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07 一週間

 
 『全身打撲、左肋骨の一本に皹、後腔裂傷、体内に異物を出された事による腹痛。それら全てが原因で起こった発熱』
 
 
 それが布団の上で朦朧としていた健一に下された医者の診断だ。
 
 その言葉を右から左へと聞き流して、健一は夢現に天井をぼんやりと眺めていた。全身には感覚がなく、指先一つ動かせず、心臓が鼓動をしている自覚さえなかった。それなのに、唇だけは壊れた機械時計のように繰り返し同じ言葉を呟いていた。
 
 
 『殺してやる』
 
 
 何十、何千、何万、何億、どれぐらい反芻したのか判らない。そうやって、健一は空っぽになった自分の内側を吾妻への憎悪と殺意で埋めていった。パズルを埋めるように、一つずつ一つずつ確実に完成させていく。何も残っていない自分を捨てて、人殺しを願う自分を生成して行く。
 
 それを悲しいだとか寂しいとかは思わなかった。身体は麻痺し、心は麻痺し、そうして次に麻痺していくのは魂だ。
 
 殺意は麻薬のように健一の魂を容易く蝕み、歪曲させた。
 
 そうして、その醜悪な言葉だけを頼りに、健一は三日間の昏睡状態から立ち直った。目覚めた時、最初に考えたのは家族の事でも伸樹の事でもなく、吾妻をどうやって殺すかだった。
 
 
 
 
 
 
 目が覚めてから四日目に吾妻がやって来た。最初に会った時のように前髪を垂らして眼鏡をかけた吾妻は大人しそうな大学生にも見えた。だが、唇に浮かべる笑みは醜く歪んでいた。その手に握り締めていたのは女の口紅のような毒々しい赤の首輪だ。
 
 
「黒にしようか悩んだんだ。でも、元気な健一に似合うのは赤かなって。ほら、それに春日タイタンズも赤いユニフォームだっただろう?」
 
 
 と独りごちて、吾妻は健一に首輪を嵌めた。罵声を浴びせかけて抵抗すると、頬を二三発張られた。それでも、なお抗えば、首の骨を折るような力をもって首輪を絞められた。真っ赤な首輪が頚動脈に食い込んで、健一は唾液を撒き散らしながら意識を失った。
 
 意識を取り戻した時には、酷く居心地の悪いものが首にまとわりついていた。首輪は金属製ではなく皮製で、ベルト調節で取り外し可能なものとなっている。
 
「こんなもん付けてらんねぇ」と健一が首輪を毟りとろうとすれば、吾妻は「取ったら殺すよ」と優しい声で囁いた。「取っても構わない。だけど、取ったら殺す」二度繰り返されて、余りの胸糞の悪さに健一は吾妻の顔に唾を吐いた。再び頬を張り倒されて、健一は口内に血の味を感じた。
 
 子供の首に括りつけられた所有物の証を眺め、「健一が僕のものって感じがして素敵だ」と嬉しそうに言う男の声を健一は聞いた。
 
 健一は血の塩味を飲み込みながら吾妻を出来うる限り残虐に殺してやろうと決めた。
 
 
 
 
 
 
 五日目に、首輪の不快感に耐え切れなくなって吐いた。便器に縋り付いて胃液も何もかも吐き出して、それでも吐き気は消えず、出すものもないままに何度もえずいた。えずく度に肋骨に入った皹がじくじくと鈍く痛んで、生理的な涙が溢れた。
 
 心配そうに背中を擦る弥生の手を振り払って、健一は餓えた獣のように唸り、威嚇した。弥生に自分の惨めな姿を同情されたくはなかった。
 
 同情よりも、もっと形があるものが欲しい。
 
 健一はナイフが欲しいと思った。鋭くて切れ味の良いナイフ。力のない自分でも、大人一人殺せれるナイフが。
 
 
 
 
 
 
 六日目、また吐いた。散々戻した後、布団に横たわる健一を見て、医者が『ストレス』『心因性』『PTSD』だとか意味の解らない単語を並べ立てた。
 
 医者は、吾妻組専属医師の腹沢國男と名乗った。腹沢は陽気過ぎるほど陽気で、万事派手でけたたましくて五月蝿い男だ。年齢に容姿が追いついておらず、見た目は三十代前半だけど、実際は四十をとっくに超えているらしい。四十超えて、こんなにも落ち着きのない大人がいるのかと健一は呆れるを通り越して驚いた。
 
 腹沢は、問い掛ければ何にでも舌先滑らかに答える。
 
 吾妻は【吾妻組】という任侠団体、俗に言えばヤクザの親分の息子らしい。腹沢曰く、【吾妻組】は関東地区の大部分を牛耳っている大規模な団体で、最近は金融や不動産だけでなくIT関係でも起業していると言う。吾妻の役職は『若頭補佐』といって、腹沢は『上から三番目ぐらいに偉い』と簡潔に説明した。
 
 
「一番は組長、真澄君のパパ。二番は若頭、真澄ちゃんのお兄たま。三番が若頭補佐、真澄君のお兄たま二号と真澄君の二人。オーケィ? ユー、アンダスタン?」
 
 
 茶化した口調が所々勘に障るが、中々解りやすかった。
 
 そして、此処が本家だということも腹沢は語った。つまり吾妻組の本拠地。健一が閉じ込められている場所は離れで、本家から吾妻に宛がわれた場所だと言う。
 
 それを言った時、腹沢は「真澄ちゃんも気の毒だけどねえ」という形ばかりの同情を付け加えた。「何で?」と問い返せば、腹沢は「厄介者だから」と曖昧な言葉を返した。
 
 
「健いっちゃんも可哀想だけどね。若い身空で囚われの身、ヤクザの愛人になって、眠り姫みたいに王子様の救いを期待することしかできない」
「オレは、救いを期待してなんかない。期待したって、誰も助けちゃくれないじゃないか。それとも、あんたが助けてくれんの?」
 
 
 腹沢は皮肉っぽく笑って、まさか、と呟いた。まさか、助けるわけないじゃん。
 
 
「俺は吾妻組におまんま食わせてもらってる立場ですからぁ。そんな恐れ多いことはとてもとても」
「だったら、気の毒だなんて言うな。口先ばっか同情なんて反吐が出る」
「同情は嫌い?」
「大嫌い」
 
 
 健一は腹沢を睨み付けて、はっきりと断言した。此処に連れて来られてから、無言の同情を幾多も感じ取った。それに対して、視線を投げ返せば、同情の目は呆気なく健一から逸らされた。目を逸らしてしまうならば、初めから同情しなければ良いのに。何度も憎らしく思い、健一は奥歯を噛み締めた。
 
 例えば、弥生はいつだって健一に対して懇切丁寧に接する。隅々まで気配り、健一を慰めようとする。だけど、その弥生だって健一を本質的に救おうとはしない。だから、健一は弥生に対して、決して心は開こうとは思わなかった。
 
 
「だったら、ギブアンドテイクで行こう。俺が健いっちゃん助けてあげるよ。此処から出して、逃がしてあげる。その代りさぁ、健いっちゃんの目玉頂戴よ。腎臓一個でもいいや。子供の臓器ってまだ持ってないんだよね、俺」
 
 
 臓器、という単語に健一は眉を顰めた。いきなり目玉だとか臓器の話を持ち出されても意味が解らない。首を傾げれば、腹沢はにたにたと卑しい笑みを浮かべて言った。
 
 
「俺さぁ、人の身体集めんの趣味なの。此処の専属やってんのも、そういう理由。死体から好きな部分取れるし、詰めた指は俺のもんになるし、まさに俺のためにあるような職場なわけ。でも、健いっちゃんの身体が手に入るんだったら、この職場捨ててもいいや。暫く海外にでも逃げちゃうし」
 
 
 腹沢は胡坐を組んだまま、前後に軽く揺れて、ヒヒッと笑い声を上げた。
 
 健一の身体を見る視線が、内臓まで見透かしているようで気味が悪い。この男にとって、健一の人格というものは全く関係ないのだと思った。人格よりも内臓を重視されるのは、反吐が出るほど気色悪かった。
 
 
「オレは内臓を他人にやる気はないし、目が見えなくなるのも御免だ。それに、オレはここから逃げたいわけじゃない」
「じゃあ、このまま真澄ちゃんの愛人でいるわけ? それとも幼い若妻にでもなんの?」
 
 
 自分で言った言葉が面白かったのか、唐突に腹沢が弾けるような笑い声をあげた。腹を抱えて、身体を丸めて笑い転げる。ヒーヒッヒッという曳き笑いが部屋中に響き笑って、不快感に鳥肌が立った。
 
 
「あの男を殺してやる」
 
 
 吐き出した言葉は思いのほか平静に聞こえた。その言葉を漏らした瞬間、腹の底に沈んでいた憎悪の固まりがざわりと蠢いた。どす黒い奔流が毛穴からじわじわと滲み出しそうになる。
 
 腹沢の曳き笑いが止まって、まじまじと健一の顔を見詰めてくる。次第にその顔は、奥歯にものの挟まったような何ともいえない複雑な表情へと変っていった。
 
 
「真澄ちゃんを?」
「そう、殺す」
「無理っしょ、やめなよ」
「ナイフが欲しい。ナイフをくれるなら、指一本ぐらいならあげてもいい」
 
 
 やめろと諭す腹沢の言葉を捻じ伏せるようにナイフを強請る。復讐を遂げるまで手の指はあげられないが、足の指ぐらいなら無くなっても良い気がした。吾妻のために、これ以上何か失うのは腸が煮え繰り返るほどの嫌悪を伴ったが、それでも復讐のためなら仕方ないと思えた。
 
 
「俺は人殺しの手伝いする気はないのっ。指一本ぐらいじゃ割りに合わないし。それに、そういうのって下らないよ」
 
 
 下らないという一言に皮膚が波立つような怒りを覚えた。健一の生きる理由を容易く否定する腹沢を殴り飛ばしてしまいたい。何も知らないくせに、何にも解ってないくせに。
 
 
「くだらない?」
「下らないね。不毛過ぎる」
「不毛かどうか決めるのはオレだ」
「不毛だよ。呆れてものも言えなくなるぐらいフ・モ・ウ。健いっちゃん、真澄ちゃんを殺すことしか考えてないんでしょ? 他にも健いっちゃんが幸せになれる選択肢はあるのに、曲がり角無視して、猪みたいに崖に向かって一直線に突撃してるみたい。俺、そういうの駄目なんだよね。見てて哀れに思えんの。要領の悪い生き方ってさぁ」
「哀れだなんて思ってもないくせに」
 
 
 健一がそう吐き捨てれば、腹沢は眉をハの字にへし曲げた。何処か寂しそうな表情にも見えて、それが勘に障る。「健いっちゃんには俺の気持ちわかんないさー」と気の抜けた声で呟く腹沢の声が聞こえたが、聞こえないフリをした。お前にだって俺の気持ちは解らないだろうが。
 
 腹沢は『幸せになる選択肢』と言ったが、そんなものは健一には欠片も見えなかった。幸せという言葉を久しく忘れていたことに気付いて、健一は小さく嘆息した。幸せの意味は、たぶん一週間前なら解っただろう。だが、今この現状で一体どんな幸せを探せば良いのか、健一には検討も付かなかった。
 
 殴られないように従順になって、吾妻の抱き人形でいれば良いのか? 腹に性器を突っ込まれて、泣き喚くことを潔しとすれば良いのか? 家族を殺された恨みを綺麗さっぱり忘れ去って、吾妻を家族と思って生きれば良いのか? そうしたら、自分は幸せになれるのか?
 
 
 ――そんな生き方は屠殺される家畜にも劣る。
 
 
「ねぇ、もうちょっと考えてみなよ。真澄ちゃん殺したとしても、その後健いっちゃんどうすんの? 真澄ちゃん殺して、此処の組が黙ってるわけないよ? 健いっちゃん殺されちゃうよ?」
「オレも、殺される?」
「そうそう、生皮剥がれてさ、関節砕かれて、内臓切り裂かれて殺されちゃうよ」
「それでもいい」
「はぁ?」
「オレ、殺されてもいい。死んでもいい」
 
 
 譫言のように呟く。実際、殺される瞬間になれば自分は泣き喚き、哀れに助けを請うかもしれない。だけど、今この時、健一は吾妻を殺すためなら死んでも構わないと思った。吾妻を殺すことが自分の生きがいだとしたら、生きがいを失った後の自分は抜け殻だ。抜け殻がそのまま生きようが死のうが関係ない気がした。だけど、それを思うと同時に、自分の魂の価値が酷く薄っぺらになった気がして悲しかった。
 
 腹沢は渋いものでも食べたように目を細めていた。
 
 
「それじゃ心中じゃん」
「ちがう、復讐だ」
「少なくとも真澄ちゃんにとっては心中だよ。真澄ちゃんも趣味悪いなあ。こうなるの解っててやってるんだから」
 
 
 こうなるの、とはどういうことだろう。健一は思い悩むように眉を寄せた。
 
 
「健いっちゃんも、もうちょっと前向きに考えてみたらぁ? ある意味最高に愛されてるんだから」
「あんな奴に好かれたくなんかない」
「でも、好かれちゃったものは仕方ないじゃないか。素直に現状を受け容れるのも幸せへの近道かもしれないよ?」
「幸せになりたいわけじゃない。あいつを殺したいだけだ」
 
 
 頑なに受け容れない健一に業を煮やしたのか、腹沢は溜息をついて諦めたように首を左右に振った。
 
 
「そこまで言うんなら、別にいいけどね。俺は手伝わないけど、健いっちゃんの好きなようにすればイーんじゃない?」
 
 
 最後に投げ遣りな台詞を吐いて、腹沢は帰って行った。
 
 帰り際に言った「ずっと一緒にいれば、自然と愛情も湧くもんさ」という台詞が堪らなく不愉快で、健一は障子に向かって枕を投げつけた。歪に曲がった障子を眺めながら、健一は腹沢などを頼ろうとした自分を呪った。あんな内臓集めて悦んでるような狂人に自分の気持ちなどわかるはずがない。
 
 気付けば、掌に汗をかいていて、健一はそれを布団で拭った。軽く掌を握ったり開いたりを繰り返して、人を殺すということを考える。この手がいつか必ず吾妻を殺す日が来る。その日は健一の命日になるかもしれない日だ。
 
 心中という腹沢の声が脳裏を過ぎったが、頭を左右に揺らして振り払った。もう引き返すことも方向を変えることも出来ない。崖へと目指して進むしか道はないのだ。落下することに恐怖を覚えるよりも早く、迅速に、飛び降りることを望んで。
 
 

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