Skip to content →

09 兄弟 *軽暴力描写有

 
 吾妻は振り返らない。先ほど廊下を歩いていた時よりも頑なに、その背中は押し黙っていた。
 
 距離を一メートル程あけて吾妻の後ろを着いて歩きながら、その背中をじっと見詰める。吾妻の泣き笑うような表情、それが無表情に変った瞬間を思い出す度にツキリと胸に針が突き刺さる。
 
 自分が罪悪感を感じる謂れはないのに、どうしてだか吾妻に謝らなくてはいけない気持ちになる。
 
 
『馬鹿馬鹿しい、同情する暇があるなら吾妻を殺す方法を考えればどうなんだ』と自分自身を鼻で嗤っても、胸の痛みは消えなくて、健一は緩く胸元を握り締めた。
 
 
「――健一はプリンとケーキどっちが好き?」
 
 
 唐突に降りかかって来た質問に、健一は驚いたように身を竦めた。足取りを緩めぬまま、表情も見せずに吾妻が喋る。怒っているとも上機嫌とも判断できない声音に、健一は不安を覚えて押し黙った。
 
 
「会社の近くに美味しそうなケーキ屋があるんだ。もし健一が甘い物が好きなら、何か買って帰るんだけど」
「会社って何」
「僕が働いてる会社」
「何の、会社だよ」
「不動産とか、個人とか他社への資金提供とか――こんなこと興味ないだろう? それより、健一は甘い物嫌い?」
 
 
 はぐらかす様に話を変えたところで、吾妻が足取りを止めて振り返った。口元に小さく笑みを浮かべた吾妻は悲しそうではなかった。だけど、その笑顔は貼り付いた仮面のようにも見えた。事務的な笑顔に、僅か戸惑う。それと同時に、その形式的な笑顔にわけもなく嫌悪感を抱いた。上っ面だけの醜い笑顔だ。
 
 
「甘いものは、嫌いじゃない。けど、いらない」
「じゃあ、買って来るよ。フォンダンショコラが美味しそうなんだ」
「いらない」
「だったら、チーズケーキが良い? それともクリーム系?」
「いらない」
「健一はどんなケーキが好き?」
「いらないッ!」
 
 
 繰り返される遣り取りに苛立ちが募り、最後は金切り声で叫んでいた。廊下を片足でドンッと踏み込んで、肩を怒らせる。吾妻が自分に与えようとするものを頑なに拒絶する。甘い物を与えられれば言う事を聞く動物だと思うなとばかりに、吾妻を睨み付けた。
 
 吾妻は『そう』と呟いて、事務的な笑みを微かに深めただけだった。
 
 そうして、再び歩き始める。途端、沈黙が支配した。廊下を歩むとんとんという足音だけが響いて、何だか居た堪れない。苛立ちと歯痒さが入り混じって、腹の中がもどかしい。吾妻という男は、どうにも面倒臭い。
 
 
「…さっきの、じいちゃん、が組長って奴?」
 
 
 沈黙の重さに耐え切れずに喋りかければ、意外そうに瞼を瞬かせた吾妻が健一を見遣った。
 
『何故そんな事を聞くの?』と言外に語る吾妻の瞳を見て、健一は『聞きたいから聞いただけだ』といった気持ちを込めて唇を尖らせた。アヒルのような唇をした健一を見て、吾妻が小さく笑い声を零す。
 
 
「うん、そうだね。吾妻真之介、組長、ボス、リーダー、親分、最高権力者、王様、独裁者、ヒトラー」
 
 
 リズムに乗せるように語る。吾妻の片手が調子を取るように、軽く指揮棒を振るように動いていた。その子供っぽい仕草が吾妻の外見とちぐはぐで、何だか不思議だ。
 
 
「あんなので大丈夫なわけ?」
 
 
 歯に絹着せぬ質問を投げ掛ければ、吾妻が軽く噴き出した。はっ、と大きく肺から空気を吐き出して目を細める。
 
 
「一応一番偉い立場の人なんだから、〝あんなの〟呼ばわりは駄目だよ健一」
「だって、変だったじゃん」
「仕方ないよ、痴呆症は簡単には治せない」 
「チホウショウ?」
「呆けてるってこと。歳を取ると頭がパーになっちゃうんだよ」
 
 
 吾妻は両手を上げて、おてあげのポーズを取った後、こめかみの横で人差し指をくるくると回した。おちょくるような幼稚な動作。
 
 
「じいちゃん、頭がパーになってんの?」
「そうだね。そのくせ権力欲は持ち続けてるんだから、煩わしいったらないよ」
 
 
 最後の言葉は吾妻の独り言のように呟かれた。吾妻は唾棄するような笑みを口元に浮かべて、眉根を寄せている。呆れ半分、諦め半分、そこに一つまみの憎悪を混ぜたような表情だった。
 
 
「嫌いなのか?」
「そういうわけじゃないよ」
「父親だよ? そんなわけないじゃないか」
 
 
 と吾妻の言葉は続けられたが、健一にはそれ子供の言い訳のように聞こえた。
 
 
「弥生は、何なの?」
「弥生は父さんの愛人だよ。確か僕が十七歳の時に来て、弥生は僕と同い年だから、大体十年ぐらい愛人業を続けてるかな」
「…弥生って女?」
 
 
 吾妻が今度こそ本格的に噴き出した。両腕で腹を抱えて、廊下の真ん中で大声で笑い出す。健一は面食らった表情で、二三歩後方へと退いた。
 
 
「弥生が女に見える? 確かに女っぽい顔だとは思うけどね」
「だって、じいちゃんも弥生も男じゃん」
「僕と健一だって男じゃないか」
「――オレはあんたの愛人なの?」
 
 
 微かに言葉が吃った。自分でも自覚していない事を唐突に告げられて、健一は怒る以前に呆然とした。
愛人というのは、健一の頭の中では金持ちの男に買われてる女の人の事を言うものだと定義されていた。自分は女でもないし、吾妻にお金を払って貰ったわけでもない。それなのに、愛人なのだろうか。健一は足らない脳味噌で考えて、それからようやく両肩を怒りに震わせた。
 
 
「オレはあんたの愛人なんかじゃない」
「それを決めるのは健一じゃなくて僕だよ」
「なんで――」
「健一が弱っちいから」
 
 
 言葉を遮られて、自分が弱いということを断言される。
 
 弱いから何をされても仕方ない。弱いからどんな風に扱われても仕方ない。弱いから愛人にされても仕方ない。
 
 否応がなく無理矢理理屈を押し付けられる。違う、こんなのは屁理屈だ。解っていながら、否定できないのは、確かに自分が弱いからなんだろう。弱いから、無茶な考えを押し付けられても、跳ね返せないんだ。
 
 吾妻は皮肉気な表情を浮かべて、悔恨に震える健一をせせら笑った。
 
 
「悔しかったら――」
 
 
 言葉は途切れて、十メートル程度離れた先にある障子の隙間から「何しとんの?」という暢気な声が飛んできた。障子の隙間からは、二十代後半に見える垂れ目の男が頭を覗かせていた。髪の毛先は、まるで寝起きのようにあっちこっち無造作に跳ねている。
 
 
「真樹夫兄さん、丁度良かった。今兄さんに会いに行こうとしていたんです」
「ほう、将兄にもか?」
「はい」
「そりゃ、ほんま丁度ええわ。将兄も此処おるで。茶ぁしとるけぇ、お前もこっちきいや」
 
 
 柔らかい関西弁が鼓膜を擽る。だが、よく聞けば、関東のイントネーションが半端にごちゃ混ぜになっている。図って関西弁を使っているような雰囲気が感じられた。
 
 部屋に入ると、真ん中に白い大理石のテーブルを挟んで、二人掛けのソファと一人掛けのソファ二つが対峙するように置かれているのが目に入った。
 
 一人掛けソファの一つには、角刈り頭の大男がどっかりと座り込んでいる。吾妻や健一を凝視する三白眼の眼差しは鋭い。元来からそういう目付きというよりも、その瞳は明らかに敵意を滲ませていた。
 
 
「将真兄さん、御邪魔します」
 
 
 先ほどとは打って変わった和やかな笑みを浮かべた吾妻が挨拶をする。将真と呼ばれた大男は一度フンッと鼻息を荒げて、返事を返すこともなくそっぽを向いた。
 
 将真の隣のソファに座り込んだ真樹夫は、吾妻と健一にソファに座るように促しながら、テーブルの上に置いてある桐の箱を手元に引き寄せた。
 
 
「なんや、大沢の爺さんとこから中元が届いてのぉ。それが海苔の代わりに金箔貼った煎餅っつうけったいなもんでな、将兄と毒見しよったんや」
「味見でなく毒見ですか?」
「ほや、あの爺さんなら毒ぐらい入れかねんやろ? 俺ら兄弟殺してまえば、後はうちの親父死ぬの待つだけやもんなぁ」
「だったら、余計に食べちゃ駄目じゃないですか」
「いや、さっきそいつに先に食わせたんよぉ。そしたら、上顎に金箔引っ付くやら、中に金粉入ってて不味いやらでヒィヒィ言ってなぁ」
 
 
 〝そいつ〟と真樹夫の指が障子の直ぐ傍で佇む男を指差す。眉が半分もなく厳つい面をした青年は似合わぬエプロンを身に付けて、おどおどとした表情で畏まっている。
 
 
「こんなん食いもんに対する冒涜やわ。こんなもんより伊坂屋の豆腐饅頭があるわ。小山、饅頭と茶ァ持ってきい。あぁ、こまい子には何かケーキと…ミルクでええやろ?」
 
 
 エプロン青年こと小山へと向けられていた真樹夫の視線が唐突に健一へと向けられる。咄嗟の事に思わず頷きながら、健一はまじまじと真樹夫の顔を凝視した。のんびりと垂れた目尻が真樹夫の印象を柔和なものにしている。
 
 
「何でガキだけケーキ出すんじゃ」
「何? 将兄もケーキがよかったん?」
 
 
 将真の不満を隠そうともしない声音が響く。真樹夫がおちょくるように覗き込むと、将真は眉根を寄せた。
 
 
「そういう事じゃない。何でガキだけ特別扱いなんじゃって、わしは言っとるんじゃ」
「こまい子に饅頭とほうじ茶なんてジジむさいもん食わせられんやろう。こまい子もケーキの方がええやろ?」
 
 
 真樹夫の言葉を皮切りに、将真の視線まで健一へと向けられる。その無言の威圧感に、健一は身体を硬直させた。口の中が嫌な唾液で粘着く。軽く口を蠢かして、ごくりと嚥下する。
 
 
「どっちでもいい、です」
「なァ、こまい子、名前なんて言うん?」
 
 
 真樹夫の饒舌で、くるくると話題が変わる。饅頭とケーキの話など忘れたかのように、真樹夫は一直線に健一を見詰めていた。柔らかな眼差しだったが、何処か品定めするような視線にも見えて、健一は真樹夫から思わず視線を逸らした。微かな嫌悪感に再び口内が粘つく。別室から戻ってきた小山がテーブルに饅頭やケーキを並べるのを眺めながら、健一は膝頭の上で指先を握り締めて押し黙った。
 
 
「健一です。泉健一」
 
 
 黙り込んだ健一の代わりのように吾妻が答えれば、途端、将真の三白眼が刃物の切っ先のように尖った。厚い唇からチッという舌打ちまで零される。真之介が強欲さの塊だとしたら、将真は傲慢さの塊だと思った。他人が自分の言うことを聞くのが当り前だと思っている。
 
 
「お前に聞いとんじゃない。そこのガキに聞いとんじゃ。言葉も喋れんのか、そのガキは」
 
 
 顎で人を指す横柄な仕草に、健一は腹の底から反抗心が芽生えてくるのを感じた。怯えて縮こまっていた自尊心が怒りの熱を孕んで表面化してくる。握り締めた指先の爪が掌に食い込む。
 
 
「喋れない訳じゃない。あんたと喋りたくないだけだ」
 
 
 吐き捨てた瞬間、将真の鼻腔が広がって、大きな右拳が大理石のテーブルを叩いていた。ガンッ、と鈍い音が響く。
 
 その瞬間、健一は「男のヒステリーなんて最悪だ」と無意識の内に呟いていた。叩き付けられた将真の右拳が怒りにぶるぶると小刻みに震えている。
 
 
「可愛げのないガキじゃのう。誰に口聞いとんか解っとるんか、アァ?」
「自分より弱い奴にしか威張れない馬鹿野郎にだ」
「クソガキが。手前の口縫い合わせて喋れなくしちゃろうか」
「あんたが喋れって言ったくせに、自分の都合が悪くなると喋れなくするのか? 下らねぇ、ものを考えてから喋ったらどうなんだ低脳」
 
 
 思い付く限りの罵りを口に出した瞬間、左頬に弾けるような痛みが走って、健一の身体はソファに肩から倒れこんだ。衝撃に目が回る。頬肉がじんじんと痺れている。
 
 ソファの肘掛を握り締めながら、健一は将真に殴られたのかと思った。だが、ぼやけた視界で将真を見遣れば、将真はぽかんと口を開いて健一を見詰めている。ならば、と視線を隣にやれば、やっぱり、にっこりと嗤った吾妻の姿が見えた。
 
 
「健一、将真兄さんに謝りなさい」
 
 
 優雅さすら感じさせる口調に唾を吐き捨てたくなる。熱を発し始めた左頬を掌で押さえながら、健一は憎悪を込めた眼差しで吾妻を睨み付けた。
 
 
「いやだ」
 
 
 今度は反対側の頬に衝撃が来た。パァンと風船が破裂するような音が響く。口内の肉が切れて血の味がした。痛みに生理的な涙が浮かんで来て、小さく鼻を啜る。だが、吾妻に涙を見せるのは嫌だった。だから、必死に奥歯を噛み締めて、嗚咽に引き攣りそうになる咽喉を堪える。
 
 
「謝りなさい」
「や、」
 
 
 三度目の平手。痛みが麻痺して来て、その代りのように視線が定まらなくなった。世界がぐるぐると回って、何度も瞬きを繰り返す。吾妻が此方へと手を伸ばしているのが見える。その手は健一の頭部を鷲掴んで、次の瞬間、小さな額を大理石のテーブルへと叩き付けていた。自分の額の鳴る音がガァンガァンと鐘のように頭の中で反響する。
 
 
「すいません、将真兄さん。まだ口の利き方も知らない子供で、今日はこれで勘弁してやって下さい」
 
 
 そう言って、健一の額や顔面を二三度テーブルへと叩き付ける。途端、乗せられたケーキや茶の食器が跳ね上がってガチャンと音を立てた。毛足の長い紺色の絨毯の上へと、真っ白なショートケーキがべちゃりと落ちるのが見えて、勿体ないなぁなんて暢気な考えが脳裏を過ぎった。
 
 そして、鼻腔の奥からツンと血の臭いが漂ってきた途端、白い大理石の上にぽつぽつと赤い染みが落ちた。畜生、鼻血まで。
 
 
「もうやめいや真澄。こまい子、気失ってまうやろうが」
「真樹夫兄さんも、すいません。御茶の最中に汚い言葉を聞かせてしまって」
「そんなんどうでもええわ。将兄ももうええやろ? もう十分やろ?」
「もう止めろ」
 
 
 引き攣った将真の声が聞こえる。
 
 
「将真兄さん、許して頂けますか?」
「もういいから止めろ! お前の笑ってる顔は胸糞悪くて堪らんのんじゃ!」
 
 
 終止符は将真の怒鳴り声だった。怒鳴り声が終るか終らないかの内に、健一の身体は再びソファの上に放り出されていた。
 
 呆けたまま鼻を啜れば、涙とも鼻血ともつかない塩味が咽喉の奥で広がった。暴力をふるわれた後は、指先一本一本が鉛のように重い。ぎこちなく腕を動かして、手の甲で鼻先を拭えば、べっとりと血がこびり付いた。
 
 胸糞悪い。そうだ、将真の事は嫌いだが、あんたの言っている事は正しい。そう、吾妻は胸糞悪い。吾妻の声を聞くだけで、笑顔を見るだけで、反吐が出そうになる。こんなにも不愉快で歪んだ存在は他に見たことがない。
 
 視線を上げれば、真樹夫の曖昧な笑顔に、将真の蒼くなった厳つい面、小首を傾げた吾妻の苦笑いが見えた。
 
 
「将真兄さん…」
「お前に兄呼ばれりされるのも反吐が出る! 誰ぞと知らん野良犬の息子が、堂々とうちの敷居を跨いでいい身分じゃと思っとんか!」
 
 
『野良犬の息子』、将真はそう喚いた。再び将真の拳は大理石のテーブルに叩き付けられたが、その拳は怒りとは違うものに震えていた。
 
 その瞬間、健一は、将真の眼球の奥に吾妻に対する畏怖のようなものを感じ取った。嫌悪と憎悪と交じり合った恐怖のようなものを。将真は、自分の弟が怖いのだろうか。それとも、吾妻は弟ではないのか。ならば、吾妻は何なのだろう。
 
 ぼんやりと考えていれば、顔の上に不意に影が落ちた。ソファに横たわったまま仰ぎ見れば、相変わらず柔和な眼差しで此方を見下ろしている真樹夫と視線が合った。
 
 
「こまい子、平気ィ?」
 
 
 語尾を上がり気味に問い掛けてくる。緩慢に頷いて起き上がれば、黄色いクマらしきキャラクターが描かれたハンカチが鼻に当てられた。
 
 
「――この、ハンガヂ」
「ん、なに?」
「あんだの?」
「そう、可愛えやろ?」
「…似合わない」
 
 
 真樹夫が噴き出した。膝を二回程軽く叩いて、細めた眼差しで見詰めてくる。顔に似合わない小動物のような動作で、小山が湿布やガーゼや包帯を差し出してくる。それを受け取った真樹夫は、甲斐甲斐しく健一の頬に湿布を額に包帯を巻き始めた。健一はハンカチで鼻を押さえたまま、思ったよりも丁寧な真樹夫の手つきを眺めた。
 
 
「こまい子は正直もんやなあ。正直もんは損やで」
「今、損したばっかりだ」
 
 
 血を垂れ流す鼻を指差せば、真樹夫が『そりゃそうだ』とばかりにもう一度噴き出した。よく笑う奴だ。吾妻もよく笑うが、吾妻のような仮面的な笑顔じゃなくて、真樹夫の笑顔は本心からの笑いのように見えた。だが、その笑顔が悪意を含んでいるか善意を含んでいるかは別の話だが。
 
 
「それに、オレ、こまい子じゃない」
「じゃあ、お稚児ちゃん?」
「おちご?」
「お稚児の意味知らん? んー、どう言ったらええんやろうなぁ。説明すんのもめんどいし、今度辞書貸したるけん自分で調べぇ?」
 
 
 一瞬、真樹夫の笑顔が小馬鹿にするような狡猾な色に染まった。その眼球は健一への揶揄も含んでいるように見えた。
 
 
「今度、調べる。でも、オレ、健一だから」
「ほうか。俺はマキオな。吾妻真樹夫。そんで、そこの怖い兄ちゃんが吾妻将真」
「あいつの兄ちゃん?」
 
 
 右手でハンカチを押さえたまま、顎先で吾妻を指す。真樹夫は曖昧に頬を歪ませた。
 
 
「うーん」
「あいつのこと、嫌い?」
「そういうわけじゃないんやけどなぁ」
 
 
 曖昧なままはぐらかすのは吾妻の真之介に対する反応と同じだった。下顎に軽く指を添えた真樹夫は思いあぐねるように眉間に皺を寄せていた。しかし、その悩む表情は大した深刻さも悲哀も含んでいない。今晩の献立を悩んでいるような気安さだった。
 
 もしかしたら、悩んでいるフリをしているだけで、真樹夫の中で吾妻に対する答えは出ているのかもしれない。
 
 途端、低い怒鳴り声が轟くように響いた。
 
 
「わしは嫌いじゃ! こいつは野良犬の息子のくせに、ガキでしかも男を愛人にしよった! どんだけうちの組の面汚すつもりじゃ!」
 
 
 将真の言葉に、健一の身体はビクリと震えた。ガキでしかも男を愛人に、それは自分の事だろうか。
 
 将真を見遣れば、ギラギラと憎しみを孕んだ三白眼が健一を睨み据えた。その瞳は健一を憎んでいるというよりも、健一を含む世の中全てを憎んでいるような脂ぎった眼差しに思えた。
 
 隣の吾妻を見遣れば、吾妻は一瞬苦いものでも噛んだかのような表情を浮かべた後、直ぐさま仮面の笑顔を被り直した。
 
 
「兄さん、僕は運悪く家族を火事で失ってしまった可哀想な子供を養っているだけですよ。そんな子を僕の愛人呼ばわりするなんて、健一が可哀想じゃないですか。ねぇ?」
 
 
 飄々とした吾妻の物言いにカチンと来る。『運悪く』だなんて、どの口が言ってるんだ。お前が殺したんじゃないか。お前が、お前が俺の家族を炭にして、俺の人生をぐちゃぐちゃにしたんじゃないか!
 
 
「そんな言い訳が通用すると思っとんか! お前がそのガキをボコボコにして殺しかけとったんだって全部知っとんじゃけぇの!」
「躾ですよ、躾。将真兄さんもされたでしょう?」
 
 
 将真がハッとした顔で黙り込む。苦虫を噛み潰すような沈黙が続いて、暫くした後、将真が重く口を開いた。
 
 
「お前、何処まで知っとんじゃ」
「必要なだけですよ」
「お前はわしを馬鹿にしとんか」
「まさか」
 
 
 微かに嘲笑が入り混じった『まさか』だった。口調とは裏腹に、吾妻の顔にあの泣き笑うような表情が再び浮かび上がる。まさか、まさか、そんな訳がないじゃないか、と弁解しているような表情に見えた。
 
 しかし、将真も真樹夫も、吾妻のそんな表情に頓着する様子はない。どうして、あんな表情を気付かないでいられるんだろうか、と健一は不思議になった。
 
 
「もうええやないか二人とも。な、もうええやろ?」
 
 
 仲裁を取り持つように真樹夫が和やかな声を発する。将真は肩を怒らせたまま、勢いよく立ち上がった。
 
 
「お前の顔なんざ、もう金輪際見たくない! そのガキもじゃ! わしの傍に近づけるな!」
 
 
 捨て台詞を吐き散らかして、将真は足取り荒く部屋から出て行った。吾妻が「御手間おかけしました」とおざなりな言葉を呟いていたが、それが将真に聞こえていたかは判らない。真樹夫が緩く溜息をついた。
 
 
「お前、将兄怒らせんなや。あのブルドーザーを宥めんの大変なんやで」
「ブルドーザーですか?」
 
 
 吾妻が笑いに肩を震わせた。真樹夫がにやっと笑う。
 
 
「まんまやろ」
「素晴らしいネーミングですね」
 
 
 暫く密やかな笑いが交わされて、吾妻が思い出したように健一へと視線を滑らせた。唐突に向けられた視線に健一は肩を震わせて、ソファの上を後ずさった。吾妻は少し肩を竦めた。唇が小さく動いて、『ごめんね』と言っているようにも見えたが、健一は視線を逸らした。今更謝られたのだとしても許す気はないし、謝れば済むものでもない。そもそも謝って欲しくない。
 
 
「すみません、真樹夫兄さん、御茶の時間を邪魔してしまって」
「ええ、ええ。将兄と茶しとっても、最近は嫁はんの愚痴ばっか聞くことんなるんやけん、お釈迦んなって丁度良かったわ。それに、真澄のお稚児ちゃんにも会えたしなぁ」
 
 
 真樹夫に顔を覗き込まれて、健一は更に後ずさった。後ずさるスペースがなくて、尻だけがごそごそと藻掻く。
 
 途端、足掻くように動かしていた足の爪先にカツンと硬いものが当たる感触がした。見下ろせば、ぐちゃぐちゃに潰れたケーキの残骸と、その傍に銀色に光る金属が転がっているのが見えた。あ――
 
 
「なぁ、真澄、一つ聞いてみたいんやけど」
 
 
 意地の悪い声音で真樹夫が問い掛ける。柔和な顔立ちの底から狡猾な狸顔が覗いていた。
 
 
「セックスのセの字も知らん子供を蹂躙するのはどういう気分だったんや?」
 
 
 蹂躙の意味は解らずとも『セックス』という単語に健一の身体はギクリと強張った。吾妻は微笑みの仮面を被ったまま、ゆっくりと口角を引き上げている。吾妻と真樹夫は、お互いがお互いを化かしあっているような表情のまま暫く見詰め合っていた。
 
 
「質問の意味がよく解りませんが」
「真澄、俺が解っとらんなんて思ってないやろ? 将兄だって解っとる事を俺が解っとらんわけがないやろ? なぁ、別に俺はお前を責めようとしとるわけやないんで。お前がガキを犯そうが殴ろうが、ぐだぐだ説教垂れたりせぇへん。俺が聞いとんのはな、唯の好奇心や。それ以上でもそれ以下でもなく、単なる好・奇・心」
 
 
 しつこく繰り返される真樹夫の言葉に、吾妻は表情をほぐした。
 
 それから、湿布と包帯だらけになった健一の顔を見詰めて、僅か眼球の奥に『色』を含ませた。それは一週間前に布団に組み敷いてきた時の、欲情に塗れた吾妻の瞳だった。視線だけで皮膚を舐められる感覚。
 
 伸ばされた吾妻の指先が健一の髪を緩く梳く。健一は顎を引き、守るように下腹を抱えていた。治ったはずの下腹が疼く。
 
 
「心地良かったですけど、楽しくはなかったですね。心と身体は別物ですから」
「罪悪感っつうもんはないんか」
「そんなもの」
 
 
 健一の頭皮を軽く指先で擦りながら、何故そんなものを感じる必要があるのか、とばかりに吾妻は鼻先で嗤い飛ばした。
 
 
「罪の意識なんて感じるぐらいなら初めからしていませんよ。真樹夫兄さん、計画というものは考えて考え込んでから行うものですよね。僕は十分考えて悩んで、その結果計画を実行したんです。だから、後悔も罪悪感も抱いてません。僕は今の現状に満足しています」
「子供を犯して殴る現状に?」
「ええ、そうです。間違っていますか?」
 
 
 視線を健一へと向けぬままに吾妻の冷たい指先が皮膚の上を這う。頭皮から耳の後ろに、頬へ首筋へ鎖骨へ。怖気が静電気のように皮膚をピリピリと走って鳥肌を広げた。まるで冷凍庫に閉じ込められたかのように、身体が凍える。歯の根がカチカチと小さく神経質な音を発して、健一は奥歯を噛み締めた。
 
 触られるのが嫌で堪らない。嫌というよりも、怖い。暴力を震われるよりも、性的な眼差しで見られることの方が耐えられない。吾妻だけでなく性に対する嫌悪感が、腹の底から湧き上がってくる。
 
 嫌だ、嫌、そんな目で見るな。そんな手つきで触れるな。
 
 下腹をぎゅうと抱き締めたまま、健一は身体を小さく丸めた。
 
 
「間違ってるかどうか、俺には決められん。お前にも決められん。神様だけにしか決められん」
「神様なんて信じているんですか?」
「少なくとも、あのジジイが死ぬのは神様のおかげや」
「それを言うなら、神様のおかげじゃなくて癌細胞のおかげですよ」
 
 
 『癌』と口に出した瞬間、健一の鎖骨を弄る吾妻の指先が強張った。指先が小さく振動して、指紋が皮膚にざりと擦れる。それなのに、口元は相変わらず笑みを浮かべている。
 
 吾妻の父親は呆けているだけでなく死ぬのか、と健一は頭の中で独りごちた。そうして、いとも簡単に父親の死を口に出す男二人の姿にゾッとした。自分は家族の死を知った瞬間、気が狂いそうになったのに、今ですら考えるだけで苦しくなるのに、目の前の男たちにとって父親の死とはどうでも良いことなのだろうか。それとも、むしろ迎合することなのだろうか。
 
 
「いいや、神様のおかげや。あのジジイが酒の飲みすぎで肝臓癌になったのも、呆けたおかげで気付かずに癌が全身に転移して、もうどうやっても助からん状態になってくれたのも、後三ヶ月以内には確実に死んでくれるのも、どれもこれも神様のおかげや。あのジジイは死ぬべきやけん、神様が殺してくれるんや」
「そうでしょうか? 兄さんは無神論者だと思っていました」
「神様はおるで。今も俺らのことを見とる」
「それじゃあ、僕らは地獄逝きだ」
 
 
 吾妻が忍び笑う。顔を見合わせた真樹夫は曖昧に肩を竦めた。
 
 
「俺は地獄道。お前とお稚児ちゃんは修羅道ってところか」
「健一も地獄逝きですか?」
「可哀想やけど仕方ないやろ」
 
 
 真樹夫はテーブルの上を散らばった豆腐饅頭を一つ掴んで、お手玉のように掌の中で饅頭を転がした。
 
 
「一蓮托生。お前が何やろうが勝手やがな、お前の考えとる事には反吐が出そうや」
 
 
 不意に突き刺さるような言葉を吐き出して、真樹夫の狸の瞳がギラリと鈍く光った。吾妻は一度横に首を傾いで、それから消え入るような笑みを頬に浮かべた。無言で噛み締めて、飲み込むような表情だった。腹の中に閉じ込めて、聞かなかったフリをするような。
 
 
「真樹夫兄さん、僕と健一はこれで失礼します。長々とお邪魔しました」
「ええよー、またおいで。お稚児ちゃんも今度はちゃんと茶しようなー」
 
 
 吾妻が立ち上がって会釈をすれば、真樹夫は先ほどのギラついた眼差しなど無かったように、柔和な笑みを浮かべて見送りの言葉を言った。
 
 やっぱり狐と狸の化かし合いにしか見えない。こんなのは兄弟じゃない、と健一は思ったが口に出さなかった。だけど、思う。こんなのは兄弟じゃなくて詐欺師同士のじゃれ合いだ。
 
 吾妻が部屋入口まで足を進めるのを眺めながら、健一は鼻血を押さえるフリをして、そっと手を床へと伸ばした。シャツ袖の内側に銀色に光る金属――フォーク――を差し入れる。鼻血の止まった鼻先を緩く擦って立ち上がり、吾妻の方へと足を向ける。真樹夫が薄っすらと笑みを浮かべて、健一を見詰めていた。
 
 
「どうすんの?」
 
 
 小声で問い掛けられる言葉に、健一は眼差し一つくれて背を向けた。きっと、真樹夫に言う必要はない。理由もない。
 
 部屋から出て行く吾妻の後ろに続く。汚れた絨毯にもテーブルにも、独り座り込む真樹夫にも、もう視線はやらなかった。
 
 
 
 
 
 
「お前、家族に嫌われてんの?」
 
 
 部屋から出て、暫くしてから吾妻に問い掛けてみた。喋ると平手で張られた頬がじんと痺れた。冷湿布を貼られているのに、掌を当てるとまだ頬肉は熱を発している。
 
 
「そうかもしれない。わからない」
 
 
 暫くの沈黙の後、独り言のような吾妻の声が聞こえた。斜め前を歩く吾妻の横顔を見上げる。吾妻の顔は途方に暮れた子供のようにも見えた。微かな幼さが覗ける。
 
 
「分からないなら、馬鹿だな」
「馬鹿だと思う?」
「気付かないフリしてるなら」
「気付かないフリをする以外に、どう反応したらいいの?」
「そんなん知るか。自分で考えろよ馬鹿」
 
 
 投げ出すように呟いて、健一は吾妻から視線を逸らした。『どうしたらいいかわからない』と縋り付くようにも聞こえた吾妻の声を、視線と一緒に振り払う。
 
 吾妻に触れられた鎖骨を軽く引っ掻いて、その感触を消そうとする。だけど、消えない。皮膚を舐めるような指先の感触が消えない。だから、袖の内側に隠したフォークを硬く握り締める。頭の中で刺してやるという言葉を繰り返す。瞑想に近い呪いの言葉。
 
 だが、瞑想は大音響に引き裂かれて、健一は現実に引き戻された。硝子の割れる音に、障子が倒される音、女のヒステリックな金切り声。
 
「真昼」と呟く吾妻の声が聞こえた。
 
 

backtopnext

Published in catch1

Top