Skip to content →

21 可哀想になるには

 
「雄太君はそのことを…」
「覚えていないよ。自分が狂っていることをあの子は知らない。私がすべてやったと思い込んでいる」
「でも、それは間違っています」
「だからといって、君はあの子に本当のことを言えるかい?」
 
 
 一瞬、自分の顔が泣き出しそうに歪んだのを感じた。そんなの死刑宣告に等しい。
 
 
「…言えません」
「私だって言えない。一生隠し通すよ。それがたとえ罪でも。家族や広本さんが自分のせいで死んだと知れば、雄太はきっともう二度と戻ってこない。きっと心が死んでしまう」
 
 
 寂しい口調だった。そうして、先生は不意に口元を皮肉げに歪めた。
 
 
「幾ら偽善ぶった大義名分を吐いたところで下らないね。私だって、この子を壊した人間の一人だ」
「でも、先生は雄太君のことを想って……」
 
 
 私の虚しいフォローに、先生は弱々しく首を左右に振った。
 
 
「私は、また雄太に偽った愛情を教え込もうとしている。この子は、今奇妙な二つの人格を行き来している。殴られることを拒絶する雄太と、殴られることを求める雄太と。このままでは、この子はいつか壊れてしまうかもしれないのに、それなのに私は雄太を手放せない」
 
 
 気付いたら、先生の声は頼りなく震えていた。唇に掌を押し当てて、先生は取り憑かれたように雄太君を見つめて呟いた。
 
 
「雄太を愛してるんだ。心から」
 
 
 先生の声は怯えていた。自分自身の愛情を持て余して、恐怖しているような姿だった。嗚呼、本当に囚われているのはこの人だ。その時、初めて理解した。
 
 
「私はね、殴って犯してと懇願する雄太に欲情したんだ。こんな小さな子を組み敷いて、好き勝手にしたんだ。罪悪感からでも義務感からでもない。私は、自分の意思で“そうしたかった”んだ。私も兄と同じだ。同じ、人間だ」
「…でも、先生は雄太君を愛してらっしゃいます」
「愛情に何の意味がある。君にも言ったはずだ。合意だろうが無理矢理だろうが雄太には関係ない。愛情があろうが愛情がなかろうが、雄太は理解しない。抱き締めても、愛してると囁いても、雄太に私の愛情は伝わらない。それが私への罰だ」
 
 
 先生が大きく吐き捨てる。既に諦め切ったような投げ遣りな口調だった。しかし、その言葉の端々には、未練じみた悔恨がこびり付いているようにも思えた。
 
 そうして、不意に顔をあげると、先生は言った。
 
 
「可哀想、という言葉があるだろう?」
「先生の、原稿に書かれていたあれですか」
「そう。あれは私のことを書いたんだ。雄太が虐待されているのを知っていながら、可哀想と言うだけ言って見捨てていた頃の私のことを」
 
 
 先生が唇に歪んだ笑みを浮かべた。
 
 
「可哀想という言葉は、所詮第三者の立場からの言葉だ。言っている人間は、所詮ろくにその悲しみを理解しちゃいない。責任を負うこともない。それじゃあ、その悲しみを理解するにはどうしたらいいと思う? 責任を負おうと思ったら?」
 
 
 先生の問い掛けは抽象的だった。先生の咽喉から転がるような笑い声が零れ出す。まるで調律の狂った楽器のような笑い声に、私は背筋を震わせた。
 
 先生が一度唇を閉ざして、それから酷くしわがれた声で呟いた。
 
 
「自分もその中に飛び込めばいい。そうすれば、自分もその一部で、可哀想だなんて口が裂けても言えなくなる」
 
 
 そう言って、先生はゆっくりと項垂れた。先生の膝の上では、相変わらず幸せそうな表情で雄太君が眠っている。その寝顔を見つめながら、私は『可哀想』という言葉をそっと思い浮かべた。
 
 

backtopnext

Published in 箱庭の少年

Top