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02 目

 
 目が覚めたら、身体はさらりとした闇に覆われていた。いつの間に寝てたんだ、と健一はぼんやりと思った。
 
 伸樹と別れた後、自宅に帰った覚えはない。本当に、不自然なぐらい欠片も覚えていない。記憶を忘れるぐらい、自分は関東大会優勝に浮かれてたのか。
 
 そんな事を思いながら、身体を包んでいた布団からのろのろと起き上がれば、途端痺れるような鈍痛が脳天を走り抜けた。
 
 思わずこめかみを掌で押えて、掠れた呻き声を漏らす。何だよ、頭痛だなんて風邪でも引いたのか。この六年間、風邪を引くどころか体調を崩したことすらないって言うのに、優勝した途端に気が抜けたのだろうか。
 
 取り留めの無い思考を巡らせながら、次第に暗闇に慣れ始めた視界を辺りへと巡らせる。一番始めに不審に思ったのは視線の低さだ。健一の寝床はベッドで、床よりも一段高いはずなのに、今寝ている位置は床に敷かれている布団の上だった。
 
 それに、フローリングが畳に変わってる。部屋も広くなってる。健一の部屋は六畳だったけど、この部屋は十畳以上はありそうだ。ついでに言えば、壁に貼っていたイチローのポスターだってない。代わりのように、高そうな掛軸と白い花が活けられた花瓶が飾られている。
 
 それ以外には何も無い。簡素というよりも、ぽっかりとした味気ない空間だ。
 
 
「どこだ、ここ」
 
 
 呟いたら、思いがけず心臓の内側でむくっと不安の芽が生まれた。つま先が冷えて、ぞわぞわとそこから冷気が這い上がってくる感覚。見知らぬ場所に一人だけ放り出されてしまったような不気味な気分だ。
 
 冷たくなった足先を布団の内側に引き寄せて、体育座りでじっと蹲る。
 
 ちょっと待った、良い方向に考えよう。例えば、伸樹と別れた後、唐突に貧血か脳溢血か何かで倒れた健一を、通りすがりの優しい誰かが助けて、自宅で看病してくれている。ちなみにその通りすがりの優しい誰かは、美人なお姉さんか可憐な美少女である。
 
 もしくは先程の大会での健一の活躍を見ていたプロのスカウトマンが、興奮冷めやらず健一を連れ去り、これから巨人に入るか阪神に入るかの交渉にうつる、とか。
 
 考えれば考える程、こめかみに走る鈍痛がガンガンと脳髄を揺さ振ってくる。
 
 とりあえずは動かなくちゃ何も解らない。安直な結論を出して、廊下に面しているらしき障子を開くことを第一目標とした。
立ち上がると、脳味噌から足先まで眩暈が流れ落ちて、ぐらっと身体が左右にふらついた。
 
 立ち上がって、ようやく気付いた。服が野球のユニフォームから白い着物に変わってる。死人が着せられてる服みたいだと思って、健一は小さく皮膚を震わせた。
 
 足先がふらつくせいか、五メートルも離れていない障子がやけに遠く感じる。障子までもう少しで手が届くという所で、不意にすぱっと切るような勢いで障子が開いた。
 
 
「う、わっ!」
 
 
 その唐突さに、唇から見っとも無い悲鳴が零れて、足が縺れた。そのまま後ずさるように尻餅を付けば、再びこめかみに鈍痛が走った。
 
 
「大丈夫?」
 
 
 頭上から男の声が降ってくる。母親が大切に着ているシルクのパジャマのような、風が擦れ違いざまに産毛を撫でていくような声。柔らかさを具現化したような理想的な声だと不意に思った。
 
 尻餅を付いたまま見上げれば、思ったよりも大きな影が見えた。威圧的ではないが、包むというよりは覆うといった雰囲気の影で、声のような優しげな印象は抱けなかった。
 
 呆然と見上げていれば、もう一度「大丈夫?」と繰り返された。
 
 
「だ、大丈夫、だけど、あっ、あんた誰? こっ、ここ、どこ?」
「あぁ、初めまして、僕はアガツママスミと言います。ここは僕の家だけど」
 
 
 しどろもどろな質問に丁寧に返事を返してくれる男に、健一は少しだけほっとした。視線の高さを合わせるように、男がその場にしゃがみ込む。
 
 顔立ちから見るに、男の歳は二十代前半といったところだろうか。冬眠から目覚めたばかりの小熊のような、ぼんやりとした穏やかな顔立ちをしていた。ノンフレームの細身の眼鏡が似合っている。職業に当て嵌めるとするならば、田舎の小学校教師だ。その優しげな風貌に意味もなく安堵する。
 
 
「あがつま、さん?」
「マスミでいいよ、健一君」
 
 
 初対面の人間に真澄で良いと自分の名前を呼ばせようとする気安さも気になったし、いとも簡単に口に出された自分の名前に、消えかかっていた不審の芽が頭をもたげるのを健一は感じた。何で知ってるんだ、という視線を送れば、苦笑いを浮かべた吾妻が『違う違う』と言いたげに胸元の前で軽く手を振った。
 
 
「ユニフォームに名前が縫い付けてあったから。あ、勝手に着替えさせちゃってごめんね。泥だらけだったから、そのまま寝かせられなくって。今洗濯してるから」
 
 
 泥だらけという吾妻の一言を聞いて、健一の頬に一瞬羞恥の赤が滲んだ。確かに泥だらけな姿でこの真っ白な布団には寝かせられないだろう。それに、自分が汚したものを他人に洗ってもらうというのは、何だか居た堪れなかった。
 
 
「ご、ごめんなさい、ユニフォームまで洗ってもらって」
「構わないよ。それより、頭は痛くない? ずきずきするんじゃない? 服が乾くまで寝てるといいよ」
 
 
 どうして、健一が頭が痛いことを吾妻が知っているんだろう、と思うよりも、その無償の優しさに申し訳なさを覚えた。
 
 
「でも、もう夜みたいだし、早く帰んないとお母さんが心配するから。この服貸してもらえたら、明日服もらいに来ます。これもちゃんと洗って返すんで」
「その服で帰るの? 夜道にそれじゃあ、お化けだって思われちゃうんじゃない?」
 
 
 声を潜めるようにして笑う吾妻の姿に、思わず『あんたが着せたんだろう』と不服を申し立てたくなる。だけど、あんな泥まみれな服をわざわざ洗ってくれている人に対して、こんな事で文句なんて言えるわけもなく、健一は眉尻を下げて押し黙った。
 
 
「健一君の家ってどこなの?」
「あ、東戸の三丁目、です」
「それなら、ここのすぐ近くだ。ユニフォームが乾いたら、ちゃんと車で送って行くから大丈夫だよ。車なら十分もかからないからさ」
「いいです、オレ歩いてかえります。そこまで迷惑かけらんないです」
「迷惑だなんて…僕ってそんなに信用ならないかな?」
 
 
 繰り返される押し問答に、吾妻の笑みがまた困ったものへと変わった。実際口に出して「困ったなあ」と呟いている声も聞こえる。
 
 
「そんなことは、ないけど」
「けど?」
「姉ちゃんがタダより高いものはないって」
 
 
 もごもごと言い淀みながら口に出せば、吾妻が苦笑いを深くした。疑い深い健一にどう対応して良いのか、考えあぐねているようにも見えた。
 
 
「確かに、タダより高いものはないね。じゃあ、いつか何か健一君にはお礼をして貰うよ。それで良い? こんな夜に健一君ひとりで帰らせて、何かあったらと思うと、僕も気になるから、ね? 僕が送らせて欲しいんだ」
 
 
 そこまで言われれば、もう反論どころかぐうの音一つ出なかった。折角の好意を断り続けるのも気分を悪くさせるだろうと思って、健一は結局「はい」と返事を返した。
 
 先程まで横たわっていた布団へと潜り込めば、暫く話し相手でもしてくれるつもりなのか、吾妻はその横に正座をしてきた。その視線に微かな居心地の悪さを覚えなる。せめて電気だけでも点けてくれれば良いのにと思いながらも、そこまで図々しいことは言えなかった。
 
 
「健一君は野球が好き?」
 
 
 唐突に始まった世間話に、健一は緩く双眸を瞬かせた。
 
 
「え?」
「ユニフォームが泥だらけだったから、そんなに好きなのかなって思って」
「うん。すっげー好き、です。オレのチーム、今日関東大会で優勝したんだ。最初は負けてたんだけど、最後の最後でオレがホームラン打って、逆転優勝。オレ、滅茶苦茶うれしかった。チームメイトの伸樹と、中学校行っても一緒に野球やるって約束もしたんだ。オレ、野球がすげーすき、です」
 
 
 聞かれてもいない事まで答えると、吾妻の顔がじんわりと歪んでいくのが見えた。穏やかな表情が嫌悪とも悲哀とも付かない形に歪んでいく。泣き出しそうな表情にも見えて、健一は一瞬どきりとした。
 
 
「野球が世界で一番好き?」
「うん、お父さんとかお母さんとか姉ちゃんとか伸樹とか好きなヤツいっぱいいるけど、やっぱり野球が一番だと思う」
「女の子で好きな子はいないの?」
「…何でそんなこと聞くの?」
 
 
 半ば不躾とも無神経とも思える吾妻の質問に、健一は怪訝に眉を顰めた。多感な年頃の少年に対して、会ったばかりの人間が訊ねることじゃない。
 
 仰向けに寝転がったまま、吾妻を軽く睨み付ければ、困ったように吾妻が笑うのが見えた。その笑顔は微笑みというほど優しげには見えなかった。むしろ嘲笑に近い。
 
 
「さぁね…その好きなモノが全部無くなったら健一君はどうする?」
「そんなの…わかんないよ。考えたことないし、……ねぇ、何でそんなこと聞くの?」
 
 
 もう一度訊ねると、吾妻は答えぬまま口元の笑みを深めた。その笑みに、健一の肌は小さく震えた。冷えたシルクに首筋を撫でられたような、静かな怪しさがある。
 
 
「あがつまさん?」
「マスミでいい」
 
 
 シルクの声が一瞬赤錆のような冷たくてざりざりとした響きに変わって、健一は驚きに目を瞬かせた。突き放すような声音に、焦燥が生まれる。説明できない恐怖が脊髄を這い上がって、脳味噌へと警告を発していた。逃げ出さなくちゃいけない、逃げ出せ、逃げろ、逃げろ、脊髄が喚き散らす。
 
 そうして、一番大事なことを吾妻に聞いていないことに気付いた。
 
 
「ますみさん、オレ、どうしてここにいるの?」
 
 
 そう問い掛けた瞬間、暗幕に包まれたように再び目の前が暗闇に覆われて、何も見えなくなった。
 
 暗闇の中で「何でそんなこと聞くの」と、先程自分が言ったのと同じ言葉が悲しそうな響きで聞こえて、布団の柔らかなうねりに飲まれるように、小さく消えた。
 
 

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