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22 祈りの中で

 
 光が吹き抜ける。視界いっぱいのシロツメクサが風に揺れて、大きく左右に揺れる。まるで生きているかのような緑の躍動感に、雲一つない突き抜けるような青空に、溢れる光に、私は現実と空想の境目を忘れる。あの薄暗い屋敷の裏に、こんな明るい場所があるというギャップがより現実を希薄化させた。
 
 草原には何本か棒が立っており、それらを繋ぐように紐が張られている。雄太君が籠いっぱいのシーツを、その紐にかけている。その甲斐甲斐しく健気な姿からは、数時間前の狂乱した様子は欠片も覗けない。
 
 
 あれから数十分前に目覚めた雄太君は、自分が先生の膝で眠っていたことに露骨に顔を顰めた。先生の肩の傷を見ても、訝しげに首を傾げるばかりで、先生の「転んで花瓶を割ってしまってね。その破片が刺さったんだ」という陳腐な嘘に対して「あんた、案外とぼけてるよな」という皮肉一つしか返さなかった。そのことに、私は微かなショックを受けた。だけど、私の唇が言葉を刻むことなかった。
 
 そうして、雄太君は昼を過ぎていることに驚き、慌ててシーツを干し始めたのだ。今日は天気がいいから布団ぽかぽかにするんだ、と笑って言う雄太君の無邪気さが私にはより悲愴に見えて堪らなかった。
 
 空っぽになった籠を抱えて、雄太君が右足を引き摺りながら近付いて来る。赤ん坊を抱き締めたままぼんやりと突っ立っている私を見上げて、首を傾げた。
 
 
「どうしたの? 何か元気ないよ?」
「雄太君――酷い真実を言うのと、優しい嘘を言うのと、どっちが正しいのか判らないの」
 
 
 曖昧な私の問い掛けに、雄太君はどうしてそんな事を聞くのかと言わんばかりに眉根を寄せた。少し悩むように首を捻ってから、ゆっくりと私を見つめる。
 
 
「何が正しいとか正しくないとか解んないよ。算数じゃないんだからさ、たぶん正解なんてないよ」
 
 
 答えをぼやかしながらも、正当な意見だった。雄太君は両手に持っていた籠を片脇に抱えると、そっと手を伸ばして、私の腕の中で眠る赤ん坊の額をそっと撫でた。
 
 
「知らなくちゃいけないけど、知りたくないことだってあるよ」
 
 
 そうぽつりと呟いて、寝息を立てる赤ん坊をいとおしげに見つめる。私は、その姿に心臓を引き絞られるのを感じた。
 
 
「ねぇ、広本さんの赤ちゃん、私が引き取ってもいいかな」
 
 
 唇から想像していたよりも自然に言葉が零れた。真剣に考えてはいなかったけれども、口に出した瞬間、それが一番最善だと心の中で自分が頷いた気がした。雄太君は一瞬驚いたように目を見開いた。
 
 
「いいの?」
「うん、いいの」
「大変じゃない?」
「きっと大丈夫よ」
 
 
 わざと楽観的に答えて、笑顔を浮かべる。雄太君は暫く逡巡するように視線を彷徨わせていたけれども、最後には寂しそうに笑って頷いた。
 
 
「板垣さんなら、いいよ。じゃあ、俺、本当のこと言うよ。そいつのこと、圭太とは思えなかったけど、嫌いじゃなかった。オムツ換えとか大変だったし、離乳食口からだらだら零すのも腹が立ったけど、抱っこして寝るとすごくあったかかったから」
「知ってるよ。だって、いつも大事そうに抱きしめてたもの」
 
 
 そう返すと、雄太君は少し顔を赤くした。手の甲で頬を擦って、バツが悪そうに視線を逸らす。
 
 裏口が開く音が聞こえた。肩に巻かれた包帯を誤魔化すためか、先生は細身な体型に似合わないぶかぶかなシャツを着ていた。草原に、まるで旗のようにたなびく白いシーツを見て、先生が眩しそうに目を細める。
 
 
「三時のお茶でもしないかな」
 
 
 のんびりとした仕草で、片手に抱えたバスケットを掲げる。中には、ビスケットやマシュマロが見える。それから、水筒と哺乳瓶が入っていた。そうして、プラスチック製のカップが三つ。そのカップの数に、私は無性に嬉しくなった。
 
 
「良かったら、板垣さんも一緒に」
 
 
 にっこりと微笑んで、先生が白いシーツの合間を通り抜けて、見晴らしの良い場所へと歩いていく。光に照らされた後姿を見つめて、雄太君がぽつりと零した。
 
 
「板垣さん、変だと思うかな?」
「何が?」
 
 
 戸惑った表情で雄太君が私を見上げる。
 
 
「俺さ、博文に殴られて、痛いし、腹が立つし、いつもすごく嫌だって思う」
「…うん」
「だけど、あいつのこと嫌いだって思ったことは一度もないんだ」
 
 
 涙が溢れそうになった。咄嗟に蹲って、腕の中の赤ん坊をぎゅうと抱き締める。その時、私の身体に溢れた感情を、表現する言葉を私は知らない。殆どそれは信仰心に近かった。神様、神様、私は心の中で必死に叫んだ。
 
 
「板垣さん、どうしたの?」
「雄太君は……先生のことが好きなんだよ」
「そんなわけないよ」
「そうなの。お願い、そうだって言って。嘘でもいいから。今だけでもいいから」
 
 
 懇願する私に、雄太君が困り果てたように眉尻を下げる。お願いだから、あの可哀想な人を少しでもいいから愛して欲しい。どれだけ君を好きでも、私は君と一緒にいることはできないから。
 
 
 私は、貴方達の中に入っていくことはできない。
 私は、可哀想の一部になることはできない。
 それを、私は痛いくらい解っている。
 
 
 空っぽの籠を草の上に置いて、雄太君が困惑したように先生の歩いていった方を見つめる。そうして、ゆっくりとしゃがみ込むと、私の耳元に囁くように言った。
 
 
「俺、板垣さんのこと “も” 好きだよ」
 
 
 耳朶に掠めるような淡い声だった。それは、きっと彼が譲歩したうえでの先生への精一杯の告白だったんだろう。
 
 身を翻して、雄太君がシーツの波の向こうへと消えていく。込み上げて来る、この感情を恋とも愛とも表現できない。喜びとも悲しみとも。眼球が潤んで、目の前の光景がぼやけて見える。まるで水底から太陽を見上げているような。
 
 
 
 
 揺れるシーツの隙間から、先生と雄太君が向かい合うようにして立っているのが垣間見えた。雄太君は数本のシロツメクサを握り締めている。それを躊躇うような手付きで、先生の胸にそっと押し当てる。まるで愛の告白でもしているかのような光景だった。先生は、胸元に押し当てられた白い花をそっと受け取って、心が震えるような笑みを浮かべた。雄太君が先生の笑みを見上げて、そうしてゆっくりと微笑む。はにかむような――
 
 
 
 
 空気は澄み渡り、光は満ち、草原は穏やかに揺れている。それは途方もなく美しく、やさしい光景だった。それなのに涙がとまらない。どうしてだか、涙がとまらない。
 
 

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Published in 箱庭の少年

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