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11 兄妹

 
「…真澄さん、その子だれですか?」
 
 
 突然背後から、二月の梅雨のようなじとじととして冷えた声が聞こえた。声が背筋を這い上がって、首筋にねっとりとまとわりつくような感覚。
 
 振り返れば、腰に届きそうな程のロングヘアの女が猫背気味に立っていた。真っ黒なノースリーブワンピースから覗く手足は病的なほどに白く、細長い。関節部分の骨格が不自然に浮き上がっていて、欠食気味な鶏のようにも見えた。
 
 前髪が簾がかった黒目は、真っ直ぐ健一へと向けられている。健一は咄嗟に貞子だ、と思った。貞子がTVから這い出てきたんだ。
 
 
「おかえり真夜、受験合宿はどうだった?」
 
 
 貞子こと真夜に対して、吾妻がにっこりと笑いかける。吾妻の笑顔を見詰めて、真夜は一瞬動きを止めた後、もじもじと如何にも恥かしそうに両膝をくねらせた。見せ付けるような乙女ちっくな仕草に、微かな気色悪さを覚える。
 
 
「寂しかった、です…」
 
 
 両掌を頬に当てて、真夜は甘えるような声で呟いた。ちらちらと吾妻の様子を窺う真夜の瞳を意に介していないように、吾妻は「あぁ」と気のない返事を返した。
 
 
「二週間も合宿に行ってたら、ホームシックにもなるだろうね。疲れたでしょう?」
 
 
 吾妻が真夜の頭を撫でれば、真夜の頬が梅色にぽっと染まるのが見えた。潤んだ黒目がとろりと溶けて吾妻を見詰めている。
 
 
「あぁ、真夜、紹介するよ。この子は健一、これから一緒に暮らすんだ」
 
 
 吾妻の腕が健一の肩を引き寄せた。肩関節を強く掴まれて、ぐいと引っ張られる。左頬がぴったりと吾妻の右胸に引っ付いて、心臓の音が規則的に聞こえた。
 
 真夜の顔色が変わる。淡く色付いていた頬は血の気を失くして白く褪め、溶けていた黒目が信じられないものを見るかのように吾妻と健一を交互に見詰めた。
 
 
「…いつまで居るんです?」
「この家には後三ヶ月ぐらいかな。父さんが死んだら、僕と健一は元のマンションに戻るよ。もうとっくに成人した人間がずっと実家に居るっていうのも変な話だろう?」
「…真澄さんは、ずっと、ここに居ればいいと思います。ここなら、たくさん部下もいるし、真澄さんも不自由しませんし…」
「そういう訳にもいかないよ」
 
 
 念仏のように呟かれる真夜の言葉に、吾妻が苦笑する。真夜は親指の爪を噛み始めていた。カリカリという神経質な音が聞こえて、思わず健一は眉を顰めた。真夜の視線はふらふらと挙動不審に辺りを彷徨っている。どうやって吾妻を引き止めようか、考えあぐねているようだ。
 
「あの…じゃあ、私、清音女学院に通おうって思ってるんです。…清音なら真澄さんのマンションとも近いし、あの、私、真澄さんと一緒に…」
「それじゃあ、真夜は一人暮らしになるんだね。早めに家事全般を習得しておいたら、きっと良い御嫁さんになれるよ」
 
 
 『確信犯だ』と健一は思った。真夜の言葉を笑顔で遮る吾妻からは、露骨に真夜との関わりを避ける雰囲気が感じられた。
 
 不自然なぐらいの満面の笑みを浮かべた吾妻は、更に健一を胸元へと引き寄せた。殆ど抱き締められているような格好だ。
 
 健一は首を捻って、肩越しに真夜へと視線を滑らせた。途端、真夜の眼球が健一を射抜く。じりじりと『とろ火』に炙られるような視線だった。爪を噛み過ぎて、とうとう真夜の歯が肉を噛み千切っていた。真夜の細い親指から血が出ているのが見えて、健一は思わず視線を逸らした。
 
 
「…その子、その子は連れて行くんですか…?」
「そうだね」
「その子、真澄さんの何々ですか…」
 
 
 ねめつけるような視線と共に投げ掛けられた真夜の詰問に、吾妻は緩く首を傾いだ後、一瞬はにかむような笑みを浮かべた。押し付けられた吾妻の胸から、とくん、と一瞬大きく心臓の音が聞こえた気がして、健一はうろたえた。
 
 
「大事な――」
 
 
 そこで吾妻は黙った。そうして、甘やかなはにかみを霧のように消し去って、型で嵌めた笑顔を真夜へと向けた。真夜の唇から「うぅ」とも「あぁ」とも付かない唸り声が漏れる。
 
 真夜の親指の先がささくれ立って、血が垂れているのが見えた。その光景から粘つくような嫉妬と執着心を感じて、健一はぞっとした。咄嗟に両手が吾妻のジャケットの裾を掴む。
 
 
「真澄さん、私…そんな何処の誰とも分からない子供を家に入れるの、認められません。信用できません」
「信用?」
「…そう、です。だって、他の組のスパイとか…」
「真夜、健一はまだ子供だよ」
「子供でも…っ!」
 
 
 真夜はきつく下唇を噛んでいた。リスのような歯が唇に食い込んでいる。
 
 
「どうして、そんなに駄々を捏ねるの」
 
 
 吾妻が分かりきったような口調で問い掛ける。見せ付けるように首を左右に振って、頑是のいかない子供を宥めるような表情を浮かべた。
 
 
「だって…!」
「だって、じゃないよ真夜」
「…いやなんです…いや…」
「真夜…」
「いやっ…!」
 
 
 歯から外れた真夜の指先は、今度は腕を引っ掻いていた。ガリガリ。一心不乱に掻き毟るその行為に、真夜の狂気が滲んでいた。白く細い腕に爪痕が浮かび上がり、皮膚がじんわりと赤く染まり、血が滲み出してくる。それでも真夜は掻くのを止めない。
 
 
「血が、出てる」
 
 
 ささくれた皮膚から滲み出てきた血を凝視して、殆ど無意識に健一は呟いた。傷口から目が逸らせない。真夜はまだ掻き続ける。まるで手が止まらなくなってしまったかのような、引き攣っているけれども規則的な動き。エナメルの爪が、皮膚を千切り、肉を磨り潰す。その光景に居た堪れなくなって、健一は思わず叫んだ。
 
 
「血が出てる!」
「五月蝿い、この豚!」
 
 
 発狂したかのような真夜の怒鳴り声に、身体が細波のように震えた。真夜が肩で息をしている。親指からも、下唇からも、腕からも血は垂れていた。憎悪を孕んだ眼差しは突き刺すように健一へと向けられている。だが、単なる憎悪の眼ではない。あくまでも、真夜の眼差しは女の眼だ。『女の性』というものをどろどろに煮詰めたような眼球。
 
 しかし、吾妻が大きく溜息を吐いた瞬間、ハッとしたように真夜は口を押さえた。
 
 
「酷いことを言うんだね」
 
 
 ぽつりと呟かれた吾妻の一言に、真夜は瞳を潤ませた。潤んだ瞳から今にも涙が零れ落ちそうにも見えた。
 
 吾妻はそれに背を向けた。真夜の存在など忘れてしまったかのように歩き出す。健一は一瞬躊躇った後、吾妻の後ろを着いていった。そうして、胸のうちに燻った言葉を小さく吐き出す。
 
 
「どっちが」
 
 
 どっちが酷いんだ。少なくとも無意識に健一を罵った真夜が酷いとは思わない。今日は猿と呼ばれたり、犬と呼ばれたり、仕舞いには豚とまで呼ばれる散々っぷりだが、それでも健一は真夜の言葉に然程傷付きはしなかった。だが、真夜は傷付いている。吾妻の一言一言に。
 
 どっちが、どっちが酷いのか。意識的に真夜を傷付けていたのは誰だ。
 
 背後を振り返れば、真夜が此方を睨み付けていた。涙はもう浮かんでいない。泥のような憎悪が一身に健一へと向けられていた。真夜はきっと吾妻のことが好きなんだろう。
 
 
 好き? でも、兄妹だ。兄妹愛、だろうか。でも、ただの兄妹にあそこまで執着するのだろうか。
 
 
 風が一陣吹いて、真夜の前髪がふわりと浮いた。驚いた。見えた顔は真昼だった。真夜と真昼の顔はそっくりだった。
 
 
「まひるだ」
「真夜だよ」
「違う。真昼と同じ顔だ」
「真夜は真昼の双子の妹なんだ」
 
 
 双子という言葉に違和感を覚える。それぐらい、真夜と真昼の性格は似ていなかった。
 
 だが、根本を辿れば、二人とも暴力に行き着くだろうと思った。本性は暴力だ。――いや、違う。根本を辿って暴力に行き着くのは真夜だけだ。真昼は、最後の最後にはきっと暴力なんて振るわないだろう。そんな予感がした。
 
 去り際の真昼のターンを思い出す。くるり、可憐に愛らしく、清らかな肩甲骨。暴力じゃない。
 
 だが、目の前の男は暴力そのものだ。柔らかな皮膚で覆っていても、その肉から立ち昇る暴力の臭気は隠せない。じわりと肉汁のように染み出し、炸裂する。
 
 しかし、吾妻が時折見せるあの泣き笑いを、健一は暴力とも偽善とも定義付けれないままでいる。だから、時折酷く戸惑う。
 
 
「似てないでしょう。真昼と真夜」
 
 
 不意に吾妻が言った。その言葉に「うん」と返事を返せば、続いて眼前の背中から独りごちるような声が聞こえた。
 
 
「僕と似てるんだ」
 
 
 だからか、と健一は思った。だから、酷いのか。
 
 悲しいな、と健一は少し思った。どうして悲しいのか、自分ではよく解らなかった。
 
 

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