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08 醜悪

 
 七日目の朝。日課のように散々吐き散らかした後、流動食じみた粥を苦行のように空っぽの胃に流し込んでいた時に、吾妻が訪れた。部屋の隅に正座して畏まっている弥生には目線一つくれず、吾妻は健一に朗々とした笑みを向けて言った。
 
 
「おはよう健一、良い天気だね。今日は一緒に挨拶に行こうか」
 
 
 その唐突さと言葉の意味不明さに、健一は一瞬唖然とした。力の抜けた手からスプーンが滑り落ちて、畳の上に粥が零れる。弥生が素早くそれを布巾で片付けるのを視界の端に収めながら、健一は眉間に皺を寄せた。
 
 真っ黒なスーツを着た吾妻は健一を蹴り飛ばした日と同じように髪を後ろに撫で付けている。違うのは初日と同じ細見の眼鏡を掛けている事だけ。その表情は嬉しそうに緩んでいて、無性に気に食わない。
 
 
「誰に」
「僕の家族だよ」
「何で、オレがお前の家族なんかに挨拶しなくちゃいけない。オレと全然関係ない奴らだ」
 
 
 駄々を捏ねるように跳ね除ければ、吾妻はお決まりのように困った笑みを頬に滲ませた。その情けない笑みを見る度に、吾妻の印象は『温和そうな田舎教師』に逆戻りする。その度、健一は吾妻に傷め付けられた下腹を、拳で押し潰して思い出す。その優しい仮面を被った田舎教師が自分にどれだけ凄惨な仕打ちをしたのか。一週間前に皹が入れられた肋骨は殆ど融合しかけていたが、それでも煮え繰り返った腸は今だ怒りを治めてはいない。後腔は癒えても、犯された屈辱は消えなかった。
 
 痛いぐらい下腹を圧迫しながら、健一は奥歯を噛み締めた。身体が吾妻への恐怖に震えるのは健一の矜持が耐え切れなかった。震えを押し殺して、憎悪だけを腹の底から漲らせる。
 
 二日ぶりに見る吾妻の顔は反吐が出る程憎らしい。否応がなく首につけられた首輪の存在を思い出すからだ。もう片方の手で首輪を探って、その硬い皮の感触を指先に感じて息が止まりそうになる。
 
 
「オレは何処にも行かない。お前なんかと一緒に歩くのも嫌だ。同じ空気を吸うのも胸糞悪ぃ。お前の家族の顔も、見たくない」
 噛み締めるような声音で断言する。吾妻は眉をハの字に曲げて、足音も立てずに健一へと近付いて来た。距離が縮むごとに、健一の筋肉は硬直し、心臓は跳ね上がった。下腹を更に押し潰して、恐怖を押し隠す。健一の前に緩く膝を降ろした吾妻を睨み付けた。
「健一がこの部屋から出たくないって言うなら構わないけどね。だけど――」
 
 
 言葉が途切れたと思った瞬間、吾妻の人差し指が首と首輪の隙間に差し込まれ、健一の身体は吾妻へと引き寄せられていた。驚きに目を剥いて見上げれば、鼻先が触れ合いそうな距離に吾妻の眼球が見えた。視線が合えば、吾妻が隠微な微笑みを浮かべる。
 
 
「一日中強姦されるのと〝胸糞悪い僕なんか〟挨拶に行くのと、どっちがマシ?」
 
 
 吾妻の片腕は健一の腰に回されていて、その掌が脇腹を撫ぜていることに健一はゾッとした。背筋に悪寒が走って、体温が抜ける。
 
 健一の眼球の奥に怯えが走ったのを、吾妻はきっと気付いただろう。悔しさと恐ろしさに、健一は下唇を噛み締めた。恐怖が殺意を凌駕して、健一の身体を動けなくする。言いたい言葉を言えなくする。こんなのは恐怖政治だ。愛してるなんて嘘っぱちで、吾妻は恐怖で健一を支配したいだけだ。ひとしきり下唇を噛み締めて押し黙った後、健一は虫のようなか細い声で言った。
 
 
「…あいさつ、行く」
 
 
 答えた途端、吾妻の面に満足そうな笑みが浮かんだ。健一の頬に羽のようなキスを落として、吾妻は「いい子だね」と耳元に囁いた。
 
 身体から力が抜ける。恐怖を眼前に突き付けられると、途端歯向かえなくなってしまう自分が情けなかった。殺意が縮こまって、臆病な自分が顔を覗かせて吾妻の言葉に従順に頷いてしまう。自己嫌悪が滲み出して、全身を満たしていく。こんな自分なんか死んでしまえばいい。だけど、死ねない。吾妻を殺すまで死ねない。まるで呪いのように、健一を縛り付けて、自由から遠ざかって行く。
 
 健一は縮こまった殺意を微かに込めて、吾妻の肩に爪を立てた。だが、それはスーツの生地に吸い込まれて、吾妻の皮膚までは届かない。丸い爪では吾妻を傷付けることすら出来ないのかと思うと、何だか酷く虚しかった。
 
 
 
 
 
 
「そのまま挨拶に行く訳にもいかないしね、健一の好きな服を選んだらいいよ」
 
 
 弥生、用意しろ、という言葉を皮切りに目の前に並べられる大量の服を眺めて、健一はうんざりした心地に陥った。着物から洋装、カジュアルから正装まで、よくもこれ程まで服を集めたものだと呆れ半分に感心してしまう。皺一つないこれら新品の服全てが自分のために用意されたものだとしたら、いっそ気味が悪い。並べられた服の一つ一つから粘着くような執着心を感じて、健一は嫌悪に顔面を歪めた。
 
 結局、健一は小学校の制服に似た白のシャツと黒の半ズボンを選んだ。モノトーンな服の中で、唯一細い首に嵌められた真っ赤な首輪だけが異様で不気味だった。
 
 首輪に触れながら『外したい』という視線を込めて吾妻を見たが、吾妻はうっそりと微笑むだけで、その瞳は言外に『外すな』と言っていた。
 
 甲斐甲斐しい弥生の手によって、服を着替えさせられながら、健一は包帯が巻きつけられた自身の胸部を眺めた。激しい運動をしない限りもう痛むことはなくなったけれども、吾妻の顔を見ると疼くように肋が痺れる。蹴り飛ばされた瞬間の内臓が潰れるような衝撃、痛み、プライドを根元から粉々に砕いて、無条件で平伏させるような暴力。
 
 今日、もし健一が吾妻の家族に失礼なことをすれば、またあんな暴力が行われるのだろうか。また、頭を池に沈められるのだろうか。思えば、皮膚の底から怖気が湧き上がって、咽喉の奥から嫌な唾液が込み上げて来た。健一はそれを必死で飲み込んだ。怯えたくはない。だけど、怖い。
 
 だが、考え方を変えれば、これは〝チャンス〟だ。こんな部屋で閉じ篭っているよりも、部屋の外に出る方が吾妻を殺す方法が思いつくかもしれない。出来れば包丁、じゃなくてもいい。ボールペンでもフォークでも、少しでも武器になりそうな物が手に入ればいい。思えば、指先に力が漲った。
 
 支度が終れば、吾妻が「おいで」と手を伸ばして来た。躊躇と嫌悪を瞳に滲ませて、手を掴もうとしない健一を見れば、吾妻は僅かに困ったように笑った。
 
 嗚呼、またその笑いか。その笑みを見る度に、健一の心臓はわけのわからない感情に締め付けられた。
 
 吾妻は最低最悪で、自分や自分の家族に非道の限りを尽くした男だというのに、何だか独りぼっちの小動物に見えてしまう。
 
 燃え滾る殺意に混じる、その微かな感情を健一は持て余していた。どう対すれば良いのかも分からず、不貞腐れたような顔になってしまう。
 
 そのまま吾妻の目を見上げていれば、吾妻はのろのろと手を引っ込めて健一から目を逸らした。
 
 
「行こうか」
 
 
 吾妻の声は少し冷えていた。その声に背中を押されて、健一はこの一週間ずっと閉じ篭っていた和室から出た。
 
 
 一週間ぶりに見る外の景色。太陽の光が眩しくて、思わず目を細めた。
 
 吾妻の後ろを着いていく。渡り廊下を渡って、母屋へと。吾妻は歩く速度こそ健一に合わせているものの、一度も健一を振り返ることはない。それが、何だか存在自体を忘れられてしまったようで微かな心細さを感じる。
 
 何処までも続く廊下を歩きながら、健一はふと泣きだしたい心地に陥った。此処に来てから何度も思った『どうして自分はこんなところに居るんだろう』という自問自答が再び胸の内に溢れる。どうせ挨拶に行ったって、同情か好奇の眼差しに晒されて辛い思いをするだけなのに。
 
 考えている内に吾妻の足が止まっていた。開かれた障子の中に入っていけば、棒切れのような老人が一人布団の上に寝そべっているのが見えた。至る所がはげ散らかった真っ白な白髪にどす黒い肌色。皮がだるんだるんに弛んだ骨っぽちな身体が、強欲な人生の終りを示しているようにも見えて、僅かにゾッとした。
 
 
「父さん、調子はどうですか?」
 
 
 老人の傍らに座った吾妻の問い掛けに、老人は弛んだ瞼を薄く開いた。唇から「あー」とも「うー」とも付かない呻き声が零れて、加齢臭漂う空気を隠微に震わせる。
 
 吾妻の父親ということは、目の前の枯れ果てた老人が腹沢の言っていた【吾妻組】の組長なのだろうか。組長という貫禄は一切感じられないけれども。
 
 
「だ~れ~だ~」
 
 
 震えた声が老人の咽喉から溢れる。吾妻を見詰める老人の瞳は、思ったよりも眼光が鋭く、薄灰色に濁っていた。
 
 
「真澄です、父さん。貴方の息子の真澄です」
「まずみぃ~? じらん~、オマエなんぞじらん~」
 
 
 喚きながら駄々っ子のように足をバタつかせる老人を、吾妻は苦笑して眺めていた。
 
 
「僕の事は気が向いた時にでも思い出して下さい。今日は父さんに紹介したい子がいて来ました。健一です」
 
 
 唐突に名前を呼ばれて、健一の身体はビクリと大きく跳ねた。一瞬躊躇した後、おずおずと吾妻の隣へと進んで、老人の傍に腰を下ろした。そうして、小さく頭を下げる。老人の濁った瞳が健一へと鈍く向けられた。
 
 
「さる、か?」
 
 
 老人の口からぽつりと零れた一言に、健一はムッと眉間に皺を寄せた。隣では吾妻が小刻みに背中を震わせて笑っている。
 
 何が猿だ。オレが猿だったら、じいちゃんなんか棒切れじゃないか。
 
 
「いえ、猿ではないです。健一です。これからうちで面倒を見ます」
 
 
 面倒を見る、という一言が気に入らず、健一は嫌味ったらしく小声で「面倒見られます」と呟いた。その声は老人には届かなかったものの吾妻には聞こえていたのか、吾妻の背がまた笑いに震えた。咽喉の奥から笑いを押し殺す声まで聞こえた。
 
 
「父さんも了承して頂けますか?」
「べつに~、いい~んじゃないが~」
 
 
 何とも暢気なガラガラ声が零れる。健一は思わず舌打ちしそうになった。了承してくれなくていい、むしろ駄目だと言ってくれれば良いのに。あんたの一言で、オレの人生が変っちゃうって言うのに、そんな能天気に決めないでくれ、と文句を言いたくなる。微かな苛立ちに視線を背けていると、不意に舐めるような視線を感じた。視線を老人へと移せば、老人の瞳がじっと健一を見詰めていた。
 
 
「小さいのぉ~。やよいも、このぐらいだった、のお~」
 
 
 『弥生』と出された名前に、目を瞬かせる。老人の瞳が微か粘ついた色を見せていた。〝欲〟を滲ませたその瞳に、鳥肌が立つ。小枝のような老人の指がぷるぷると震えながら伸ばされ、健一の丸い膝頭を掴んだ。
 
 
「弥生が此処に来た時は、健一ほど小さくはありませんでしたよ」
「ぞう、だったがの~?」
 
 
 諭す吾妻の声を無視して、老人の手が健一の膝頭を撫で回す。ガサガサとした掌の感触が気色悪くて堪らない。奥歯を噛み締めて、健一はその手を振り落としたいのを必死で堪えた。
 
 
「おぉ、わがい肌じゃ。やわい肌じゃのお~」
「父さん、それぐらいにしてあげて下さい。健一も困ってますよ」
 
 
 苦笑い混じりに吾妻が老人の手を取り除こうと動いた瞬間、老人の手が俊敏な動きで吾妻の手をぴしゃりと叩き落した。
 
 
「オマエなんぞじらん! はよ出ろ! ぎえろ! わじは、この子とあぞぶんじゃ~! オマエなんぞぎえろ~!」
 
 
 濁音だらけの罵声を吾妻に浴びせ掛けて、布団から跳ね起きた老人は吾妻の身体を「ばかもんが、ばかもんが」と小さな拳でぽかぽかと何度も殴った。
 
 ぽかぽかぽかぽか、まるでモグラ叩きのように老人の手は吾妻の頭や肩に振り落とされる。吾妻は両腕でガードはするものの、反撃しようとはしない。一度だけ「父さん、止めて下さい」と言う小さな声が聞こえたが、それも一度きりで、二度目は聞こえなかった。
 
 
「オマエらはワシがじぬのをまっとるんだろう! わしゃ死なんぞ~! まだ死なんからな! オマエらにビタ一文やるもんが!」
 
 
 ぽかぽか、ばかもんが、ぽかぽか、ばかもんが。
 
 繰り返される殴打と言葉に、気付けば、吾妻の顔は微かに笑みとも悲しみとも付かないものに歪んでいた。その表情を見た瞬間、健一は何か痛いもので胸を締め付けられるのを感じた。そして、わけもわからず叫んでいた。
 
 
「じいちゃん、やめろよ!」
 
 
 叫んだ瞬間、吾妻が驚いたように健一を見詰めた。そして、驚きの表情が泣き笑うような表情に変っていくのを見て、健一は堪らなく寂しくなった。何でそんな表情するんだよ。止めてくれよ、そんな縋るみたいな、助けを求めてるみたいな――
 
 そうして、吹き飛ばすように〝こう〟叫んだ。
 
 
「オレが殺すんだから!」
 
 
 こう言っておかないと、自分が吾妻を許してしまいそうな気がした。だから、自分に言い聞かせるように叫ぶ。殺すんだ。吾妻はオレが殺すんだ。焼け爛れた炭を思い出せば、再び心臓から憎悪の炎が燃え上がった。今だ老人にぽかすかと叩かれている吾妻を睨み付ければ、吾妻は怖いぐらいの無表情になって健一を見詰めていた。感情の窺えない眼球を見た瞬間、健一は怖気に内臓が震えるのが解ったが、『殺す』という言葉を訂正する気にはならなかった。
 
 自分の胸倉を両手で握り締めて、吾妻の眼球を視線で射抜く。吾妻に対する微かな心の痛みを押し殺すように憎悪と殺意だけを漲らせる。そうしなければ、健一が生きてる意味がなくなってしまう。
 
 
「やよいぃいぃ~! やよいいいいいぃぃ~!!」
 
 
 老人が唾液を撒き散らしながら弥生の名前を喚き散らす。細い足で地団太を踏んで、両腕を振り乱す姿は幼稚園児以下だった。醜悪という言葉を、健一はふと思い出して、唾棄したい心地に陥った。醜悪な、棒切れだ。
 
 その声を聞きつけたのか、廊下からパタパタと慌てたような足音が近付いてくる。
 
 
「真之介様!」
 
 
 微かに髪を乱した弥生が部屋に入り、暴れる老人を押さえ付ける。途端、老人は赤子のように親指を吸いながら、弥生の胸に抱き着いた。ちゅうちゅうと親指を吸う音が不愉快だった。
 
 
「やよいぃ~、きらいじゃぁ~、わし、アイツぎらいじゃ~」
 
 
 小枝のような人差し指は吾妻へと向けられていた。吾妻はそ知らぬフリで、乱れた髪を手櫛で直している。その瞳は健一を見ようとはしない。
 
 健一は自分の胸に僅かな後悔が生まれているのに気付いた。あんな事言わなければ良かった。だが、それを思えば、自分の存在意義を失ってしまうことになる。吾妻を殺さない自分はこの世に居る意味がない。そんな盲目的な思いが健一の唇を思うように動かせなくする。
 
 父親に拒絶される吾妻が気の毒に思えても、悲しみを感じても、それを口に出してはいけない。口に出した瞬間、自分はボロボロと崩れていってしまう。
 
 
「弥生、後は任せた。父さん、失礼します」
 
 
 簡潔に述べた吾妻は立ち上がり、部屋の出口へと歩き出した。健一も後に続く。老人をあやす弥生の声が虚しく部屋に響いていた。
 
 

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