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12 ますみ *R-15

 
 遅めの昼食は、焼き鯖と麦飯、赤出汁、茄子と胡瓜の漬物に肉じゃがだった。磨き上げられた机を間に挟んで、健一と吾妻は昼食を取っている。
 
 真夜と別れた後、吾妻は手首の腕時計に視線を滑らせて「もう二時だね」と呟いたかと思うと、フローリングの一室に健一を引っ張り込んだ。
 
 呼び出されたらしき板前が頭を下げて、「今の時期は鯖が美味いです」と言うのを健一は聞いた。その鯖は今健一の目の前で白い湯気を立てている。
 
 目の前に並んだ食事には食欲をそそられたが、一口口内に入れた瞬間に脳天まで突き上げるような痛みがビリッと腫れた頬から走った。思わず飯を口から吐き出しそうになるのを耐えて、小石でも飲み込むかのような気分で飯を嚥下する。口の中まで切れているから、赤出汁は飲めないし、漬物は塩が沁みて食えない。美味い飯を素直に美味いと思えないのはどうにも辛い事だ。
 
 箸を彷徨わせて、食っても痛くない物を吟味していれば、前方から無作法を嗜める声が聞こえた。
 
 
「健一、迷い箸は行儀悪いよ」
 
 
 視線を上げれば、諭すような穏やかな顔をして吾妻が此方を見詰めていた。その面を睨み付けて、健一は苛立ち紛れにぐさりと箸先で鯖を突き刺した。
 
 
「誰のせいだと思ってんだ」
 
 
 湿布が貼り付けられた頬をわざとらしく掌で撫ぜると、合点がいったように吾妻が「あぁ」と呟いた。
 
 
「痛い?」
「痛くなさそうに見えるか?」
「痛そうだ」
「なら聞くな馬鹿」
 
 
 つっけんどんに言い放って、吾妻から視線を逸らす。
 
 頬をなるべく動かさないように、一口一口をゆっくり噛み締めて飲み込む。幾ら慎重にやっても、傷付いた頬はじりじりと痺れるように疼く。
 
 断続的な痛みに思わず瞳を潤ませて鼻を啜れば、前方から潜めるような笑い声が聞こえた。吾妻が目を細めて笑っている。
 
 
「何が可笑しい」
「いや、キスしたいな、って思って」
 
 
 予期せぬ言葉に、身体が仰け反って、ガタンと椅子が音を鳴らした。手から離れた箸がころころと机の上を転がる。顔一杯に驚愕と拒絶を浮かべる健一を眺めて、吾妻は再び笑い声を零した。
 
 
「キスしていい?」
「嫌だ」
 
 
 甘えるような問い掛けを突っ撥ねれば、吾妻は肩を軽く竦めて言った。
 
 
「健一は嫌しか言わない」
 
 
 笑い声混じりの台詞に怒りが込み上げてくる。嫌しか言わないのは、嫌としか言えないからだ。何処のどいつが男にキスを強請られて、はいどうぞと差し出せるのだ。オレが嫌としか言えないのは、お前が嫌なことしかしないからじゃないか。腹の底で言葉を燻らせて、健一は奥歯を噛み締めた。
 
 
「オレは男だ」
「知ってるよ」
「なら、分かれよ。オレは男だから、男なんかとキスしたくない。オレ、お前とせっくすさせられるのも嫌だ。男だから嫌っていうのもあるけど、何よりもお前だから嫌だ。お前とだから嫌だ。絶対に嫌だ」
 
 
 完全に拒絶する。吾妻の全てを拒絶して、絶対に受け容れないと口にする。何があったって、吾妻とキスをするのも身体を犯されるのも、許容して堪るかと思った。家族を炭にして、自分の人生を滅茶苦茶にした吾妻を許してやらない。絶対に、死んでも、許してなどやるものか。
 
 憎悪を込めて睨み付けても、吾妻は独り言のように「健一がセックスっていうと、何だかやらしいな」と暢気に呟いただけで、さした反応は返して来ない。
 
 
「でも、僕は健一とキスしたい。セックスしたい」
 
 
 繰り返される卑猥な言葉と、吾妻の舐めるような視線に、産毛がざわりと逆立つ。吾妻の指先が顎先へと伸ばされるのを見て、健一は弾かれるように立ち上がっていた。後方に倒れた椅子がけたたましい音を響かせる。健一は立ち尽くしたまま、吾妻を凝視した。吾妻に対する嫌悪が足の爪先から這い上ってくる。
 
 空を切った指先を引き戻しながら、吾妻は皮肉気に唇を歪めた。
 
 
「健一が嫌がろうが舌を噛み切ろうが、僕はそれをする。キスもセックスも、どんな事でも」
「なんで…」
「愛してるからだよ」
「何でオレなんだよ!」
 
 
 破裂するように叫んだ言葉は悲鳴のようだった。どうして、こんなにも吾妻に想われなくちゃいけないのか理解出来ない。
 
 歪んだ愛情を押し付けられて、逃げ場を塞がれて、吾妻の腕の中にしか居場所をなくされる。どうして、自分が食い物にされなくてはならない。魂を引き裂かれて、人生を滅茶苦茶に踏み躙られなくてはならないんだ。
 
 此処に連れて来られた時と同じ疑問が再び胸中で渦巻く。何でオレなんだ!
 
 
「オレ、おれ、あんたと会ったこともないのに、何で、こんな、こんなの嫌だ。いやだ」
 
 
 感情が高まって、舌が上手く回らない。往生際が悪いと自分でも思う。いい加減腹を括ってしまえば良いのに。吾妻を殺すと決めた今でも、まだ恨みがましく思ってしまう。
 
 どうして、平和に生かしてくれなかったのか。家族と一緒に暮らして、伸樹と野球をし続けさせてくれなかったのか。オレを愛してるなら、どうして放っておいてくれなかったんだ。
 
 
「会った事はあるよ。健一が覚えてないだけで、会ったよ。喋りもした」
 
 
 空気のように囁かれる吾妻の言葉に、健一は思わず吾妻を見詰めた。吾妻の顔は落胆も憤怒も浮かべていなかった。淡々とした表情で言う。
 
 
「覚えてない」
「そう。でも、会ったのは事実だ」
「思い出せない」
「思い出さなくてもいいよ。ただ、僕は健一を好きになった。それだけのことだよ」
 
 
 最後は微かに自嘲的だった。吾妻は前髪を掻き上げて、それから立ち上がった。椅子の足がフローリングと擦れる音が響く。その音に健一は身を竦めた。吾妻がゆっくりと近付いてくる。その足が白い靴下を履いているのを見て、健一は目を見開いて後ずさった。無意識に身体がガチリと固まる。腹を蹴られた時も、吾妻は白い靴下を履いていた。いやだ、いや。
 
 
「け、蹴るのか?」
「どうだろう」
 
 
 返ってきた曖昧な答えに寒気が走る。ぎこちなく後ずさっていれば、背中がとんと壁にぶつかった。吾妻との距離がどんどん縮まって行く。
 
 
「蹴られるの、いっ、いや、いやだ」
「じゃあ、キスがいい?」
「いや、いや」
「嫌しか言わない」
 
 
 先ほどと同じ言葉を繰り返して、吾妻が苦笑する。吾妻の身体が触れ合いそうな程に近付く。吾妻の両手は、閉じ込めるように健一の顔の両脇壁にやんわりと押し付けられた。
 
 吾妻から視線を逸らして、健一は両腕で顔を覆って譫言のように「いやだ」と繰り返した。
 
 暴力を奮われるのも、性的な事をされるのも嫌で堪らない。痛い。気色悪い。怖い。自分が自分でなくなってしまうようでおぞましい。
 
 包帯越しの額に柔らかい感触が落ちる。吾妻が額に唇を押し付けたまま、「健一」と淡く呟く。生温く皮膚に沁み入る吾妻の呼吸を感じた瞬間、弾けるように右手が動いていた。
 
 不快感に突き動かされるように左手首の袖に押し込んでいたフォークを掴んで、吾妻の左腕を目指して突き上げる。しかし、フォークの先端は吾妻の肉に埋まることなく、瞬きをした次の瞬間には健一のフォークを握った手は吾妻の掌に掴まれていた。
 
 飛び出しそうに目を見開いて健一は吾妻を凝視する。吾妻は健一の手首をギリギリと縊るように掴んだまま、頬肉を弛緩させて笑った。
 
 
「健一、腕じゃ刺されても死ねない」
 
 
 出来の悪い生徒を嗜めるような優しい声音だった。フォークはいつの間にか吾妻の手に握られていて、先端は健一の右眼球に突き付けられていた。至近距離にある鋭い切っ先に、眩んだように瞬きを繰り返せば、睫毛がフォークの先端にぱしぱしと当たった。
 
 
「刺すなら目玉。でも、深く刺さなくちゃ死なない。大体このぐらいまで刺せばいいかな」
 
 
 フォークの柄の中腹ぐらいを指差しながら、吾妻は肩を揺らした。フォークの先端が眼前でゆらゆら動くのを、健一は無意識に目で追った。目が逸らせない。
 
 
「それか頚動脈を狙うと良い。頚動脈の位置分かる?」
 
 
 吾妻が子供のような仕草で首を傾げている。
 
 フォークの先端が眼球から逸れて、代りのように首側面、首輪の直ぐ上の皮にやわく触れた。皮膚の奥の血管を撫ぜるようにフォークの先端が当てられる。皮膚の上を冷たい金属が滑る感触に、全身が総毛立つ。金属の下で、戦慄くように頚動脈が脈打っていた。
 
 
「次はちゃんと此処を狙うんだよ?」
 
 
 言い聞かせる声と共にフォークが床へと放り投げられた。安っぽい玩具のようにカランカランと音を立てて、フォークが床を滑る。
その音を聞いた瞬間、糸が切れたように全身から力が抜けて、健一は床にへたり込んでいた。思い出したように震えがやってきて、全身がガクガクと震える。冷汗がじわじわと毛穴から滲み出ていた。恐怖に内臓が悴んで、指先一本動かせない。
 
 しゃがみ込んだ吾妻が健一の顔を覗き込む。
 
 
「健一は優しいね」
 
 
 皮肉のつもりか。だが、馬鹿にされるのも当然だ。
 
 吾妻を殺すと決意しておきながら、どうして自分は急所を狙わなかったんだろう。腕なんて死にそうにもない場所を、それもフォークなんて下らない物で狙って――滑稽で仕方ない。無様で堪らない。惨めで死んでしまいたい。結局自分は吾妻を殺す覚悟なんて出来ていないのだ。優しいんじゃない、臆病なだけだ。ただ粋がっているだけの臆病者。
 
 吾妻の指先が、足首から内太腿へと蛇のように這い上がってくる。皮膚を撫ぜられる感触に、膝がビクリと大きく跳ねた。驚愕の眼差しで吾妻を見遣れば、吾妻は目を細めて健一を見返した。その眼球の奥に欲情が滲んでいるのを見て、健一は咄嗟に皮膚を這う吾妻の腕を掴んでいた。掴んで、懇願するように掠れた声で呟いた。
 
 
「痛いの、やだ」
 
 
 殆ど泣き声に近かった。それぐらい見っとも無い声だった。片手は縋るように吾妻の腕を握り締めて、もう片方の手は下腹を押さえる。下腹を傷め付けられたくない。腹を蹴られるのも、腹に性器を突っ込まれるのも嫌だ。どちらも痛くて、屈辱的で、自分が人間じゃなくなった気がする。
 
 いやいや、するように首を左右に振る。くしゃくしゃに歪められた健一の顔を見て、吾妻が優しく微笑んだ。
 
 
「痛い事はしないよ」
「ほんとう?」
「本当だよ」
 
 
 安堵に力を抜く。抜いた瞬間、吾妻の掌がズボンの中に突っ込まれて、健一は悲鳴を上げた。
 
 
「痛いことしないって、言った!」
「痛い事はしないよ。気持ち良い事はしてあげる」
 
 
 屁理屈のような吾妻の言葉に、健一は泣き出しそうに顔を歪めた。
 
 吾妻の掌が萎えた健一の性器をやんわりと包んで、指先で擽る。ざわざわとくすぐられるような感触に健一は首を竦めて、ヒッと短い悲鳴を上げた。首筋にぷつぷつと鳥肌が浮かぶ。
 
 小さな性器が吾妻の掌にすっぽりと収められて、緩い刺激を与えられる。陰茎を掌で撫ぜられて、先端を指先で擽られると、快感よりも悪寒の方を強く感じた。
 
 
「こんなん、気持ちよくなんかなんない…」
 
 
 涙声で呟けば、吾妻が鼻先同士を擦り合わせるようにして健一を見詰めた。
 
 
「健一はまだ気持ち良いことが判ってないからだよ。でも、大丈夫。全部教えてあげる。苦痛も快楽も全部。全部僕の手で変えてあげる」
「おれ、何にも知りたくない。変りたくなんてない」
「健一を変えるのは僕のエゴだよ」
 
 
 吾妻が全て自分のエゴだと解っている事に驚く。見開いた目を吾妻へと向ければ、吾妻は泣き笑うように頬を歪めていた。その顔を隠すように、健一の肩に緩く額を押し付ける仕草は、まるで愚図る子供のようだ。
 
 
「そこまでわかってて、なんでだよ…なんで」
「解ってるけど、止められない事だってあるんだよ。そういうものじゃないかな?」
「お前が?」
「僕だけじゃなくて、みんなが」
 
 
 鳥肌を立てた首筋を吾妻の唇が滑って、頚動脈を甘く食む。指先が陰茎を絞るように擦る。皮が摩れる感触に小さな痛みを感じて、健一は眉根を寄せた。噛み締めた唇の間から呻き声が零れる。
 
 それなのに、下半身がじりと熱く痺れはじめる感覚に、健一は目を見開いた。
 
 痛みが次第に麻痺して、熱が芯を持って生まれてくる。息が上手く出来なくなってきて、ひはひはと呼吸が空回りする。両手が哀願するように吾妻の両腕を掴んで震えた。吾妻は目を細めて、口角を吊り上げた。
 
 
「濡れてきた」
 
 
 耳朶を擽るように漏らされた言葉に、健一は身体を仰け反らして下半身を見下ろした。ズボンを突っ込まれた吾妻の掌が隠微に蠢いている。その掌はしっとりと湿って、性器に絡み付いている。掌が濡れているのは、吾妻の汗のせいか、それとも。
 
 
「やめて!」
 
 
 空気を引き裂くようにして叫んだ声は、少女の悲鳴のようだった。自分の身体が自分のものじゃなくなる。自分の身体が自分を裏切る。怖い。怖い。やめて。もうやめてくれ。
 
 叫んだ瞬間、先端に爪を突き立てられて、掠れた悲鳴が零れた。靴下を履いた両脚が藻掻いて、フローリングの床を滑る。
 
 
「止めてあげない」
 
 
 背中を壁に押し付けられたまま、背筋が恐怖に波打つ。間近に迫った吾妻の眼球に含まれている雄の気配に、圧迫されるように下腹が痛んだ。吾妻の吐息が耳元を擽って、耳の穴にやんわりと舌を挿し込まれる。ねっとりと舌腹で嬲られて、連動するように性器がビクビクと震える。性器が硬く尖って、股間から痺れるような悦楽が流れ出してくる。
 
 
「こわい、こわいぃ」
 
 
 哀れな子供のように、しゃくり上げる。宥めるような額へのキスが気色悪いのに、その温かさに微かに安堵する自分がいる。それが嫌だ。全部全部嫌だ。自分を貶める吾妻も、自分を裏切る身体も、勃ち上がった性器も、臆病者な自分も全部全部嫌だ。
 
 思った瞬間、眼球からぼろぼろと涙が零れて止まらなくなった。こんな世界は大嫌いだ。
 
 性器を擦る吾妻の手はくちゃくちゃと濡れた水音を発している。その爪が時折揶揄するように先端をカリカリと引っ掻いて、刺激に身体が反り返る。内太腿が小さく痙攣して、咽喉から嬌声とも泣声とも付かない悲鳴が溢れた。
 
 
「やっ、や、やぁ、ぅ」
 
 
 吾妻の両腕を掴んだまま、顔を広い胸に押し付ける。下半身が炎に焼かれたように熱い。脳味噌の芯がくらくらして、頭がぼやけてくる。眼球の裏側で極彩色のネオンがチカチカと瞬いている。
 
 
「また、おなかっ、おなかが、いや、だっ。や、だぁ!」
 
 
 腹の底から快楽が込み上げてくる感覚。犬みたいに息が荒げて、足先から頭まで震えていない場所なんか一つもなかった。睾丸を濡れた掌で嬲るように揉まれると、もう何が何だか分からなくて、無我夢中で吾妻にしがみ付いて嬌声を上げていた。朦朧とした頭の端っこに吾妻の声が響く。
 
 
「名前、呼んで」
 
 
 初めはその言葉の意味が分らなかった。ぐちゃぐちゃになった健一の脳味噌に、何度も吾妻が語り掛ける。
 
 名前、名前、一体誰の名前だ。涙でぼやけた視界に、迷子みたいに顔を歪めた吾妻が映る。泣き出しそうな、縋り付くみたいな、吾妻の顔。見た瞬間、唇がわけもわからず戦慄き、囁いていた。
 
 
「ますみ」
 
 
 口に出した瞬間、噛み付くように吾妻の唇が重なった。骨が軋むほど強く抱き締められる。口腔の粘膜をざらつく舌で舐められて、固まった舌を絡め取って吸い上げられる。キスは滑らかなのに、健一をきつく抱き締める腕は何処かぎこちなくて、切実で、何だか堪らなく悲しい。まるで、ぐらぐらと揺らめく不器用な魂に抱き締められているようだ。
 
 口内を嬲られたまま、吾妻の爪がギリと性器の先端に食い込む。その瞬間、健一は自分の股間が破裂したように感じた。目の前が真っ白になる。くぐもった悲鳴が咽喉から零れて、性器から何かが弾け出る感覚に全身がガクガクと跳ねた。
 
 
「ぐ、ヴぅ、んヴッ!」
 
 
 断続的な痙攣を繰り返して、下半身を大きく跳ねさせる。震えが小刻みになった頃、ようやく吾妻の舌が口内から引き抜かれた。唾液で濡れそぼった吾妻の舌先から、糸のような唾液が健一と繋がっている。口の周りを唾液でぐちゃぐちゃにしたまま、健一は惚けたように吾妻を見詰めた。
 
 そうして、蕾が花開くように、吾妻は笑った。柔らかく綻ぶような微笑みだった。
 
 
「健一」
 
 
 名前を呼ばれる。ぎこちなく、しかし、はっきりと確かに、存在を確認するように、名前を呼ばれる。
 
 
「健一、愛してるよ。本当に、本当に健一を愛してるんだ」
 
 
 切実で歪んだ愛の告白。ズボンから引き抜かれた吾妻の掌には、粘着く白い液体がこびり付いていた。生臭い臭いがむっと鼻先を漂う。
 
 それを感じた瞬間、自分でも驚くほどに醒めた。身体から体温が抜けて、じわりと殺意が込み上げてくる。
 
 これが愛の結果なのか。こんな汚らしい白い液体が、愛の生み出すものなのか。どうして、こんなにも醜悪なんだ。
 
 唾液まみれな口を粗雑に服の袖で拭って、健一は吾妻を睨み付けた。そうして、吐き捨てる。
 
 
「お前を愛するぐらいなら死んだ方がマシだ」
 
 
 憎悪を込めて唾棄する。途端、吾妻の顔からすっと色が抜けて、頬が神経質に引き攣った。嗤おうとしたのかもしれない。だが、結局嗤いは浮かばず、真っ白な能面だけが顔面に貼り付いていた。絶望というよりも虚無的な面だ。
 
 
「じゃあ、死なせてやろうか」
 
 
 吾妻の声が罅割れる。殺意を噛み締めるような低い声音に、純然たる恐怖を感じて、皮膚がざわめいた。背中を壁に押し付けて、それでもなお虚勢を張って睨み付ける。砕きそうなほど奥歯を噛み締めていないと、歯の根がカチカチと音を立ててしまいそうだった。
 
 
「いっそ殺してやりてぇよ。健一を殺して、僕も死んでしまいたい」
 
 
 眼鏡越しに吾妻の眼球が、仄暗い光を宿して輝く。吐き出される粗雑な口調が吾妻の本性なのかと思うと、内臓が凍えた。穏やかな面で隠していても、矢張りこいつの本性は暴力だ。
 
 狼狽に咽喉を引き攣らせながら、健一は言葉を紡いだ。
 
 
「殺せば、いいじゃないか。あの時、殺せばよかったじゃないか。もう、うんざりだ。こんなのうんざりだ。オレだけじゃなくて、お前だって、もう全部うんざりなくせに」
 
 
 途切れ途切れに言い放てば、吾妻は口角を吊り上げて、皮肉とも諦念ともつかない苦笑を滲ませた。その笑みには、健一を殺したくて殺せない悔恨や悲哀が泥のようにこびり付いていた。
 
 
「でも、殺さない」
「なん、で」
「自分で考えなよ馬鹿」
 
 
 素っ気なく放り出されて、しかも吾妻らしくない子供っぽい暴言を聞いて、健一は思わずぽかんと吾妻を見詰めた。吾妻は一度嘲りを口元に浮かべて、それからいつも通りの和やかな表情を浮かべて言った。
 
「さぁ、冷めちゃったけど、御飯を食べようか。今日から、この家の大抵の場所なら好きに行って良いよ。部屋に閉じ篭ってばかりじゃ、つまらないだろう?」
「大抵の場所?」
「将真兄さんの部屋なんかに入ったら、縊り殺されちゃうかもね」
 
 
 将真の顔を思い出す。愚直なまでに真っ直ぐ健一を睨み付けてきた、あのギラつく三白眼。思い出せば、顎が勝手に頷いていた。つまり、『大抵の場所』じゃない所に入った場合、命の保障は出来ないってことだ。
 
 
「挨拶は、もうしなくていいか?」
「挨拶はもう終り」
 
 
 洗面台で精液に塗れた手を洗いながら紡がれる吾妻の言葉は、何処か投げ遣りだった。平静なふりをしていても、実際は健一に対する怒りで腸が煮え繰り返っているのかもしれない。
 
 今日挨拶した人間の顔を思い出す。呆けの真之介、狸の真樹夫、ブルドーザーの将真、猫の真昼、貞子の真夜、何か欠けている。
 
 
「あんたのお母さんは」
 
 
 タオルで掌を拭っていた吾妻の動きが止まった。害虫の名前でも聞いたかのように、顔面が不快気に歪む。そうして、唇だけが曖昧に動いた。「いないも同然」と聞こえた。いないのではなく、いないも同然というのはどういう意味だろうか。
思い悩むように眉根を寄せて、そして、三秒も立たぬうちに健一は考える事を放棄した。考えても仕方ないという思いと、吾妻の事で悩むのは面倒だという気持ちがあった。
 
 その後は殆ど無言で昼食を取った。下半身が微かに湿っているのが気色悪かったけれども、冷めた焼き鯖はそれでも美味しかった。
 食事が終る間、吾妻は健一を一度も見なかった。
 
 

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