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18 いい子

 
 頬の上を、生温い液体が滑り落ちる。錆臭い臭いが鼻をついて、私は自分が刺されたんだと思った。だから、目を開いた時は、恐怖よりも諦めの方が強かった。それなのに、見えた光景は、私が思い描いていたものよりもずっと残酷だった。
 
 包丁の切っ先は、岬先生の肩口に埋まっていた。ぽたぽたと包丁の刃を伝って、赤い滴が零れ落ちている。赤い絨毯が血を吸い取って、更にその色を濃くする。先生は押し黙ったまま、包丁を握り締めている雄太君を見下ろしていた。雄太君は一度きょとんと瞬いた後、泣き出しそうに目を細めた。
 
 
「おれ、わるいこ?」
「ううん、雄太は悪い子じゃない。とても、いい子だよ」
 
 
 肩を刺されているというのに、先生の声は酷く穏やかだった。あやすように、雄太君の頭をゆっくりと撫でて、そっと微笑んでいる。その微笑みにつられるように、雄太君も嬉しそうに笑う。
 
 
「おれのこと、なぐってくれる?」
「うん、雄太がすきなだけ」
「おれのこと、抱いてくれる?」
「うん、雄太がすきなだけ」
 
 
 そこまで訊ねて、雄太君が甘えるように首を傾げた。先生を見つめる眼差しは、微かに不安げにも見える。
 
 
「おれのこと、すき?」
「雄太のことが世界で一番大好きだよ」
 
 
 雄太君の顔に、あのはにかむような笑顔が浮かぶ。小さな声で「うれしい」と囁いて、包丁から手を離して、まるで宝物を確かめるかのように両腕で自分自身をぎゅうと抱き締める。それから、先生の首に腕を回して「うれしいうれしい」と何度も繰り返し囁いた。先生がふふっと柔らかな笑い声をあげる。愛しくてたまらないとでも言いたげだった。
 
 
「私が誰なのか解らないくせにね」
「おとうさん、でしょ?」
「そうだよ、おとうさんだ」
 
 
 朗らかな口調だった。諦めて、悟って、そうして受け容れた声だと思った。先生は雄太君の身体をそっと抱き締めると、あやすように背中を数度優しく叩いた。雄太君が先生の胸元に頬を擦り寄せる。柔らかな頬に赤い色がこびり付く。
 
 暫くすると、先生に全てを任せるように雄太君の身体から力が抜けて行くのが解った。ゆっくりと目が閉じられる。眠りに落ちた雄太君を抱き抱えて、先生はソファへとゆっくりと座り込んだ。その肩には、まだ包丁が突き刺さっている。先生は弱り果てたように眉を顰めながら、呆然とへたり込んでいる私へと視線を移した。
 
 
「引き抜いてもらってもいいかな?」
 
 
 私はまた意識が飛びそうになった。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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