緒に抱き上げた。先生の姿はない。外に出ているのなら好都合だ。玄関を出て、助手席にバスタオルで包まったままの雄太君を押し込む。括られた両腕を解いて、その胸に赤ん坊を押し付けて叫んだ。
 
 
「絶対、離さないで!」
「板垣さん、何しようとしてんの!」
 
 
 雄太君の顔は、酷く青褪めている。歪んだ表情から覗くのは恐怖だ。それを振り切るように、私は奥歯を噛み締めて、雄太君の身体にきつくシートベルトを巻き付けた。運転席に回り込んで、エンジンをかける。微かに振動しながら唸りをあげる車は、まるで私のようだ。こめかみの血管がはち切れそう。
 
 雄太君が必死に「板垣さん板垣さん」と私の名前を繰り返している。その声をかき消すように、アクセルを思いっきり踏み込んだ。タイヤが空回る音がやけに鋭く響いた後、車が急発進する。激しい揺れに驚いたのか、雄太君が短い悲鳴をあげて、胸の赤ん坊を強く抱き締めた。
 
 まだ日の高い林道を、猛烈なスピードで車が走る。無我夢中でハンドルを握り締めたまま、私は頭の中で縺れ合った糸をほどくことだけは決してしなかった。少しでも理性を思い出せば、アクセルを踏む力が緩んでしまう。それは私がこの熱を自己愛だと認めることになってしまう。だから、私は絶対にアクセルを緩められない。
 
 助手席で雄太君がガタガタと震えている。
 
 
「とめて! 板垣さん、とめて!」
「イヤよ! 絶対に、イヤ!」
 
 
 悲鳴じみた応酬だった。金切り声が車内に充ちる。雄太君の足が恐怖にかられたようにダッシュボードを蹴り跳ばす。急なカーブで、雄太君の身体が助手席のドアにぶち当たって、鈍い音が響いた。見開いた目がハンドルに齧り付く私を凝視する。
 
 
「お願い、とめて! いやだ、いやだ、とめてッ!!」
「絶対に、絶対に、イヤよ! このまま逃げるの!」
「広本さんみたいに殺される!!」
 
 
 項の産毛が一気に逆立った。冷水を掛けられたように、全身の関節が硬直する。制止する間もなく、雄太君がサイドブレーキに飛び掛かる。叫ぶ暇もなかった。車が突然の強制ブレーキに耐え切れず、負荷の掛かったエンジンがギュルギュルと奇妙な音を立てて、タイヤが砂利の上を横滑りした。まるで遊園地のコーヒーカップのように車がくるくると回転して、車内で身体が振り回される。内臓が掻き回されるような不快感が込み上げて来る。そうして、体内に響くような衝撃。こめかみがサイドガラスにぶつかって、眼球の奥で弾けるような激痛が走った。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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