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13 逃げられない

 
 世界が酩酊する。ぼやけた視界の中、ハンドルからずるりと落ちる自分の手が見える。ハンドルで胸を打ち付けたのか、酷い二日酔いのような重苦しさを胸部辺りに感じた。噎せながら、隣へと視線を移す。助手席のシートに縋り付くようにして、雄太君が縮こまっていた。雄太君の身体に包まれるようにして、赤ん坊がごねるような声を上げている。怪我はしていないみたい。その光景に安堵する。
 
 
「雄太君…だいじょうぶ…?」
 
 
 シートからずり落ちた身体を引き上げると、こめかみが“ぢん”と引き攣れるように痛んだ。右手で探ってみると、熱を持って腫れ始めていた。雄太君が怯えた眼差しで、私を見つめる。
 
 
「い、たがき、さん、し、死んでない?」
「死んでない、よ」
 
 
 雄太君の眼球からぼろりと涙が零れ落ちる。恐怖を押し殺すように拳を噛んだまま、雄太君は小さな声で「よかった」と呻くように呟いた。
 
 
「板垣さんも、死んじゃったら、どうしようって思った」
 
 
 震えるその言葉に、悪寒が走る。雄太君は『板垣さん“も”』と言った。それに、雄太君は車を止める直前、何て言った?
 
 
「ゆ、雄太君、私も、ってどういう意味? さっき、広本さんみたいに、殺されるって」
 
 
 雄太君の目が見開かれる。私から視線を背けようとする顔を両手で掴んで、その目を覗き込む。
 
 
「ねぇ、教えて。どういう事? 広本さんは、殺されたの? 誰に?」
「や、めてよ」
「お願い、お願いよ、教えてちょうだい」
 
 
 縋るように言葉を紡ぐ。両手で挟み込んだ雄太君の頬は、ビックリするぐらい冷たかった。髪の毛はまだ湿ったまま、毛先から不規則に水滴を零している。その水滴が赤ん坊の額に落ちて、驚いたように赤ん坊が泣き声を上げた。雄太君は緩く赤ん坊を抱き締めたまま、あやそうとはしない。私は、赤ん坊を見下ろして、静かに呟いた。
 
 
「その子は、誰?」
 
 
 雄太君の肩が大きく跳ねる。赤ん坊を抱く腕が震えて、途端嫌悪を感じたように私の胸へと赤ん坊を押し付けてくる。もう触るのも耐えられないといった、まるで害虫でも追い払うかのような仕草だった。は、は、と短く息をつく音が聞こえる。
 
 
「弟なんかじゃない、って言ってたよね。じゃあ、この子は一体誰なの? 圭太君じゃないの?」
「圭太なんかじゃない!」
 
 
 アルミホイルを卸し金に擦り付けたような甲高い叫び声だった。雄太君の顔は青褪めながらも、確かな憎悪で歪んでいた。
 
 
「こんな、こんな奴、圭太じゃない!」
「じゃあ、誰?」
 
 
 訊ねた途端、言いよどむ。唇を数度ぱくぱくと上下させた後、雄太君は掠れた声で何かを呟いた。
 
 
「…ろ、……の、あ…ちゃん」
「え?」
「ひろもとさんのあかちゃん」
 
 
まるで物の名前でも呟くような乾いた声だった。皮膚の感触が一瞬なくなって、それから一気に毛羽立つ。胸に抱き締める赤ん坊が一気に重みを増したように感じた。きっと罪の重さだ。
 
 
「そんな、だって、広本さんの赤ちゃんなんて、だって、女の子よ」
「そいつは、女だよ」
 
 
 嘘だと思うなら、服脱がしてみたらいい。吐き出される言葉に、緩い赤子服を捲り上げる。そうして、あるべきものがないのを見て、私は目を大きく開いた。雄太君は掠れた呼吸音を零してから、何処か思い詰めた眼差しで私を見つめた。
 
 
「広本さんは、あの日、産まれたばっかの赤ん坊を俺に見せに来てくれた。だけど、その日も広本さんの前で、博文が俺を殴って、たぶんそれが限界で、広本さんは、板垣さんみたいに俺を逃がそうとしてくれた。いきなり車のトランクに押し込められて、車が発進して、ガタガタ揺れてトランクの中にいっぱい身体打ち付けた。痛くて暗くて怖くて、たくさん叫んでたら、いきなり猟銃の音が聞こえたんだ。そしたら、凄い音がして、頭ガンッって打って、起きたらトランクが開いてた。トランクから出たら、広本さんが―――」
 
 
 雄太君の唇が戦慄く。身体を包むバスタオルに鼻頭を押し付けて、泣き声にも似た声をあげる。
 
 
「広本さんがハンドルに凭れ掛かって、ぐったりしてた。頭が変な形に潰れてて、血が車いっぱいに溢れてた。傍には猟銃抱えた博文がいて、赤ん坊抱っこしてて……あいつ、俺に赤ん坊差し出して笑ったんだ」
 
 
 
『――圭太が戻ってきたよ』
 
 
 
 嗚咽が細い咽喉から溢れ出す。ぽろぽろと零れる涙を見ながら、私は身体から力が抜けて行くのを感じた。血の気がひいて、絶望にも似た倦怠感が重く身体にのしかかる。
 
 
「圭太は死んだんだ。お父さんとお母さんと一緒に、事故で。だから、そいつは圭太なんかじゃない。だけど、あいつが、あいつがこの赤ん坊は圭太だって言って、俺を縛り付けようとする。血も繋がってない赤ん坊を、弟だって繰り返して、俺がこいつを見捨てられないようにする。こんなの、弟じゃない。俺の圭太じゃない。それなのに、それなのに――」
 
 
 繰り言を呟いて、雄太君が泣きじゃくる。
 
 それなのに、雄太君は赤ん坊を見捨てられないのだ。自分を縛り付ける重荷を完全に疎むことも出来ず、そして心から愛することも出来ず、不器用に抱き締めるのだ。先ほどのクラッシュの時だって、この子は赤ん坊をしっかりと抱き締めていたじゃないか。自分の身体で包むようにして、全身で守っていたじゃないか。それなのに、雄太君は赤ん坊を愛していることを認められない。認めれば、本当に見捨てられなくなってしまうから。その矛盾があまりにも悲しかった。矛盾と鬱屈を抱え込んで、それに反発し、何処かで諦め、噛み砕いて呑み込もうとしている。この子はこんなにも小さいのに。
 
 
「広本さんは、あいつに殺されたんだ。俺を逃がそうとしたから。俺なんかに同情したから。だから、俺は逃げない。俺は、あの家にいる。ずっと、いる」
 
 
 雄太君の啜り泣きが聞こえる。雨粒のように落ちる涙を眺めながら、私は現実と悪夢がぐにゃりと融解していくのを感じた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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