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05 さみしい

 
『健一はキャッチするのが上手だなあ』
 
 
 弧を描いて落ちてきたボールをキャッチした時、気が弱い父の精一杯の褒め言葉が聞こえた。
 
 
『キャッチボールの球取るぐらいでキャッチするの上手いなんて言わないよ。もっと、外野の端っこまで飛んでいったボールを取るぐらいじゃないと』
『そおかあ。でも、父さんはキャッチ上手だと思うなぁ』
 
 
 情けなく空笑いを漏らす父。健一は父親の事を嫌いだと思ったことは無かったが、その追従するような笑いが時々疎ましく感じる時があった。癇癪を起した母を相手にする時、父の頬に浮かぶ消え入りそうな笑み。笑って事を収めようとする負け犬根性じみたものが、父の笑みからは感じられて、時折堪らなく嫌になる。
 
 そんな父が唯一取れた息子とのコミュニケーションの方法がキャッチボールだった。健一にしてみれば、毎日野球漬けで一ヶ月に一回あるかどうかの休日にまで野球をしたくない気持ちはあったが、息子の顔色を窺うように『健一、父さんとキャッチボールしよう』と声を掛けてくる父親を跳ね除けることは出来なかった。
 
 狭い庭先で単調なボールの往復を繰り返しながら、いつだって父親は息子との交流のキッカケを探しあぐねているようだった。健一は自分を器用な人間とは思わないが、父親ほどに不器用な人間もいないだろうとも思った。
 
 それでも、父親の投げたボールは空中をふらふらと頼りなく飛びながらも、いつだって真っ直ぐに健一のグローブに向かって来た。何処までも不器用だったけど、誠実だった。
 
 だから、健一は父親を本気で嫌いにはなれなかった。面倒臭いだけのキャッチボールを断ることが出来なかった。キャッチボールが父親との唯一の会話だった。
 
 三階のベランダから姉が身を乗り出して、声を張り上げる。
 
 
『ねぇ、見て! 健一の学校の桜もう咲いてる! ほら、早く見て!』
『見えねーって』
 
 
 三階からならともかく、塀で視界が遮られている健一や父には桜など見えない。不貞腐れたように姉を見上げれば、その横に母が立っていて、ほぅと穏やかな溜息を付いているのが見えた。
 
 そうして、身体ごと攫って行きそうな一陣の強風が吹いた瞬間、空から何百という花びらが舞い降りて、健一の視界を桜色で埋め尽くした。
 
 
『わぁ、春一番だなぁ』
 
 
 姉と母のはしゃぐ声と父の暢気な一言を聞きながら、健一は何となしにグローブを嵌めた手を空へと向かって伸ばした。桜の花びらがゆらゆらと落ちて来る。
 
 グローブを下ろして、中を見れば、そこには花びらではなく僅かな灰が握り締められていた。灰はすぐに風に吹かれて飛び散り、鮮やかな空へと消えていく。
 
 その光景をぼんやりと眺めて、健一は自分の眼球から涙が零れているのに気付いた。穏やかな光景の中、どうしてだか心は引き裂かれそうなほどに寂しかった。
 
 
『おとうさん、さみしい』
 
 
 
 
 
 
 夢現に自分の声を聞いた。
 
 頬を水が伝う感触に、健一は薄っすらと瞼を開いた。瞼が眼球に貼り付いていて痛い。咽喉も脱水症状を起こしたみたく渇いていて、小さく咳をすると鋭い痛みが走った。
 
 
「……いたい」
 
 
 小さく呟く。身体が勝手に水分を求めて、片腕があてどもなく周囲を探る。その指先に〟ざり〟と畳の感触を感じて、健一は寝惚け眼のまま眉根を寄せた。
 
 どうして畳?
 
 不思議に思って、身体を起こそうとすれば、途端下腹部から脹脛まで電流のような痛苦が駆け抜けて、爆発した。
 
 
「イッッ…!」
 
 
 悲鳴を上げそうになる咽喉を両手で押さえ付ける。酷く痛むだけでなく、下半身が鉛でも詰め込まれたように重く、気だるかった。まるで腹いっぱいに砂鉄でも食べたような不快な感覚だった。布団の上で小さく悶えて、健一は両手で腹部を掻き毟った。
 
 何でこんなに身体が痛いの。お腹が苦しいの。訳が分からず、ふと下腹部へと視線を向けた瞬間、健一はか細い悲鳴を上げていた。横たわっている布団のシーツの一部分が赤くに濡れているのがまず目に入り、それから自分の胸や腹、太腿など縦横無尽に付けられた赤黒い小さな痣のようなものを健一は見た。
 
 余りの驚愕に思わず上半身を起き上がらせる。身体は痛んだが、それよりも目の前の惨事の方が一大事だと思った。
 
 
「なに、なんで」
 
 
 自問自答するように呆然と呟く。そうして、健一は自分の後腔から白い液体が零れているのを目の当たりにして、ようやく事の現状を思い出して息を呑んだ。
 
 顔面から血の気が失せて、全身から体温が消えて行く。指先が震えて、それから気が付いたように全身がかたかたと小刻みに震え始める。両腕で身体を掻き抱いて、咽喉を引き攣らせた。
 
 
 嫌だ、俺、ゴウカンされたんだ。ゴウカン、なんて嫌だ。こんなん酷い。嫌だ、嫌、嫌、あんな奴に。あんな。
 
 
 思い出したように周囲を見渡せば、昨夜自分を痛めつけた男の姿は見当たらなかった。その事に安堵の息を漏らしながら、健一は自分の体内からとろりと溢れる白い液体を眺めて、余りの情けなさに泣き出しそうになった。この白い液体が気持ちよくて出る液体なら、吾妻は自分の身体で気持ちよくなって気持ちよさの証拠の液体を出したってことなんだろう。しかも、これは性器から出る液体のはずだ。なら、昨夜自分の体内に入っていたのは――
 
 
「最低だよ。最低だ」
 
 
 自分は男なのに身体の中に男のシンボルを入れられてしまった。その上、男の気持ちよい証拠を体内に出されてしまっている。これ以上に最低なことが世の中にあるもんか。
 
 昨夜の事を悪夢か何かと思い込んで忘れてしまえたらいいのに、こんな風に生々しく痕跡を残されていては、夢なんだと自分に言い訳することもできない。眼前に〟現実を見据えろ〟と事実を突き付けられて、逃げ場を奪われる。
 
 
「最低、最悪、最低」
 
 
 譫言のように口ずさんで、涙が出てきそうになるのを必死で堪える。これ以上、自分の中から吾妻の痕跡が出てくるのを見ていたくなくて、健一は膝を抱えて蹲った。瞼を固く閉じて、込み上げて来そうになる嘔吐感に必死で抗う。
 
 そうしていれば、不意に障子の開かれる音が聞こえた。吾妻かと思い、身体がギクリと硬直する。だが、障子の前で畏まる様にきちんと正座している弥生を見て、僅かながら緊張が解れた。だが、所詮弥生も吾妻の仲間だと思うと、安心など出来るわけがなかった。
 
 
「お早う御座います健一様、御気分はいかがでしょうか」
 
 
 朝日の光で見る弥生は、昨夜薄闇の中で観た時よりも存外平凡に見えた。しかし、平凡と言っても、その繊細な美貌は人並み外れている。淡々とした切れ長な瞳が健一を見据えて、その小さな身体に残る痕跡に気付いて微かに細められた。
 
 
「――いいわけ、ないじゃん。こんなん、最悪だ」
 
 
 弥生の事務的な口調に、思わず怒りも忘れて呆然と呟いた。吾妻の仲間である弥生に同情されるのも嫌だが、だからといって物のように扱われるのも御免だった。
 
 傍らまで弥生が寄ってきて、畳の上に盆に乗ったグラスを置いた。
 
 
「宜しければ御水を。真澄様は只今御用のためいらっしゃいませんので、私が健一様の御世話をさせて頂きます。今、湯の用意をしておりますので御身体をお流し――」
「説明、しろよ。説明してよ。なんで、こんなことになってんの、説明しろよ」
 
 
 言葉を遮れば、弥生の顔が微かな苦渋に歪んだ。感情を押し隠して仕事に徹しようとしているのに、弥生の感情は直ぐに表面化する。思った以上に弥生は心が弱い人間なのかもしれない。
 
 
「説明と言われましても…」
「いいから、言えよ。こんなの、オレ何が何だかわかんねぇよ…。気付いたら、こんなとこ居て、何にもわかんないじゃんか。説明してよ、説明して、おねがいだから」
「説明も何も、真澄様が健一様におっしゃった通りです。健一様をお見初めになりました真澄様が健一様を――」
「――さらった?」
「はい」
「オレ、伸樹と喋ってたとこまで覚えてる。あの後、あいつが、オレをここに連れてきたの?」
「いいえ、私が御連れしました」
 
 
 その言葉を吐き出した瞬間、凛と伸ばされていた弥生の背が一瞬引き攣るように震えた。平静さを保とうとしている弥生の瞳の奥に、罪悪感のようなものが微かにチラついているのが見える。それに燻るような苛立ちを覚えた。今更罪悪感を抱いたところでどうなる。そもそも罪悪感を抱く権利があるとでも思っているのか。
 
 
「どうやって」
「薬、をかがせました」
「だから、頭が痛かったのか」
 
 
 昨夜目覚めたときのコメカミを抉るような鈍痛を思い出す。薬に拒否反応を起こしたが故の頭痛ならば合点がいく。
 
 
「それで?」
「健一様をこの屋敷へ御連れして……私が説明出来るのはそこまでです。後は何も」
 
 
 言い訳をするような弥生の口調に、ふつりと憎悪の種が心臓の内側で生まれてくるのを感じた。
 
 それに『後は何も』って、何だ。一体『後』に何があった。『後』に何が。何が――
 
 一瞬、呼吸が止まって、心よりも先に身体が悲鳴を上げるのを健一は聞いた。短い悲鳴が部屋に小さく反響して、身体の内側に跳ね返ってくる。思い出した事、父が母や姉が〝 その後 〟どうなったのか。
 
 
『コンガリジューシー』
 
 
 揶揄するような吾妻の声が遠くから聞こえる。黒焦げ写真の記憶が鮮明に蘇った瞬間、健一は咄嗟に傍らに置いてあった水の入ったグラスを掴んで、振り上げていた。項垂れた弥生の頭へと向かって一気に振り下ろす。
 
 ゴッ、と鈍い音が響いて、グラスの底が弥生の頭に叩き付けられる。透明なグラスに一本の深い罅が入り、瞬きをした瞬間、一気に破綻した。真っ二つに割れたグラスから弥生の頭へと水が流れ落ちる。
前のめりに倒れた弥生が呻き混じりに「健一様…」と声を漏らす。その声を二度と聞かない内に、健一は痛みを忘れて駆け出していた。
 
 
 おとうさん、おかあさん、おねえちゃん、焼け焦げた炭、灰と化した肉、そんなのは全部嘘だ。
 
 
 障子を開けば、目の前は健一の学校のグラウンド程ありそうな広大な日本庭園が広がっていた。左手側は長い廊下になっている。どうやら健一が居た場所は離れだったようだ。左手の廊下の先に渡り廊下が見えて、そこから母屋に繋がっているようだった。
 
 長い廊下を駆ける。だが、五十メートルも走れば、下腹が木の棒で掻き回されたように痛み出すのを感じた。内臓がぐちゃぐちゃと音を立てている。体内から溢れた液体が内太腿をねっとりと伝うのが判る。
右腕で下腹を抱えるようにして、速度が落ちても駆けて、殆ど歩くに近くなっても駆けて、駆けて、駆けて、気付けば床に膝を付いて荒い息をついていた。
 
 自分の鼓動がどくんどくんと体内で響いている。身体がこのまま床と同化してしまうんじゃないかと思うぐらい重く、気だるい。下腹部から襲ってくる痛みは絶えず健一を傷め付け、全身の筋肉を引き攣らせた。床に両手を付いたまま、背を大きく波打たせて不規則な呼吸を繰り返す。
 
 廊下沿いの障子が開いて、そこから誰とも知らない視線が自分に向けられているのに気付いた。障子からひょっこりと突き出した顔同士がひそひそと押し殺した会話を交わしている。そのどの顔も微かな同情を滲ませながらも、健一を助けようとはしない。その事実に絶望を感じはしない。ただ、鬱陶しい。腹立たしい。同情の眼差しを叩き落して、噛み砕いて粉々にしてしまいたい。
 
 何を、一体何をしているんだろう。こんな所で、こんな痛くて苦しい目にあって、自分は一体何をしているんだろう。
 
 昨日、そうたった昨日の事だ。関東大会に優勝して、自分は幸せの絶頂にいた。六年間ずっと待ち望んでいた夢が叶った。これほどの幸せはないと信じていた。
 
 それなのに、今はどうだ。訳も分からず頭の可笑しい男に強姦されて、こんなところで打ちひしがれている。
 
 自分は何もしていないのに、どうしてこんな事になってしまったんだ。判らない。解らない。分からない。ただ家族に会いたい。死んだなんて嘘だって言って欲しい。焼けて炭になってしまったなんて冗談だって笑って欲しい。悪い夢を見てたんだねえって頭を撫でて欲しい。そうじゃないと、自分は引き裂かれてしまう。悲しみと孤独に引き裂かれて、バラバラになって、もう元に戻れなくなってしまう。
 
 
「おとぉさん、さみしい」
 
 
 夢の中で呟いた言葉を、涙声でもう一度呟く。そうしたら、追従するような笑いを浮かべながら父が『大丈夫だよ』と応えてくれる気がした。『嫌な夢を見てたんだねえ。もう大丈夫だよ』。空想の父を追い求めるように、健一は床を這いずった。
 
 そうして、目の前に大きな影が立ち塞がったと思った瞬間、頭上から子供のような声が降り注いだ。
 
 
「健一の嘘吐き」
 
 

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