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10 清らか

 
 綺麗な上段蹴りだった。細い足がスカートの裾を翻しながら、茶髪男の首側面に食い込む。ギャンッと踏み潰された猫のような声を発して、男が倒された障子の上を転がった。
 
 仰向けに倒れた男の前には、チェックのミニスカートだけを身に付けた上半身裸の少女が仁王の如く立っている。金髪のショートカット、尖った鼻に薄い唇のキツメな顔立ち、奔放さを感じさせるしなやかな手足からは気位の高い猫のような印象を感じられた。大きめの胸を恥かしげもなく晒しながら、いきり立った少女は金切り声を上げた。
 
 
「巫山戯んじゃねぇよ、このフニャチン野郎が! 人の裸見ときながら、何が勃たねぇだよ! ヤクザの娘は抱けねぇって言うのか畜生!」
 
 
 愛らしい顔立ちからは想像も出来ない罵言が、少女の口から飛び出してくる。十数メートル離れた位置から、その光景を眺めて、健一はあんぐりと口を開いた。無意識に口が動いていた。
 
 
「あれ、何ていう怪獣?」
 
 
 檻の中の野獣のようにその場をぐるぐると回り、時折「畜生」と叫んで地団太を踏む少女の姿は怪獣そのものだった。床を転がる茶髪の男は、少女の姿を横目で見て、ガタガタと震えていた。獣に怯える目だ。
 
 目の前の惨状に似つかわしくない安穏とした声音で吾妻が「真昼だよ」と答える。
 
 
「まひる?」
「真昼」
「怪獣?」
「僕の妹。十七歳の高校三年生。普段は良い子なんだけど、今は怪獣とさして変らないね。ウルトラマンだって蹴り殺しそうだ」
 
 
 吾妻は咽喉を小さく鳴らすように笑った。そうして、ウルトラマンすら蹴り殺す少女へと視線を移せば、真昼は男の腹の上に馬乗りになっていた。男の胸倉を掴んで、前後にガクガクと揺らす。
 
 
「なぁ、あたしのこと好きって言ったよなぁ!? あたしとセックスしたいって言ったよなぁ!? 卒業したらあたしと結婚するって言ったよなぁ!? なァ!」
 
 
 真昼の小さな拳が、男の鼻目掛けて叩き付けられる。蝶のように舞い、蜂のように刺す。滑らかで澱みない暴力の軌跡。動きに合わせて真昼の剥き出しの胸が大きく揺れる。それすらも暴力の象徴に見えた。怒りだけを詰め込んだ真昼の殴打に、男はヒャアァと情けない悲鳴を上げて、両脚をバタつかせた。
 
 当然のように暴力が振るわれる光景に、健一の身体に悪寒が走る。殴る者と殴られる者、殴られるのは茶髪の男と自分だ。自分もあんな風に痛めつけられていたのかと思うと、身体が震えて来る。
 
 
「あれ、放っておいていいの?」
「真昼は怒りっぽいからね」
 
 
 的外れな答えが返ってくる。相変わらず笑いを零す吾妻に常識というものを問い掛けたくなる。目の前で暴力行為が行われていて止めないのが普通なのか。自分の妹が男を殴っているのを傍観するのが普通なのか。
 
 だが、よく考えれば、自分を攫って、こんな風に飼い殺している男に常識など問うても意味がないだろうと思った。吾妻自体が非常識の塊なのだから、その吾妻の家族に普通を求めるのはよそう。
 
 男の悲鳴が甲高く響き渡る。夏の快晴に似つかわしくない懇願の悲鳴に耳を塞ぎたくなる。
 
 真昼の指先が自身のスカートの内、右太腿付近に伸ばされたと思った瞬間、真昼の手には小型のフォールディングナイフが握り締められていた。切っ先が大きく振り上げられる。尖りが太陽光線にチカリと反射して、そうして振り下ろされる。男が聞いたこともないような悲痛な叫び声を上げた。やめてくれとも、助けてくれとも聞こえる悲鳴。
 
 しかし、結局ナイフは青年の身体に埋まらなかった。ナイフの先端は、男の耳の直ぐ横の床に突き刺さっている。真昼が床に唾を吐いた。
 
 
「腐れインポ野郎が。表に放り出しちまえ」
 
 
 真昼が吐き捨てれば、何処からかぞろぞろと屈強な黒服達が現れ、放心状態の男を引き摺って行く。真昼はもう男を見なかった。頑なに背を向けて、憤怒を押し殺すように下唇を噛んでいる。
 
 男を殴打していた拳が赤く腫れている。その拳を硬く握り締めて、真昼は真っ直ぐ前を見据えていた。
 
 
「真昼」
 
 
 と、吾妻が軽やかに声を掛ければ、真昼の視線が此方へと向けられた。白目部分が赤く充血した瞳には、獲物を逃した雌虎のような焦燥と飢餓が滲んでいる。
 
 
「真澄兄」
「怪獣ショーは終った?」
「怪獣ショーって何よ」
 
 
 言葉の意味不明さと、真澄の無神経な笑顔に苛立ったように真昼の鼻梁に皺が寄せられる。威嚇する猫のようだ。
 
 
「何でもないよ。それより、あの男、放っておいていいの? 恋人なんでしょう?」
 
 
 誤魔化すように軽く首を振り、吾妻は男が引き摺られていった方へと視線を投げ掛けた。もう男の姿は見えない。
 
 
「もう恋人じゃない。あの畜生、チクショウ、ヤクザの娘は抱けないって言ったんだ。もう抱けないって。あたしは何なんだ。ヤクザの娘ってだけでフラれたあたしは何なんだ。あれだけ好きだって言ったくせに、あの言葉は何だったんだ。あたしは何なんだよ、ちくしょう」
 
 
 真昼は傍らの柱を拳で殴り付けた。呪いの言葉を幾多吐き出しても飽き足らぬといった風采で、障子の破片を蹴り飛ばす。健一は床に突き刺さったままのナイフを眺めて、緩く問い掛けた。
 
 
「どうして刺さなかったんだ?」
 
 
 初めて健一の存在に気が付いたように真昼が視線を落とす。そうして、湿布と包帯でゴテゴテに飾り付けられた健一の顔、そして首についた真っ赤な首輪に気付けば、不思議なものでも見るように瞼を瞬かせた。
 
 
「何こいつ、犬?」
「怪獣の次は犬か。犬じゃなくて健一だよ」
 
 
 独りごちるような吾妻の言葉に「ふーん」と気のない相槌を返して、真昼は曖昧な嫌悪の表情を浮かべた。
 
 
「飼うの、コレ?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、飼うならもっと可愛い犬がいい。金髪碧眼の美少年とか。エキゾチックなアジア少年とか。こんな平凡なの飼っても面白くないじゃん」
「健一は可愛いよ」
「いっつも思うんだけどさぁ、真澄兄の目玉って腐ってんじゃない? 審美眼がないよ、審美眼」
 
 
 目玉と言いながらも真昼の指先は頭を指していた。頭可笑しいんじゃない、と言っているも同じだ。真昼の理解不能なものを見る怪訝な眼差しに、健一は首を縦に振って同意を示した。全くもってその通りだ。自分のような平凡な人間を捕まえるよりも、もっと美少年で可愛らしい人間を捕まえて飼えばいいんだ。
 
 
「別に飼ってもいいけどさぁ、トイレの始末だけはちゃんと躾てよ。前に真樹兄がマゾ女連れて来てさぁ、廊下でスカプレイやり始めた時は最低だった。一週間ぐらい臭い取れなかったんだからね。真澄兄は真樹兄に比べたら、まだ良識ある方だと思うけど、御願いだからアレだけは勘弁してよ」
「オレ、トイレぐらい一人で行ける」
 
 
 真昼のあんまりな言い草に思わず言い返せば、安っぽいチンピラのような仕草で真昼が「アァん?」と顔を寄せて来た。剥き出しの胸が近付いて、その乳首が桃色をしているのが見えた瞬間、健一は思わず紅潮した。よく考えれば、女性の裸を見たのは母親以外で始めてだ。
 
 
「何がトイレぐらい一人で行ける、だよ。これ見よがしに首輪なんか付けてさァ、真澄兄のペットだワンワンって主張してるくせに」
 
 
 容赦のない言葉にギュウと胸が締め付けられる。
 
 違う、と大声で叫びたい。今直ぐ首輪を引き千切って、自分は自由だと吼えたい。
 
 だけど、そうすれば健一の知らないところで親友の命が消える。それを思えば、健一の顔はしおしおと萎むように歪んだ。
 
 
「…ペットじゃない」
「じゃあ何よ。愛人?」
「オレ、泉健一だ。オレ、犬でも愛人でもない。オレ、男だ。人間だ。四番バッターで、ホームラン王で、関東大会優勝したんだ。犬じゃない。愛人じゃない。オレ、ちゃんとオレだ」
 
 
 自分自身に言い聞かせるように繰り返す。そうじゃないと、周囲の圧力に負けて、自分自身を吾妻の犬か愛人だと思い込んでしまう気がした。殴られても、蹴られても、犯されても、犬畜生のように扱われても、自分は人間で、自分は自分だと信じたかった。吾妻の所有物なんかにはなりたくなかった。言葉を言うだけなのに、口に出す度にその重さが骨身に沁みて、泣きそうになった。
 
 真昼が眉根を寄せて、それから不貞腐れたような表情のまま視線を逸らす。
 
 
「青臭い犬だね。見てて、居た堪れなくなるじゃんか」
「まだ子犬だからね。仕方ないよ。でも、青臭いところが一番可愛いんだよ」
「趣味悪い」
「趣味悪いね」
 
 
 吾妻と真昼との間で、漠然とした遣り取りが交わされる。吾妻はうっそりと微笑んで、真昼は不機嫌そうな眼差しを変えない。相変わらず乳を晒している真昼を見て、健一はぽつりと呟いた。
 
 
「…上着着た方がいいと思う」
「うっせー、マセ犬。女の乳見たぐらいで赤くなってんじゃねぇよ。発情期か手前」
 
 
 至極当然の事を言ったはずなのに、返ってきた言葉は辛辣極まりないもので、その理不尽さに思わず健一は涙ぐみそうになった。当の真昼は胸を隠すどころか、むしろ胸を張って見せ付けてくる。
 
 
「発情期じゃない。あんた女なら、胸とか男に見せたら駄目だろうが」
「何で駄目なのよ。あたしの乳じゃん。あたしの好きにしていいはずよ」
「駄目だ」
 
 
 健一はなおも食い下がった。真昼が拗ねたように唇を尖らせる。
 
 
「だから、何でよ」
「だって――」
「だってェ?」
「もったいない」
 
 
 自分でもよく解らない言葉が出てきた。健一に顔を近づけていた真昼がぱちぱちと不思議そうに瞬きした後、唇の端ににやりと笑みを浮かべた。
 
 
「何ソレ、いいじゃん」
 
 
 健一でも意味が解っていない言葉を、真昼は気に入ったらしい。真昼の小さな掌にぐりぐりと頭を撫で回される。その悪意も思惟もない掌に、健一は温もりを感じた。真昼がヘッヘッと顔に似合わないオッサン臭い笑い声を上げる。
 
 
「真澄兄、前言撤回。なかなか可愛いじゃん、この犬」
「現金だなあ」
「女心と秋の空って言うじゃん」
 
 
 そう言うと、真昼は床に突き刺さったナイフを抜き取った。軽く弄ぶようにナイフを上下に振ってから、少しだけ悩む表情を浮かべた後、小声で漏らした。
 
 
「女心ってほんと大変」
 
 
 健一には理解不能な言葉を呟いて、真昼はくるりと華麗にターンして、そのまま視界から消えていった。
 
 引き倒された障子と硝子の破片が目の前に汚く散らばっている。青年の鼻血らしき赤が床にこびり付きもしている。だが、それらの醜さとは違って、粗暴な少女の姿は何処か清らかに見えた。
 
 

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