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03 あい

 
 暗闇に覆われたと思ったら、身体は大きな影に押し潰されていた。
 
 自分よりも大きな身体が圧し掛かってきて、苦しいと思うよりも前に、その状況の気色悪さに鳥肌が立った。布団越しにずっしりと感じる肉の重みと、首筋にかかる生ぬるい吐息が気味が悪い。その吐息の意味を知る程、健一は大人ではなかったけれども、その確かな不快感だけは感じ取っていた。
 
 
「な、なにっ? ちょ、重たい。ますみさん、重い!」
 
 
 焦燥と混乱が思考を掻き乱す。胸元に乗っている吾妻の肩を両手で押し返しても、吾妻の身体はびくともしない。布団の中で両足が溺れたように藻掻く。
 
 掴んだ肩関節の硬さに、健一の心臓は跳ねた。自分の未成熟な身体とは違う、硬く骨太な大人の身体だ。今まで自分が本気になれば、適わないものなんてないと思っていた。象にだって勝てるとさえ思っていた。だけど、今目の前の肩を押し退けれるかといえば、きっと無理だ。歴然とした力の差を骨の硬さから感じ取り、力で適わないというのが無性に恐ろしくて健一は声を張り上げた。
 
 
「バカ、どけよ!」
「思ったんだけど」
 
 
 ヒステリックな叫び声を上げた瞬間、耳朶を擽るように吾妻が囁いた。耳の穴に直接息を吹き込むような話し方に、背骨が細波を打つ。
 
 
「思ったんだけど、僕は健一の好きなものや好きな人を残らず壊してしまいたいのかもしれない。健一の家族も友達も、全部健一の目の前で叩き潰して、犬の餌にしてやりたいよ」
 
 
 当たり前のように健一と呼び捨てられることに不安を覚える。
 
 吾妻が何をしたいのかが解らない。どうして自分に対して、こんな事をするのか。どうしてそんな酷いことが言えるのか。
 
 吾妻の背中から真っ黒な悪意が暗闇に溶け出しているように見えて、その瞬間健一は吾妻が怖いと思った。今まで会った誰よりも、目の前の男が怖い。
 
 
「なんで、そんな酷いこと言うんだ。おれ、おれ、ますみさんに何もしてない! なんにもっ! も、もし、悪いことしたなら謝るから、もう家に帰してよ! おれ、いっ、家に帰る!」
「ここが家だよ」
 
 
 吾妻が何を言っているのか解らなかった。ただ嬉しそうに唇を歪めた吾妻の微笑みを見て、健一は吾妻がそれを本気で言ったことを理屈ではなく感じ取った。
 
 次の瞬間、悲鳴を迸らせようとした健一の唇は塞がれていた。重なった吾妻の唇は乾いていて、ざりざりとした砂のような感触がした。
 
 こんなの嘘だろ、と呟く自分の涙声を脳味噌の隅で聞いた。こんなファーストキス冗談じゃない。信じられない。相手は年上の男で、しかもちょっと頭が可笑しい奴に無理矢理もぎ取られるようにして奪われた。
 
 ざりざりとした感触が唇の形をやんわりと辿るのに、健一は身を捩った。目を固く閉じて、噛み締めた歯列の奥から拒絶の呻き声を漏らす。唾液が滲み出してきたのか、吾妻の唇は次第に潤って、蛇のように健一の唇の上を這い回った。唇から離れると、まだ盛り上がっていない喉仏をねっとりと舐め上げてくる。
 
 その気色悪さに、健一は思わずヒッと悲鳴を上げて両腕を無闇矢鱈に振り回した。ガツッと鈍い音が鳴って、硬い感触を右手首に感じた。目を開けば、どうやら右手首は吾妻の左こめかみに当たったらしく吾妻が掛けていたノンフレームの眼鏡が畳の上を転がっていた。吾妻が眉を顰めて、左こめかみを押えているのが見える。その瞬間を逃さず、健一は両手両足に思いっきり力を込めて、吾妻の身体を後方へと向かって蹴り飛ばした。
 
 
「きもちわりぃ! こんなんおかしい!」
 
 
 咽喉から振り絞った声は震えていて、女の子のように甲高く、情けなかった。叫んだ直後に、布団を跳ね除けて走り出す。
 
 ほんの数メートル先の障子が酷く遠く感じられた。引き裂く勢いで障子を開いて外へと一歩踏み出した瞬間、何か柔らかいモノにぶつかった。それがモノではなく人間だと気付いた瞬間、健一は恐慌状態のまま叫んでいた。
 
 
「た、たすけてっ! あいつ変だっ! 変だよ、オカシイよ! もうやだっ、たすけて!!」
 
 
 見知らぬ誰かの胸倉を、命綱のように握り締めて叫ぶ。
 
 振り返れば、蹴り飛ばされて尻餅を付いた吾妻が健一を凝視しているのが見えた。
 
 眼鏡越しではない吾妻の視線は穏やかさなど微塵もなく、手負いの獣のような獰猛さが眼球の奥でギラギラと底光りしていた。それが余計に健一の恐怖心を煽る。説明の付かない恐怖に膝頭がガクガクと震えた。
 
 
「僕が怖い?」
 
 
 声ばかり優しい吾妻の問いかけに無我夢中で頷きを返す。吾妻は眉尻を下げて、形だけ寂しそうな表情を作った。
 
 
「健一に怖がられると悲しいよ。僕は健一のことが大好きなんだもの。健一のことが好きで好きで堪らなくて、死んじゃいそうなぐらい好きなんだ。好きだから心も身体も全部健一に伝えたいんだよ。解らないかなあ?」
「…わかん、ない。わかんな、い。わかんねぇよっ! もういいから、家に帰せよ! オレ、もうこんなわけわかんないの嫌だ! 家に帰る! 帰るったら帰る!」
「だから、ここが健一の家なんだよ。健一の前の家はもうないよ。健一の帰る場所はもう僕のところしかないんだ」
 
 
 迎合するように両腕を広げて、吾妻がこの上なく甘ったるい笑顔を浮かべる。吾妻の言っている言葉の意味が解らない。呆然と吾妻を眺めていれば、吾妻が不意に「弥生」と誰とも分からない名前を呟いた。
 
 
「なぁ、そうだろ弥生? 健一の家はここだろ? なぁ?」
 
 
 自分に対する時の甘ったるい声とは違う、威圧的な声で語りかける相手が今自分が縋り付いている人物だと気付いた瞬間、健一の背筋は凍り付いた。
 
 見上げれば、鼻梁の通った高い鼻が視界に映って、それから造形の整った清潔な顔立ちが見えた。肩に付くほど髪が長く、月明かりに透けるように皮膚も髪も色素が薄い。整い過ぎて、この場にいるのが不自然なくらい弥生は現実味がない存在だった。
 
 
「はい、健一様の御家はこの御屋敷でございます」
 
 
 鈴が鳴るような細い声で、弥生は縋り付く子供に残酷な言葉を突き付ける。その言葉に驚いて弥生を突き飛ばそうにも、肩を強く掴まれていて逃れられなかった。混乱のあまり身体から力が抜ける。この二人は、一体何を言ってるんだろう。
 
 
「ね、弥生も言ってるでしょう? 健一の家はやっぱりここなんだよ。いきなり家なんて言われて吃驚したかもしれないけど大丈夫。すぐ慣れるよ。嗚呼そうだ、弥生アレを見せてあげて」
 
 
 弥生に引き摺られるようにして畳の部屋へと戻される。足の裏が擦れて、畳がざりざりと音を立てていた。吾妻の膝の上へと人形のように置かれて、愛おしげに頬擦りされる。健一はそれを呆然としたまま受け入れていた。
 
 畳に膝を着いた弥生が懐から何か写真らしきものを取り出して並べ始める。健一は、随分真っ黒な写真だなんてぼんやり考えたりしていた。
 
 その写真の一枚に焼け焦げた【泉】という表札を見るまでは。炭の塊だと思っていたものが人の形をしていることに気付くまでは。
 
 
「なに、コレ…」
 
 
 自分の掠れた声が遠く聞こえた。
 
 吾妻に抱き締められた身体がカタカタと骨から振動している。自分の身体を両腕できつく抱き締めても、震えは収まるどころかもっと酷くなった。心臓が爆発しそうなぐらい早鐘を打って、目の前の光景がぐちゃりと歪んで渦を巻く。
 
 こんなの悪い夢だ。お願いだから誰か、これは夢だと言って――
 
 
「健一の前の家だよ。ほらよーく見て、綺麗に焼けてるでしょう? 三階まで全焼。健一のお父さんもお母さんもお姉さんもコンガリジューシーに焼けたよ」
「こんなん…こんなん、うそだ」
「嘘じゃないよ。ほら、よく見て」
 
 
 拾い上げた写真を、吾妻のしなやかな指が健一の目線まで運んで来る。
 
 焦げた土の上で重なり合うように倒れている三体の炭を見とめた瞬間、健一はバリッという音を聞いた。壊れるというよりも噛み砕かれる音。バリバリと音を立てて、腕が、足が、背中が、頭が、臓物が、心臓が、粉微塵に砕かれていく。
 
 
「ヴ、アぁあアァあアぁぁぁあ…―――!」
 
 
 絶叫が部屋中で響き渡って、健一の心臓に跳ね返ってくる。耳元を擽っているのは吾妻の笑い声だろうか。
 
 
 酷い。酷い。あんまりだ。こんなのはない。絶対に、こんなのは許されない。どうして、どうして――
 
 
 意味のない思考がぐるぐると頭の中を回っていく。タガが外れたように、見開いた眼球からぼろぼろと涙が溢れ出した。
 
 自分の生活が崩壊した。粉砕された。ついさっきまで幸せだった生活を全て失ってしまった。
関東大会で優勝したから、きっと今日は御馳走だった。父と母と姉の祝福の声。
 
 姉は、そろそろ結婚するはずだった。健一は姉が大好きだったから、結婚なんてして欲しくなくて、ずっと不貞腐れたままだったけど、今日こそはおめでとうと言うはずだった。姉のはにかむ顔が想像できた。その姉は今炭になって、はにかむ顔は焼け焦げて鼻も口も目も溶けて判らない。
 
 父と母は最近喧嘩が多かったけど、今日はきっとお互いの不仲も忘れて健一を祝ってくれるはずだった。気の弱い父に怒りっぽい母、少し大きい炭が父だろうか。父は母に覆い被さるようにして炭になっている。それに引き千切れそうな程の悲しみを覚えた。
 
 お父さん、どうしてこんな、こんな酷いことが世界に存在してるんだ。どうして、こんな畜生な男が生きているんだ。
 
 
「なんで、こんな、こ、んな、なんで、なんで、なんで、なんで、こんな、なんで」
 
 
 呆けた爺のように同じ台詞を繰り返す健一の耳朶に軽く唇を沿えて、吾妻が囁く。
 
 
「好きな人を自分だけのものにしたいと思うのは、普通の事だろう?」
「こんな、こんなの普通じゃない。こんなんおかしい。こんなのおかしい! オレ、なんにもしてない! おとうさんとおかあさんも姉ちゃんも、なにも、なにもしてない! こんな酷いことされるようなこと、してない!」
 
 
 咽喉が枯れる程の大声で叫び散らす。忘我状態のまま四肢を振り回せば、途端両腕を吾妻に、両足首を弥生に掴まれて健一は否応なく身動き一つ取れない状態にさせられた。自分の意思や行動が一つも満足に行えない事に堪らない苛立ちを覚えて、健一は身体を張り付けにされたまま、金切り声を上げた。
 
 自分の事を好きだと言いながら、こんな残虐な行いが出来る男が信じられない。少なくとも健一が考えていた『すき』は温かくて優しくて、冬の布団みたいに柔らかく包み込んでくれるものだった。だが、今健一が直面している『すき』は周囲のもの全てを焼き尽くし、最後には煤けた灰しか残らないような悲劇的なモノだった。醜く、忌々しく、目も当てられない程おぞましく、歪んだ業。
 
 
「ふざけんな! ふざけんなァ! 何だよコレ! 何なんだよ! オレのことすきとか、お前おかしいよ! 好きだから、燃やすとか、おかしい! オレの、オレのお父さんだ! オレのおかあさんだ! オレの姉ちゃんだ! お前のもんじゃない! 何もしてないのに! なんにもしてないのに! なんでだよっ!」
「だから言ってるじゃないか。健一が好きだから、健一の大事なものを全部消しちゃいたいんだよ。そうしたら、健一は僕のことを一番に考えてくれるだろう? そうじゃないと、今度は健一の友達も殺しちゃうよ。伸樹君、だっけ? 今日二人で仲良く抱き合ってたんだろ? それ聞いて、伸樹君も殺してやろうかと思ったけど、家族が死んだ日に友達まで死んじゃったら健一があんまりにも可哀想だから、まだ伸樹君は生かしておいてあげる。でも、健一があんまり駄々捏ねるようなら、細切れにした伸樹君の死体を、健一の目の前にバラ撒いてやる」
 
 
 穏やかだった声が罅割れて、ギイギイと不快音を奏でる。余りにも自己中心的な吾妻の台詞に、答えるだけの気力も出てこない。
 
 健一は口をぱくぱくと金魚のように開閉させた。乾いた舌根から恐怖の唾液が滲み出てくるのを感じた。
 
 この男は狂ってる。自分を愛してると言っている時点でおかしいとは思っていたが、おかしいどころの話じゃない。自分のためだけに人一人を簡単に殺そうとするなんて、気が狂ってるとしか言いようがない。
 
 じゃあ、自分はどうなるんだ。こんな狂った男に捕まった自分はどうなるんだ。健一は自分の未来が急激に萎んでいくのを感じた。穴の空いた風船のように、ぷしゅぷしゅと音を立てて縮み、萎れていく。伸樹と一緒に話した時、紛れもない未来だと信じていたものが色をなくして暗闇に呑まれて行く。未来や希望が消えていく。
 
 その瞬間、全身から一気に力が抜けた。脱力した健一に気付いたのか、四肢から四本の腕が離れていく。そうして、再び吾妻の膝上に抱え上げられて、背後から抱き寄せられた。さながら愛玩人形だ。
 
 
「…こんなん、ズルイよ…。オレ、…オレ、何も…どこにも行けないじゃんか…」
「それで良いんだよ。健一はずっとここで暮らせばいい。ねぇ、健一の家はどこ?」
 
 
 吾妻の甘ったるい問い掛けに、健一の身体は悔しさと悲しみでブルブルと震えた。下唇を噛み締めて、答えたくない言葉を口にする屈辱に必死で耐える。
 
 
「……ここ」
 
 
 口に出した瞬間、また涙がぼろぼろと両目から溢れ出した。完膚なきまでに健一の帰る場所を叩き潰して、吾妻は咽喉の奥で笑い声を転がした。
 
 
「健一の荷物も全部燃えちゃったけど、新しいの買ってあげるね。健一の欲しいものは全部、全部」
 
 
 譫言のように囁きながら、着物の裾から入ってきた吾妻の手が健一の太腿を撫でてくる。吾妻の掌は微かに汗ばんでいた。冷えた皮膚の上を、湿った掌が這う感触に内臓が蠕動するような気色悪さを感じた。
 
 
「きもちわるい」
 
 
 無意識に呟くと、無気力な健一を布団の上に横たえながら吾妻が困ったように言った。
 
 
「でも、愛してるんだ」
 
 
 何が愛してるだ、何が愛だ。愛という響きに例えようのない嫌悪を抱いて、健一は眉間に深く皺を刻んだ。
 
 
「愛って、こんな気持ち悪いことなの?」
「解らない。だけど、僕の愛の形はこうなんだ。健一が好きで好きすぎて、どうしたら良いか分らなくなって、ぐちゃぐちゃにしちゃうんだよ。愛はぐちゃぐちゃなんだ」
「オレは、そんなの欲しくない…。あんたの愛なんか、いらない」
「それでも構わないよ。憎まれても仕方ない。僕は健一からどう思われても、納得しようって思っているんだ。愛してくれなくても構わない。ただ愛させて。このままじゃ、心臓が破裂しそうなんだ」
「破裂しそう?」
「うん、愛が破裂しそう」
「破裂して死んじまえ」
 
 
 死ねなんて口に出したのは初めてだった。母に言ってはいけない言葉なのだと子供の頃からキツく言い含められていたからだ。だけど、その母ももう居ない。
 
 死ねと口に出した瞬間、紛れもない憎悪と殺意が腹の底からマグマのように噴き出してきた。体内が焼けるように熱くて、内臓が溶けてしまいそうだ。これが父が母が姉が感じた熱さだろうか。いや、きっとこんなものじゃない。身体が炭になるほどの熱さ。苦しくて痛くて熱くて、想像が出来ないくらいの苦痛の中でのた打ち回っていたのだろう。目の前の男が自分の家族を地獄に叩き落した。この男は悪魔だ。鬼だ。ゴミ虫だ。きっと、この世界に生きていてはいけない人間だ。
 
 
『殺してやりたい』
 
 
 瞬きをする間もなく明確な殺意が全身に満ち溢れた。当然のように思い浮かんだ言葉に、健一は素直に従うことにした。今まで思い描いていた夢も、生活も、全てが消えて、まるで自分がこの男を殺すためだけに存在しているようにすら思えた。其の事に使命感すら覚えた。
 
 
 殺すしかない。殺すんだ。殺す。殺す。殺したい。殺してやる!
 
 
 身体は燃えるように熱いのに、指先だけが氷のように冷えているのが不思議だった。
指先が吾妻の首筋に伸びて、ひやりと触れた。吾妻の首は火傷しそうなほど熱かった。指先に力を込めた瞬間、吾妻の喉仏が大きく上下し、こくりと唾液を嚥下するのが判った。吾妻は嗤っていた。
 
 

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