Skip to content →

01 こころ

 
 雲一つない青空に、真っ白なボールが吸い込まれていく。直線的に飛んでいく白球を見上げて、健一は鬨の声を上げた。
 
 悲鳴じみた叫び声を上げながらバットを放り投げ、右の爪先で地面を思いっきり蹴り飛ばして走り出す。二塁三塁に留まっていた仲間達も、健一と同時に駆け出すのが視界の端に映る。
 
 
 逆転満塁ホームラン、春日タイタンズの優勝だ。
 
 
 頭の中でそんな言葉を思い浮かべれば、どくんと音を立てて、心臓が弾けそうなぐらい高鳴った。太陽に焦がされた皮膚から、一気に汗が噴き出してくる。最終打席に立って、冷汗をかいてバットを握っていたつい先程とは全く違う、脂じみた興奮の汗だった。
 
 最後は土を大きく撒き散らしながら、片手を振り上げてホームへと帰還する。チームメイト達の歓声が、ファンファーレのようにグラウンドに響き渡って、次の瞬間には無数の手で汗まみれな身体をもみくちゃにされた。
 
 
「泉すっげぇ! マジすげぇよ! 逆転優勝だよ! マジすっっげぇ!」
 
 
 馬鹿みたいに「すっげぇ」を繰り返す佐々木伸樹に頭をぐしゃぐしゃに掻き乱されながら、健一は一気に破顔した。興奮に我を忘れたチームメイト達に身体を叩かれたり、抱き締めたりされながら、健一は顎先を空へと向けて叫んだ。
 
 
「春日タイタンズ優勝ー!」
 
 
 間髪入れず、チームメイト達が同調の雄叫びを返してくる。ぎらぎらと輝く太陽を見上げて、健一は自分は今世界の中心にいるんだと思った。
 
 
 
 
 
 
「でも、すっげぇよな。お前、あの超プレッシャーな状況でよくホームランなん打てたよな。オレ、マジ泉のことソンケーするし」
 
 
 試合が終って三時間以上も経つというのに、飽きもせずそう繰り返す伸樹の横顔を見遣りながら、健一はにやりと笑みを浮かべた。
 
 
「そうだろうがー。オレってマジ天才。ホームラン打った時んこと思い出すだけで、すっげぇゾクゾクするー」
「オレもゾクゾクするー」
 
 
 夕暮れ時、住宅街の道の真ん中で二人して身体をブルブルと小刻みに震わせながら、堪らないといった様子でその場で地団太を踏む。
 
 実際ホームランを打った後から、思い出したように健一の腕は震えていた。
 
 ボールを空へと吸い込ませた瞬間、時速八十キロで近付いてきたボールの圧力が一瞬で腕にずしりと圧し掛かって、それが唐突に軽やかに吹き飛ばされる感触。一瞬の喪失感と吹き抜けるような爽快感。突き刺すような太陽に青空を思い出すと、足先から頭の天辺までぞわぞわと総毛立つ。歓喜が極まると、精神よりも肉体の方が正直になるのだと健一は今日初めて知った。そうして、その事実にわけもなく嬉しさを覚えた。
 
 
「逆転ホームランしたときのオレの写真ちゃんと撮ってっかなー。オレ、絶対百枚は買うし」
「百枚は多いだろー。部屋中自分の写真だらけのナルになっちまうよー。気持ち悪ぃー」
 
 
 調子に乗った健一を、伸樹が的確にツッコんでくる。だけど、そのツッコミの端々にも、隠し切れない喜びの色が覗いていた。
 
 
『春日タイタンズ優勝』
 
 
 その一言を繰り返す度に、この場で踊り出したくなるぐらいの歓喜が身体中から溢れ出してくる。小学生最後の夏、健一達のチーム『春日タイタンズ』は関東ナンバーワンのチームになった。
 
 小学一年生の時に入団して、この六年間の殆どを野球に捧げたといっても過言じゃない。それぐらい健一も伸樹も野球に打ち込んできた。健一は今年の春、野球部主将になり、伸樹は副主将になった。
 
 練習量だって半端じゃなかったと自負できる。それこそ毎日一日も休まず、朝から晩まで野球のことしか考えなかった。――それは言い過ぎか。十%ぐらいは女の子のことを考えた。
 
 だが、この六年間一番握り締めたものはバットとボールとグローブだと言い切れる。手はマメだらけで、顔も身体も擦り傷が絶えたことはなく、監督にヘタクソだの野球やめちまえだのと罵られて、それでも頑張れたのは関東大会優勝という明確な目標があったからだ。そうして、六年目にして悲願の優勝を果たした。これで平静でいられるものか。
 
 表彰直後に、一抱えもある優勝カップを伸樹と一緒に抱えながら、健一は十二年間生きてきて初めて嬉し泣きというものをした。顔面を涙でぐしゃぐしゃにさせて、伸樹を見れば、伸樹も鼻水を垂らしながら泣いていた。お互いの泣き顔に噴き出して笑って、また泣いた。
 
 
「明日は山やんが焼肉おごってくれんだよなー。すっげー楽しみ」
 
 
 両腕を頭の後ろで組んだ伸樹が呟く。
 
 山やんは春日タイタンズの鬼監督だ。この世の不幸全てを背負ったような腫れぼったい目にへし曲がった唇、四角くエラばった輪郭。
 
 鬱憤を晴らすように部員を罵る怒鳴り声は大層不愉快で仕方なかったが、優勝の雄叫びを聞いた瞬間、地面にぼたっと染みを作った山やんの大粒の涙を見て、健一は今までの山やんを許そうと思った。エラーをしてぶん殴られ、口の中までも切れて、暫く味噌汁が食えなかった事も。飼っていた犬が死んで、傷心の健一に対して「たるんでる!」とグラウンドを泣きながら三十周も走らせた事も。全部全部許してしまおうと思ったのだ。それぐらい山やんの涙は希少だった。
 
 
「山やん、泣いてたよな」
「うん、あの山やんがなー。鬼の目にも涙。鬼の撹乱。泣いた赤鬼」
「全部鬼じゃねーか」
 
 
 御決まりなツッコミを入れれば、伸樹がヒャヒャッと笑い声を上げて、軽やかに跳ねた。肩に掛けたスポーツバッグが太腿に当たってバタバタと音を立てる。よく見れば、伸樹の目も鼻も、夕暮れが理由だけじゃない赤に染まっている。たぶん、健一の顔も伸樹と同じ状態だろう。
 
 健一と伸樹を、今通りすがりの人間が見れば、兄弟だと勘違いするかもしれない。それぐらい、たぶん今の健一と伸樹は似ている。普段から健一と伸樹は、短い黒髪に吊り上った黒い瞳、年相応に生意気で可愛げのない風貌といい、存分似ている部分はあるが、今はたぶん心まで似通ってる。
 
 今一番自分のことを解っているのは伸樹だと、健一はふと思った。そうして、その考えに自分で満足して、くすぐったさに頬を緩めた。
 
 人気のない住宅街は夕日に照らされて、家も道路も赤く染まっている。遠くから午後六時を知らせる音楽が流れてきた。後、十数メートルの場所に伸樹の家が近付いてる。
 
 
「そんじゃ、また明日」
 
 
 そわそわと落ち着かない様子で伸樹が言う。視線が健一へと向けられたかと思ったら、直ぐに逸らされてしまう。逸らされた先を見ても、そこにあるのはコンクリート製の住宅の壁で、薄っすらとカレーの匂いが漂ってくるだけだ。
 
 
「じゃ、また明日な。明日は山やんの金で豪遊だ。肉食いまくろうぜー」
「山やんのことだから、野菜しか食わしてくんねーんじゃねぇ? お前らの健康のためだ、とか言ってさぁ」
「うっわー、それってすっげぇ卑怯じゃねぇ?」
「うん、すげぇ卑怯」
 
 
 『ツッコミ冴えてねぇよ』と言おうとした瞬間、瞬きをする間もなく、伸樹が思いがけぬ力強さで健一の身体を抱き締めていた。健一の肩をへし潰す勢いで抱き締めてくる伸樹の腕に、息が止まりそうになる。
 
 
「あのさぁ、すっげぇ臭ぇこと言うし、似合わねぇこと言ってみるけどさぁ、オレ、お前と一緒に野球やっててよかったって今日本気で思った。お前とダチでよかったって」
 
 
 胸の隙間にゆるゆると浸透してくるような伸樹の台詞に、心臓が小さく鼓動を揺らした。こんな青春ドラマみたいな陳腐な展開は大嫌いだ。だけど、抱き締めてくる伸樹を冗談で切り返せない。だから、何よりも正直に鼓動が答える。
 
 
「オレも、なんか思った」
 
 
 声が震えるのは、きっと嬉し過ぎるせいだ。それとほんの少しの緊張。
 
 視線の直ぐ横に見える伸樹の項から、汗と泥の臭いが感じられた。決して不愉快じゃない臭い。何処かの家から匂ってくるカレーの匂いと混じって、それは健一の日常の一部となる。その項を右手で、左手で伸樹の背中を抱き締めれば、伸樹の体が小さく反応した。耳元にはっきりとした声で返す。
 
 
「中学入っても、ゼッテー一緒のチームに入ろうな。オレ、お前と野球やってんのが一番楽しい」
 
 
 言っていて、何だか告白じみている気がして、健一は微かに頬が熱くなるのを感じた。
 
 来年には健一も伸樹も中学生になる。周りの環境は、きっと健一が思っている以上にめまぐるしく変わっていってしまうだろう。だけど、伸樹との関係だけは変わらないと思った。変わらず二人で野球をしている姿が脳裏に浮かんで、それは紛れもない未来だと信じられた。
 
 ゆっくりと抱き締めていた手を離せば、伸樹が髪の毛を指先で掻き乱しながら小さく照れ笑っているのが見えた。そのまま照れ隠しのつもりなのか、健一の髪の毛をくしゃくしゃと撫でて、自宅玄関へと向かって駆けて行く。
 
 バタンと閉まるドアの音を聞いて、そこで健一の記憶は途切れた。夕焼けの記憶が終わる。
 
 

< back ┃ topnext

Published in catch1

Top