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06 嘔吐 *暴力表現有

 
 その声に、全身から流れ出すように血の気が引いた。床に張り付いた指先のすぐ前に、白い靴下が見えた。下から上へと視線を上げれば、黒いズボンに同色のジャケット、開襟シャツに灰色のネクタイ、それから薄笑いを浮かべた酷薄な男の顔が見えた。
 
 髪を後方へと撫で付けた吾妻は、昨夜感じた『田舎の小学校教師』という印象を跳ね除けて、無条件に他者を平伏させる雰囲気を醸し出している。吾妻の斜め後ろには、壁のような大男が寄り添うように立っていた。
 
 その姿を見詰めて、健一は自分の指先がカタカタと小刻みに震えているのに気付いた。内臓が凍り付いたかのように、全身が寒い。身体も心も、目の前の男に拒否反応を示していた。
 
 
「家に帰りたい」
 
 
 無意識の内に、乾いた唇が掠れた声を発していた。
 
 
「家に帰りたい」
 
 
 もう一度、今度ははっきりとした声で繰り返す。身体は震えていても咽喉は弛まず動いた。床に這わせていた掌を胸元へとぎこちなく引き寄せて、着物の胸倉を握り締める。恐怖に物も言えなくなりそうな心臓を奮い立たせるように。
 
 吾妻は、健一の渾身の思いなど欠片も理解出来ぬように嗤っている。いや、解っているからこそ、嗤っているのかもしれない。その唇の端に浮かんだ厭らしい笑みを見た瞬間、健一は切実な叫び声をあげていた。
 
 
「家に帰して…!」
 
 
 懇願する。哀願する。自分のプライドも虚勢も足蹴にして、ただひたすら目の前の男に救いを求める。自分に救いを与えられる唯一の存在を恐怖し憎悪しながらも、健一は縋り付いた。幾多の視線に囲まれながら、恥も外聞もなく廊下に土下座するように突っ伏す。実際、心は土下座していたのだと思う。
 
 
「家は此処だよ。健一だって昨日言っただろ? 此処が家だって。それなのに、ガッカリだな。僕は健一に嘘を吐かれた。――健一が聞き分けないようだったら、今から伸樹君に会って来るよ。健一も一緒に行く? 親友だもの、御別れぐらい言いたいだろう?」
 
 
 吾妻の口から出た言葉が伸樹を殺す前兆だと気付いた瞬間、健一は少女のようなか細い悲鳴をあげていた。逃げたら伸樹を殺す、という事を一瞬でも忘れていた自分が恨めしい。家族を殺したんだ。目の前の男は伸樹ぐらい簡単に殺してしまうだろう。
 
 友達が殺されてしまうと思った瞬間、健一は咄嗟に「やめて」と叫びながら、吾妻の足を掴もうと手を伸ばしていた。
 
 しかし、その手は何も掴むことなく空を切った。瞬きをした瞬間、腹部に重く鈍い衝撃を感じて、気付けば健一の身体は縁側廊下から庭の土の上を転がっていた。
 
 背中から庭に落ちてゴロゴロと土の上を虫けらのように転がる。吾妻に腹を蹴り飛ばされたと気付いたのは、腹部に鋭い疝痛を感じて、土の上で悶絶し始めた時だ。
 
 
「ガッ、げッ…!」
 
 
 赤子のように身体を丸めて、両腕で腹を抱える。痛みに内臓が痙攣して、下腹の筋肉がギュッギュッと断続的に収縮している。唇の端から糸を引いて地面へと垂れる唾液をぼんやりと眺める。
 
 
「嘘吐きに止めてなんて言う資格はねぇよ」
 
 
 いつの間にか、目の前に白い靴下があった。吐き捨てるような乱雑な口調が頭上から落ちてくる。それと同時に、今度は胸元にサッカーボールでも蹴り飛ばすように吾妻の足の甲が叩き付けられた。
 
 肋骨が軋む激痛と共に身体が再び土の上を転げ回る。全身が土くれだらけになって、口の中に砂利の味を感じた。
 
 腹も胸も背も足も腕も、何度も蹴り飛ばされて、その度に健一の身体は安っぽい玩具のように跳ね上がった。健一に出来たのは、ただ身体を丸めて暴力が通り過ぎるのを待つだけで、『やめて』と言う事すら出来なかった。
 
 
「真澄様、止めて下さい!」
 
 
 過敏になった鼓膜に、弥生の悲痛な叫び声が響いた。薄っすらと目を開けば、ぼやけた視界に、後頭部に布を宛がった弥生が駆けてくるのが見えた。
 
 
「御願いします、止めて下さい! こうなってしまったのは私が至らなかったせいです。健一様には何の非もございません。どうか、どうか、お許しになって下さい」
「お前にはお前の仕置きがある。健一には健一の躾がある。お前に口を出す権利があると思ってるのか? なァ、弥生」
「しかし、このままでは――」
 
 
 弥生の言葉も半端に、頭皮に鋭い痛みが走ったと思った瞬間、健一の身体は土の上を引き摺られていた。鷲掴みにされた髪の毛がブチブチと引き千切れる音がする。
 
 虚ろな意識の中、ぼんやりと視線を上へと向ければ、吾妻の白い靴下が土色に汚れているのが見えた。
 
 それを二度見ぬうちに、健一の視界は更に歪んで、眼前には赤と白の滑らかな肢体が映っていた。自分の頭の周りを錦鯉が優雅に泳いでいる。ぼこり、と口から気泡が浮かび上がるのを見て、健一は自分の頭が池に沈められたことに気付き、痛みを忘れて恐慌した。
 
 健一の延髄を掴んでいる吾妻の腕を取り外そうと、全身が狂ったように暴れる。死ぬ。死んでしまう。殺されてしまう。瞼の裏に【死】という文字がくっきりと浮かび上がって、それが明瞭さを持って迫ってくる。鼻と口に池の水が潜り込んで、胃袋まで到達する。息苦しさに空気を求めて掌が水遊びでもしているかのように池の表面を叩いた。
 
 
 身体から力が抜けて、意識が消えかかった頃、ようやく水中から引き上げられた。盛大に咳き込んで、喘ぐように呼吸を繰り返す。そして、池の生臭い臭いを嗅いだ途端、吐き気が込み上げてきて、健一は胃液混じりの池の水を吐き散らかした。
 
 
「ッげ、あ、ヴぇ、え」
 
 
 内臓ごと吐き出すように何度もえずく。肺の辺りが燃えるように熱く、刺激物を通した咽喉がヒリヒリと痺れるように痛んだ。だけど、頭に水草が絡まって、その端がだらんと顔に垂れ掛っているのを見た瞬間、健一は何もかもがどうでも良くなった。
 
 
「このままでは死んでしまいます!」
「死ねばいいさ。離れるぐらいなら殺した方がマシだ。そうだろ?」
 
 
 見切りをつけるような言葉を皮切りにもう一度頭が水中へと沈められる。もう抵抗する力もなく、廃れた精神は諦念混じりに死を受け容れ始めていた。
 
 昨夜から幾度となく繰り返していた『なんで』『どうして』という言葉は、もう頭には浮かばなかった。ただ楽になりたくて、健一は硬直していた身体からゆっくりと力を抜いた。どうせ此処で生き残ったとしても、この男に嬲られ続けていくのならば、それは死んでいるのと一緒の事だ。孤独に押し潰されて、家族を求めてすすり泣く日々が続くぐらいなら、潔く此処で死んだ方が良い。死に方としては最低かもしれないが、それでも死ねば皆同じだろう。後には死体しか残らない。出来れば、死体ぐらいは家族と同じ場所に屠って欲しいけれども、余り期待はしないでおこう。
 
 そうして、意識が何もない闇に呑まれようとした時、無慈悲にも水中から頭が引き上げられた。ボロ雑巾のように身体を土の上に投げ捨てられて、口の端からどろりとした唾液と池の水が零れる。反射的に本能が生きようと足掻く。薄く開いた唇から浅い呼吸を繰り返して、小さな命を繋ぎ止めようとする。
 
 健一は自分の身体に対して『やめてくれ!』と叫びそうになった。生きるのをやめてくれ、お願いだから、もう楽になりたいんだ。
 
 
「……た、い」
 
 
 掠れた声が断続的に零れれば、左腕をしたたかに濡らした吾妻が首を傾いだ。
 
 
「何?」
「――に…たい」
「もう一度」
「―――死に、た、い」
 
 
 はっきりと口に出せた瞬間、不意に湧き出してきた達成感に笑い出しそうになった。もう涙なんて一滴も出なかった。枯れ果てたとは思わない。単に神経中枢が可笑しくなって、涙を出すことすら忘れてしまったのだろう。
 
 身体中が痛くて痛くて、もう何処が痛いのか、自分が本当に痛がっているのかすら判らなくなっていた。現実が何処にあるのかも。
 
 健一の唇に薄っすらと浮かんだ笑みを見て、吾妻も嬉しそうに笑みを作る。甚振られる者と甚振る者が同じ表情をしていることが、また何とも滑稽に思えた。
 
 
「――殺し、て」
 
 
 最期までこんな男に懇願する羽目になるのか。だけど、十二年間生きてきて、こんなにも切実に願ったのは今日が初めてかもしれない。死に対する怖気と希望とで胸がいっぱいになる。だが、少なくとも悲哀や孤独は感じなかった。その事が唯一の救いだ。
 
 虚ろな視線で周囲を見渡せば、弥生が驚愕の表情で健一を凝視しているのが見えた。その表情を見ると、あぁ、頭を殴ったりして悪かったなあなんて罪悪感が湧き上がった。障子の隙間から此方を窺っている幾多の視線からは物言わぬ同情を感じた。吾妻は、困ったように眉を寄せている。
 
 
「健一、つまらないこと言わないでよ。自分から死にたがるようじゃ本末転倒だ。健一は僕を殺したいんだろう? 昨日言ったことを忘れちゃったわけ? 健一は僕を殺すんだ。そのために生きてるんだから」
 
 
 自殺志願者のような吾妻の台詞に、健一は『そんな馬鹿なことがあるもんか』と叫びそうになった。健一の命の意味すらも決めつけて、吾妻はうっそりと悦に入ったように微笑んだ。まるで自分の死が楽しみで仕方ないとでも言いたげに。
 
 
「死、にたい、のか?」
「昨日と同じ質問じゃないか。言っただろう? 死にたい訳じゃないけど、健一になら殺されたい」
「ムジュン、してる」
「そうかもしれない。だけど、別に僕にしてみれば矛盾していないことなんだ。健一に憎まれて憎まれて憎み尽されて、健一の頭が僕の事でいっぱいになればいいって思ってる。健一の手で殺されて、健一が僕の事を一生忘れられなくなればいいって思ってる。それに勝る悦びなんてない。だから、健一、早く僕を殺してよ」
 
 
 これこそ本末転倒だ。殺して欲しいと言っていたのは健一の方だったのに、それが丸っきり入れ替わっている。健一は呆然と押し黙った。
 
 
「ねぇ、健一、こう考えるんだ。『復讐』するんだ」
「…復讐?」
「そう。僕は健一の家族を焼き殺した。火で炙って、皮膚を溶かして、健一のお父さんをお母さんをお姉さんを、炭にした。その仇を取るんだ。復讐するんだ。家族の仇を取れ。復讐しろ。殺すんだ。殺せ。殺せ――」
 
 
 唇を耳元に寄せられて、頭が痛くなるぐらい反芻される。混沌とした頭の中で『復讐』『仇』『殺せ』という言葉がぐるぐると回る。自分は昨夜、どうして自分は家族と一緒に死ねなかったのだろう。
 
 
 どうして自分だけ生き永らえたのだろうと考えた。もし、その理由が吾妻を殺すためだとしたら――
 
 
 そう思った瞬間、唇が無意識のうちに動いて、吾妻の言葉を繰り返していた。殺せ、殺せ、吾妻を殺すんだ。ナイフで突き刺して、銃で撃って、皮を剥ぎ取って、目玉を刳り貫いて、内臓を抉って、最期は焼き殺してやるんだ。殺せ、殺せ、殺せ―――
 
 頭の中で呟くたびに、身体に力が漲ってくる。朽ち果てかけていた精神が蘇ってくる。先程の死を迎え入れていたのが嘘のように、身体は殺意で満ちていた。憎悪と殺意に震える唇で健一は呟いた。
 
 
「殺してやる」
 
 

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