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17 ウサギのシチュー *狂気表現有

 
「板垣さん、よかったらご飯食べてく?」
 
 
 キッチンから雄太君ののんびりとした声が聞こえて来る。その声にギクリと背筋が凍った。
 
 
「今日はウサギのシチュー作るんだ。俺のシチュー美味しいよ」
 
 
 鼻歌混じりの楽しそうな声なのに、私の心はどんどん冷え切って行く。不意に赤ん坊の泣き声が聞こえた。反射的に居間にあるベビーベッドへと視線を向けて、私は悲鳴をあげそうになった。
 
 ベビーベッドの中には、血まみれのウサギの死体が転がされていた。ここにウサギの死体があるなら、赤ん坊は、圭太君はどこ! 赤ん坊の泣き声は、ますます大きくなる。鼓膜が張り裂けそうだ。雄太君の声が耳元で蘇る。
 
 
『ウサギのシチュー』
 
 
 頭の中が一瞬真っ白になる。転がるようにキッチンへと駆け出す。血相を抱えてきた私を見て、包丁を持った雄太君がきょとんと首を傾げる。コンロの上で、大きな鍋がぐつぐつと煮え立っている。その隣、まな板の上で、裸の赤ん坊が四肢を振り乱して泣いていた。額から一気に汗が噴き出す。
 
 
「――圭太君!」
 
 
 無我夢中で、まな板の上の赤ん坊をもぎ取った。赤ん坊を抱き締める指先がぶるぶると震える。胸に抱き込んで、怪我がないことを確かめる。赤ん坊はふくよかな指先を口に含んで、ぐずぐずと鼻を鳴らした。雄太君が訝しげに私を見つめる。
 
 
「何言ってんの、板垣さん。シチューにすんだから返してよ、ウサギ」
「うう、うさ、うさぎなんかじゃないわだ。こ、これ赤ん坊よ」
「はぁ? 変なこと言わないでよ」
「ゆ、ゆうたくん、しっかりして。これ赤ん坊なのよ。な、泣き声だってあげてるじゃない」
「板垣さん、目が悪くなった?」
「ほ、本当よ。う、ウサギはベビーベッドのなかに、いるわ」
 
 
 包丁を片手にぶらさげたまま、怪訝そうに私を横目で眺めて、雄太君がベビーベッドへと歩いて行く。そうして、ベビーベッドを覗き込むと、よりいっそう不可解そうな眼差しで私を眺めた。
 
 
「赤ん坊、ここにいるじゃん」
「違うわ! それがウサギなの!」
「板垣さん、俺のことからかってる? 全然面白くないよ、その冗談」
「冗談なんかじゃない! 雄太君、おかしいよ!」
 
 
 叫んだ途端、雄太君の顔色が変わった。肌が真っ白になって、唇が一度戦慄く。瞳孔が大きく開いた瞳が私を凝視していた。
 
 
「お、おれ、おかしくなんかないよ。おかしいのは、いたがきさんだ」
 
 
 まるで壊れた機械のようなぎこちない声だった。雄太君の包丁を持つ手が地震でも起こったかのように、ガクガクと大きく震え始める。私は赤ん坊を抱き抱えたまま、豹変した雄太君を見つめていた。
 
 
「か、かえしてよ、うさぎ、かえして」
「ダメよ、返さない!」
「な、なんで、なんでジャマするの。お、おれのこと、きらいなの? いたがきさん、おれのこと、き、きらい?」
「違うわ、嫌いなわけない!」
「な、なら、ウサギ、か、かえしてよ」
「返せないわ! 雄太君、赤ん坊を殺す気なの!?」
 
 
 雄太君の顔が癇癪を起こした幼児のように、くしゃくしゃに歪む。
 
 
「こ、ころしたりなんかしない! おれ、なんにもころしたりなんかしない! おれ、いいこだから! おれ、おれ、いいこだもん! か、かえせよ! ウサギ、かえせ! ごはんつくれないじゃないか! ごはんつくれないと、わるいこになっちゃうじゃないか! おとうさんとおかあさんに、きらわれちゃうじゃんか! けいただって、おなかすくじゃないか! ばか! かえせ! かえせ! かえせよおぉ!!」
 
 
 稚拙で切実な叫び声だった。泣き出しそうな顔をした雄太君が包丁を大きく振り上げる。その時、自分が悲鳴をあげたかどうか解らない。目蓋の裏が真っ暗になって、赤ん坊の泣き声だけが聞こえてきた。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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