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14 可哀想なのは誰か

 
 サイドガラスが叩かれる。背後で響くノックの音に振り返ると、焦燥した様子の先生が立っていた。走って来たのか、微かに息があがっている。その背には、猟銃が担がれていた。咽喉からヒッと鈍く悲鳴が零れる。雄太君がシートにしがみついて、怯えた眼差しを先生へと向ける。もう一度急かすようにガラスが叩かれる。先生が指先でウィンドウを下げろと示す。私は、脅迫されたようなぎこちない仕草でウィンドウを下ろした。途端、切羽詰まった声で先生が叫ぶ。
 
 
「大丈夫? 怪我はしていない?」
 
 
 その言葉を聞いて、込み上げて来たのは違和感だ。しかし、その数秒後には、白々しいと唾棄しそうになった。広本さんを殺したくせに、私を脅してきたくせに、今更『大丈夫?』なんてよく聞けたものよ。赤ん坊を抱えて車内から出ると、私と交代するように先生が車内へと潜り込んだ。外に出た途端、鋭い刺激臭が鼻を付いた。車の左後部が細い木にめり込んでいる。そっと車の下を覗き込むと、ガソリンがぽたぽたと滴り落ちていた。
 
 先生は、助手席で丸まる雄太君に手を差し伸べている。
 
 
「雄太、おいで」
 
 
 雄太君は震えるだけで、先生の手を取ろうとはしない。最後は殆ど焦れたように、先生が雄太君の腕を掴んで車外へと引っ張り出した。雄太君の全身を見つめ、バスタオルの上から小さな身体を胸に抱き締めて、緩く安堵の息を吐き出す。
 
 
「嗚呼、よかった無事で」
 
 
 先生は、雄太君の湿った髪の毛に指先を差し込んで、愛おしげに撫でた。一連の動作や台詞が先生のイメージにそぐわず、私は顔を顰めた。まるで父親のような仕草にも思える。しかし、それは可哀想な甥っ子を庇護する叔父を演じているだけのようにも見えた。先生が雄太君を抱き上げて、私へと向かって軽く顎をしゃくる。
 
 
「早く車から離れよう。火の気はないけど、いつ爆発するかも判らないからね」
 
 
 そう言って、足早に駆け出す。私はその後ろを慌てて追い掛けた。雄太君が先生の肩にしがみついたまま、取り憑かれたように車を凝視している。その濁った眼差しに、私は一瞬言いしれない恐怖を感じた。
 
 
 車が見えなくなったところで、先生の足が止まる。息を切らす私が落ち着くのを待ってから、ゆっくりとした足取りで歩き出す。その平静な様子に、私は不穏さを感じた。どうして、こうも落ち着いていられるのかが理解出来ない。それは、先生がこういった事態に遭遇するのが初めてではないという事の証明に思えた。
 
 
「頭を打ったの?」
 
 
 先生が横目で私のこめかみを見つめる。右のこめかみは相変わらず痺れるように痛む。はっとしたように顔を上げて、私は慌てて答えた。
 
 
「あ、はい」
「ちゃんと病院に行った方がいい。頭を打っても、すぐには症状が出ないことがあるからね。家に戻ったら、倉田君に電話して迎えに来てもらうよ」
「そ、そんな…」
 
 
 言葉が詰まる。先生は怒ってはいないのだろうか。私は雄太君と赤ん坊を連れて行こうとしたのに。それとも、先生はその事に気付いていないのか。そんなわけがない。それなら、家に帰ってから、私を始末するつもりなのだろうか。解らない、こめかみの痛みが思考を散らす。
 
 
「先生、広本さんの死体を、何処にやったんですか」
 
 
 自分でも予期せぬ言葉が唇から零れた。先生が肩越しに胡乱げな視線を向ける。
 
 
「君は一体何を言っているんだ?」
「誤摩化さないで下さい。私、全部警察に言います。それが嫌なら、雄太君を私にください」
 
 
 馬鹿げた交渉だと自分でも解った。声は必死で平静を保っていても、膝が笑っていた。先生が私の震える足へとちらりと視線を投げ掛けて、微かに苦笑を零す。
 
 
「雄太は可愛いお人形じゃないよ」
「貴方こそ、雄太君を人形のように扱っているじゃないですか」
 
 
 私の言葉に、先生が一度困ったように眉尻を下げる。駄々を捏ねる子供を宥めるようなその表情に、私は怒りが沸騰するのを感じた。
 
 
「答えてください。刑務所に入るか、それとも雄太君を手放すか」
「それじゃあ、答えようか。死んだって手放さないね」
 
 
 軽快な調子で返された言葉に、私は両肩をいからせた。だけど、振り返った先生の表情に、私の怒りは虚しく四散した。口調とは正反対に、先生の表情は酷く悲しげだった。泣き出しそうに歪んだ眼差しは、色濃い悲哀を滲ませている。
 
 
「雄太は死んでも手放さない。一生私の傍にいさせる。雄太にとっても、それが一番だ」
「どうして、一番だなんて言えるんですか。犯されて殴られて、そんなのが幸福なんですか!?」
 
 
 幸福という言葉に、先生がせせら笑う。しがみつく雄太君を抱え直して、眼差しを伏せて独白するように呟いた。
 
 
「可哀想なのは誰なんだろうか?」
 
 
 先生の声が空気に溶けて、寂しく消えていく。先生は自嘲するように肩を揺らした後、私に言った。
 
 
「警察に言うなら言えばいい。私は、いつでもその覚悟は出来てる。ただ、君が何を知らずにそれをしようとしているのであれば、傷付くのは私ではなく雄太の方だ」
 
 
 似たような言葉を聞いた覚えがある。込み上げて来る悔しさを噛み締めながら、私はきつく下唇を噛み締めた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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