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19 愛された子供

 
 ぱっくりと菱形に開いた傷口から、真っ赤な肉が覗き見える。粘着く血をふき取る度にその鮮やかな赤が目に刺さって、心臓が嫌な感じに跳ねた。膝に眠る雄太君の頭を乗せたまま、先生がのんびりとした仕草で肩口の傷を覗き込む。
 
 
「骨に当たったせいか、思ったよりも深くはないみたいだね。動脈も外れているみたいだし、上等上等」
 
 
 まるで笑い事にでもするかのような口調に、私は顔を顰める。傷口に消毒液をしこたま振り掛けると、ようやく先生の顔が痛みに歪んだ。
 
 
「私にだって痛覚ぐらいある」
「そんなの知ってます」
「ならもっと優しくしてくれないか」
「笑えないことを笑えることみたいに言うのを止めて頂ければ、優しくします」
 
 
 つっけんどっけんな私の返答に、先生の口元がヘの字にへし曲げられる。
 
 
「君も良い性格になったものだね。前は私のことを、神か悪魔かと神聖化していたのに」
「おかげさまで、夢見る乙女モードが終わったみたいです」
 
 
 先生が笑い声をたてる。吃驚するぐらい子供っぽい笑い声だった。その時、私は初めて先生の人間らしい表情を見た気がした。そうして、今まで見てきた先生の姿の方が演技じみていたことに不意に気付く。穏やかさと残酷さと狂気を身に纏った悪魔ではなく、私の目の前にいるのは極普通の男性だった。
 
 目を見張る私を見ながら、先生が目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。
 
 
「いいね、君は編集者に向いてるよ」
「皮肉を褒めて頂いても、嬉しくありません」
「皮肉は人生のスパイスだよ。純粋に生きるよりも、ずっと面白い」
「私は、純粋に生きたいです」
「もう無理だよ。だって、君は真実を知ろうとしたからね。嘘よりも、真実はずっと皮肉じみてる」
 
 
 そう言いながら、先生は雄太君の頭を掌で緩く撫でた。思わず私は生唾を飲み込んだ。さっき起こったこと、異様な写真、雄太君の豹変、それら全ての理由を聞かなくちゃ、私は何一つとして納得することが出来ない。
 
 傷口にガーゼを押し当てて、包帯をキツク巻き付ける。先生は一瞬痛みに顔を歪めたが、包帯に滲む血を見ると、つまらなそうに顔を逸らした。
 
 
「病院に行かなきゃいけないかな」
「当たり前です」
 
 
 まるで生徒を叱り付ける先生のような口調で言うと、先生が楽しそうに笑った。そうして、先生は絨毯の上に散らばる、切り刻まれた写真へと視線を遣ると、何処か遣る瀬無さそうに溜息を吐いた。
 
 
「折角残っていたまともな写真だったのに。もう飾れないな」
「あれは、どうして…」
「君も見て解ったと思うけど、雄太は時々ああいった奇行に走るんだ」
 
 
 今回ほど酷いのは初めてだけどね、と肩を揺らして先生が笑う。笑えることじゃないだろうと、私はまた顔を歪めた。そもそも奇行どころか、あれは狂乱だ。あの時の雄太君は、間違いなく狂っていた。泣き出しそうな顔で包丁を振り上げた雄太君の姿を思い出す。先生の膝に頬を埋めて眠っている穏やかな姿からは想像も出来ない。恐怖が腹の底から湧き上がって来る。
 
 事務的な声で、先生が続ける。
 
 
「例えば、写真を黒く塗りつぶす。切り刻む。服を全部燃やす。階段から転げ落ちたり、自虐的なことをする」
 
 
 先生がふっと息をつく。
 
 
「そうして、赤ん坊をシチューの具にしようとする」
 
 
 淡々とした口調の中に、先生の苦悩が滲んで見えた。シーツの変えられたベビーベッドに寝かされた赤ん坊へと視線を移す。もしあのまま気付かなかったどうなっていたんだろう。雄太君は、赤ん坊をウサギだと思い込んだまま、包丁をあのふくよかな肉にめり込ませたんだろうか。切り刻んで、煮え立った鍋に放り投げて、スープの表面に浮かぶ小さな手足に気付かず――
 
 そこまで考えて、酷く気分が悪くなった。吐き気すら感じる。口元を押さえると、先生が「大丈夫かい?」と声をかけてくれた。
 
 
「どうして……どうして、そんな事になってしまったんですか」
 
 
 問い掛けた瞬間、先生の顔が苦々しそうに歪んだ。押し黙ったまま、机の上に置かれたままの写真の山から一枚を手に取ると、私へとそっと差し出した。写真を受け取る。そこに映っていたのは、二人の男女だ。
 
 
「私の兄夫婦だ。雄太の父親と母親」
「はい」
「こいつらが雄太を狂わせた」
 
 
 それ以上、語る事を拒絶するような端的な物言いだった。それでも、溜息を吐きながらも先生は続けた。
 
 
「解りやすく言えば、兄夫婦は雄太を虐待した。肉体的虐待と性的虐待。兄と義姉さんは雄太をサンドバッグ代わりに殴ったし、兄は雄太を犯した。信じられるか? 兄は、義姉さんとセックスするよりも雄太とセックスする回数の方が多いんだって、笑って私に言ったんだ」
 
 
 皮肉げに先生の口元が歪む。私はひゅっと息を呑んだ。
 
 
「先生は、雄太君が虐待されていることを知ってらっしゃったんですか」
「そう、知っていた」
「どうして、助けなかったんですか」
「その勇気がなかった。兄を告発すれば、私の作家としての生命が終るかもしれないと思うと、そんな事は言えるわけがなかった」
 
 
 自己保身という言葉が思い浮かぶ。皮膚が総毛立って、怒りが込み上げて来る。だけど、私には何も言えなかった。その感情は、私にも覚えがある。私だって、自己保身から雄太君を助けるのを一度は諦めようとしたのだ。
 
 先生は、口元に自嘲じみた笑みを浮かべている。
 
 
「それに、あの子はいつだって笑ってた。全身傷だらけでも、父親と母親から酷い言葉を投げ掛けられても、いつだって幸せそうに笑ってたんだ。だから、虐待といっても大したものじゃないんだと思っていた。あの子が大きくなれば、自然と虐待だって治まっていくと思っていた。それが、間違いだった」
「間違い、ですか?」
「兄夫婦が犯した最大の罪でもある」
「罪?」
「兄夫婦は、殴ることや犯すことを愛情だと雄太に教え込んだんだ」
 
 
 一瞬で血の気が下がる。頭から爪先まで凍えるように冷たくなった。頭の中で先生の言葉を繰り返す。そうして思い出したのは、先ほどの甘えるような雄太君の言葉だ。
 
 
『おれのこと、なぐってくれる?』
『おれのこと、抱いてくれる?』
 
 
 嗚呼、と咽喉から呻き声が勝手に零れる。何て、酷い。酷過ぎる。あんまりだ。
 
 だから、写真の雄太君はいつだって笑っていたのだ。傷だらけでも、殴られる直前でも、両親から殴られることを愛されていることだと思い込んでいたから。あんなに幸せそうに、まるで照れるみたいに、はにかんで。
 
 
「雄太の一部は、今でも殴られ犯されることを愛情だと思い込んでいる。だから、定期的に暴力を奮われないと精神が不安定になって、今回のような奇行に走るんだ。一種の愛情不足とも言える」
「…だから、先生は雄太君を殴るんですか?」
「言っただろう? 理由もなく人は殴れないって」
 
 
 先生が投げ遣りに笑う。まるで自分の言葉を嘲るような口調だった。私はごくりと生唾を呑み込んで、勢い込んで言った。
 
 
「でも、でも殴ることじゃ解決にはなりません。雄太君は、それ相応の病院に預けて、ちゃんとした愛情を知るべきです」
「そうだね。それが普通に考えることだ。だけど、君が思うほど上手くは行かないものなんだよ」
「どういう意味ですか」
「兄夫婦が死んでから、暫くは雄太は施設に入れられたんだ。そこで、今までの愛情が間違っていることを施設の人間に教え込まれたんだ。殴られるのも犯されるのも愛情じゃなくて、単なる悪意だと雄太は知った」
 
 
 先生の唇が一瞬戦慄く。視線は、まるで寄るべきところがないかのように宙を彷徨っていた。
 
 
「馬鹿馬鹿しい。何年間も身体に沁み付けられた愛情を、たかだか言葉で否定されたところで、誰がそれを信じることが出来る。雄太は自分の両親を否定されて、その瞬間に自分自身すら否定されたんだ。自分が愛だと信じていたものが愛じゃなかったと。両親に愛されていなかった事を知った子供がどうなると思う」
 
 
 苛立たしげな先生の口調は、まるで自分自身の心臓に杭を刺すような憎悪を滲ませていた。対面側のソファからでも、先生の身体が怒りに硬直しているのが解る。頬肉越しに噛み締められた奥歯すら。
 
 それから、先生は緩く息を吐き出すと、何処か虚脱したような様子で続けた。
 
 
「その時から雄太はおかしくなった。他人を拒絶したかと思ったら、まるで赤ん坊のように甘えたり。泣き喚いたかと思えば、裸で笑い回ったり。自虐的になったかと思えば、同じ施設の子供を殴り付けたり。極めつけは、あれだね」
「あれ?」
「雄太は、施設の子供の掌を鉛筆で刺したんだ。貫通するほどね」
 
 
 頬が引き攣る。自分自身の掌がぢんと痺れたような気がして、慌てて掌へと視線を落とす。そうして、想像する。掌に突き刺さった鉛筆の細長い棒、貫通して穴が空いた皮膚を肉を。
 
 
「施設の人間は雄太を責めたけど、雄太はどうして自分が責められているのかサッパリ解らないようだったよ。どうしてこんな事をしたのって聞かれて、雄太はこう答えたんだ。寂しいって泣いてたから慰めてあげたのに、どうしてみんな怒るの、って」
 
 
 鉛筆を突き刺すことが慰めること。そう考えた瞬間、二の腕に鳥肌が浮かんだ。
 
 
「当然施設の人間は、雄太の理屈を理解しない。そんな頭のおかしい子供は、施設に置いていられないから雄太は精神病院に送られた。突発的に奇行に走る雄太は、病院でもずっとベッドに縛り付けられていたよ。糞尿もまともに自分の意志で出来ず、食事だって流動食を流し込まれるだけで、あの子はずっと泣いてた。何で殴ってくれないのって、俺いい子にするのに、どうして犯してくれないの、って。私は見ていられなかった」
 
 
 先生の膝の上で、雄太君が小さく身じろぐ。一瞬ハッとしたように見つめて、それから慌てて私は視線を逸らした。今は雄太君を直視出来ない。先生が雄太君の頬をそっと撫でる。
 
 
「私は自分の罪を突き付けられているように感じた。これはすべて自分の無関心が生み出した結果だと思った。私があの子を見捨てなければ、雄太はこうはならなかった。病院のベッドに縛られて、殴って犯してなんて酷い言葉を吐くようなことにはらなかったはずだ」
「でも、それは……」
「仕方ないことかな? そう思えなかったから、君だって雄太を逃がそうとしたんだろう?」
「はい…」
「どんな言い訳をしようが罪は罪さ。それは変わらない」
 
 
 断罪するように先生は言い切った。それは先生が自分自身を裁いているようでもあった。膝頭の上で、きつく拳を握り締める。私は、先生を糾弾することも慰めることも出来ない。
 
 
「だから、私は雄太を引き取った。雄太への罪滅ぼしのつもりだったかもしれないし、あるいは自分への罰のつもりだったのかもしれない。だが、結局私は兄夫婦以上に酷いことをしているだけなのかもしれない」
「先生が雄太君を殴っているからですか?」
「兄夫婦だけでなく、今度はあの子の罪を見てみぬフリをしているからだ」
 
 
 先生の顔が一気に弛緩する。まるで亡霊のように生気がなくなって、顔色がぞっとするほど悪くなった。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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