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13 弥生

 
 朝は吐き気と眩暈から始まる。
 
 朝日が瞼を通して眼球を鋭く刺して、キリキリと眼球の奥を刺激される。夏の熱気に肌をじりじりと焦がされて、その熱さに煩わしさを覚えるよりも先に悪寒を覚える。
 
 
『あつい、あづいぃ、皮膚が溶けるうぅ』
 
 
 そんな叫び声が頭の中で巡る。叫び声は父親であったり母親であったり、時折姉であったりもする。キリキリと痛む眼球の裏に映像が映る時もある。業火の中をのた打ち回る人型の炭の映像だ。髪も頭も目も溶けて、これが人間なのかという姿だった。それは純然たる悪夢だった。
 
 そうして、布団を跳ね上げるようにして起きた後も悪夢は続く。
 
 
 夏だというのに、全身は冷汗でびっしょりと濡れそぼっている。首には重苦しく毒々しい赤色が嵌められている。それに気付いた瞬間、猛烈な勢いで胃の中身が逆流してくる。胃袋から食道へ、食道から咽喉へ、ウォータースライダーのように。
 
 便所に駆け込んで、便器に縋り付く様にして内応物を吐き散かす。胃液すら吐き尽くして、涙と涎だけが惰性のようにだらだらと出るようになった頃、健一はようやく悪夢が現実だと気付く。気付いて、便所の隅で数分の間、呆然とする。
 
 既に、吾妻の家族に挨拶をしてから三日経っていた。吾妻に張られた頬は腫れも引き、額の傷も絆創膏程度で大丈夫になっていた。だが、健一はあれから部屋の外に出ていない。吾妻にこの家の中なら何処でも行っても良いとは言われたが、行く場所が思いつかなかった。
 
 それに、部屋の外に出れば、あの将真に会うかもしれない。将真のあの憎しみの眼差しを思い出すと、次に会った時には有無を言わさず縊り殺されるんじゃないかという恐れがあった。
 
 部屋の中に居ても仕方ないという思いはあったが、それでも外に出ようと思う度に怖気が邪魔した。部屋から外への、たった一歩が踏み出せない。部屋の中で一日中、眠り続けている人生に何の意味があるんだろうと思って、積もり積もっていく虚しさにそろそろ胸が張り裂けそうだった。
 
 着替えを済ませて洗面所から出ると、弥生が朝食の用意を済ませていた。朝食はいつも重湯に近い御粥だ。おそらく嘔吐したばかりで弱った健一の胃を気遣っての朝食だろうが、毎朝これでは食べる楽しみというものを忘れてしまいそうだ。
 
 だが、今日は違う。湯気を立てる御粥の横に、いかにも甘ったるそうなファンダンショコラが鎮座していた。眉を顰めて、茶色い塊を眺める。何のつもりだ、という思いを込めて、弥生を見れば、弥生は少し戸惑うように口を開いた。
 
 
「真澄様が健一様に、と」
 
 
 説明不足ながらも意味は理解出来た。あれだけ要らないと言ったのに、吾妻は甲斐甲斐しくケーキを買ってきたのだ。『健一のため』という押し付けがましい大義名分で。指先に力が篭って、怒りが込み上げてくる。
 
 
「そんなもん、捨てちまえ」
 
 
 苛立ちと共に吐き捨てる。余りの胸糞悪さに胸焼けがしそうだった。愛してるといいながら暴力を奮い、暴力を奮いながらケーキを買い与える吾妻の矛盾が不愉快で堪らない。殴るなら殴るだけにすれば良いのに、そうすれば、健一はもっと純粋な気持ちで吾妻を憎むことが出来る。
 
 それなのに、時折許しを請うみたいに、こんな甘い物を与えるから、健一は吾妻への憎悪が揺らいで、その揺らぎが吾妻への嫌悪に変わってしまう。口内で小さく「馬鹿野郎」と呟いた。
 
 戸惑いを深くした弥生が、悲しいものを見るような眼差しでフォンダンショコラと健一を交互に見詰めた。僅かに肩を落として、淡く溜息を付く。
 
 
「そう、おっしゃらないで下さい。真澄様は…寂しい方なんです」
 
 
 弥生の言葉を、健一は鼻白む思いで聞いた。寂しいのが、何だって言うんだ。噛み付くような勢いで口を開く。
 
 
「寂しい人間なら何でもして良いのか。寂しい人間なら、周りの人間は文句も言わず優しく受け容れてやんなきゃなんないのか。寂しいだなんて、そんなの言い訳だ」
 
 
 矢継ぎ早に言い捨てて、訴えかけるように健一を見詰める弥生から視線を逸らす。
 
 寂しい人間というのが『免罪符』になるものか。寂しい人間なら、他人を誘拐しても良いのか。他人の家族を焼き殺しても良いのか。人生を滅茶苦茶にしても許されるのか。そんな訳がないだろうが!
 
 弥生の長い睫毛が小さく戦慄いていた。肉の削げた両腕が着物の袖から見える。それを見た瞬間、健一は自分の未来の姿を垣間見た気がした。ぞっとする。正気の沙汰じゃない。男の愛人になって、十年間も人生を食い潰されるだなんて。弥生は耐えられたかもしれないが、健一には耐え切れない。舌を噛み切って死んだ方がマシだ。
 
 
「何で、愛人なんかになったの」
 
 
 思わず零れた質問に、弥生の細い肩が小鳥のように震えた。恐ろしいものでも見るような眼差しを健一へと向ける。その表情に、健一は微かな罪悪感と優越感を覚えた。
 
 もしかしたら、自分は弥生でストレス発散しているのかもしれないと思う。弥生が自分に逆らえないのを健一は理解しかけていた。罵られようが、殴られようが、弥生は健一に歯向かうことは出来ない。だから、健一は弥生に対して段々と横暴になっていく。
 
 しかし、横暴になると同時に、弥生に対する苛立ちも募った。どうせなら叱ってくれれば良いのに、間違ったことをすれば叩いてくれれば良いのに、それなのに、弥生はただ物悲しそうに健一を見詰めているだけなのだ。
 
 底無しの穴のように、ただ怒りも悲しみも飲み込むだけで反応を返してこない。そんなのは、サンドバッグと同じだ、と健一は思った。舌打ちが零れる。
 
 
「何であのじいちゃんの愛人になったのかって聞いてる」
 
 
 苛立ちに突き動かされるように、弥生を問い詰める声音がきつくなる。弥生の肩は目に見えて震えていた。唇が二三度怖れるように開閉して、弱弱しい声が零れる。
 
 
「私は、十年前、十七の時に真之介様の愛人にならせて頂きました」
 
 
 言葉が途切れる。俯いた弥生の指先は、耐え忍ぶように着物の膝頭を硬く握り締めている。促すように「それで」と横柄な声を掛ければ、もう勘弁して下さいと言いたげな弥生の瞳が向けられた。小動物が助けを求めるような瞳を見て、咄嗟に苛立ちが爆発した。
 
 
「お前がっ、お前がオレを此処に連れて来たんだろうがッ! お前があいつと一緒になってオレの人生滅茶苦茶にしたんじゃねぇか! お前にも責任があるんだから、全部喋れよ! 全部全部喋れ!」
 
 
 衝動の任せるままに喚き散らして、鷲掴んだスプーンを投げ付ける。陶器のスプーンは、弥生の膝頭近くの畳の上に落ちて、パリッと細かな音を響かせた。小さく皹が入っている。
 
 健一の狂乱ぶりを眺めて、弥生が今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。その面を憎悪を込めて睨み付ける。
 
 加害者のくせに、時折こんな風に被害者面をする弥生が憎らしい。加害者が被害者面するのは吐き気がするほど腹立たしいことだ。
 
 
「喋らないのか? オレの人生、こんな風にしといて、自分は何にも喋りたくないってか? そんな都合の良いこと許されるとでも思ってんのか?」
「健一様、わたしは…」
「その顔やめろ」
「その、顔?」
「被害者面」
 
 
 はっとした顔だった。驚愕と悲哀がごちゃまぜになった顔。弥生は一度唇を噛み締めて、掌を心臓の上に置いた。置いて、握り締める。心臓を引き絞るように。
 
 それからぽつぽつと言葉を押し出し始めた。咽喉から毒を吐くような喋り方だった。
 
 
「私の家は、早くに母が亡くなりました。それからは、ずっと父親と二人で生活して来たんです。父親はアルコール中毒で、うちには金が一銭もないのに、毎日のように何処からか酒を探して飲んでいました。私は、毎日空腹でした」
 
 
 一度喋りだしたら、弥生の口は驚くほど饒舌になった。それは、いっそ開き直って、腹のうちにある燻りを全部吐き出そうとしているようにも聞こえた。出来うるだけ感情を消すように、弥生は平坦な声で喋り続ける。
 
 
「私は十五の時、身体を売って金を稼げることを知りました。その頃には既に、私は自分がゲイ、つまり男性を愛する人間だと気付いていましたから、然程抵抗はありませんでした。それを始めると、金が可笑しいぐらい手に入るようになりました。本当に、可笑しかったんです。明日食べるものも困るぐらいだったのに、私が望めば知らない男と極上のスイートルームにだって泊まれる。私は、人生とはこんなにも容易いものなのかと思いました。人生は容易いと」
 
 
 平静を装いながらも、弥生の口は弾みがついたように次々と自伝を紡いでいく。微かに口調が荒くなったのは、弥生が高揚し始めている証拠だろうか。
 
 弥生の瞳は健一を見ていなかった。何もない空間へと据えられた弥生の瞳は、自身の内側へと向かっているようにも見えた。自分自身へと語り掛けるように言葉が連なっていく。
 
 
「二年後ぐらいでしょうか、真之介様にお会いしました。真之介様は私の顔には清潔感があると言いました。私の顔はとても清潔だと…。専属の愛人にならないかと持ち掛けられた時、多少は悩みました。一生楽出来るかもしれないという誘惑と、目の前に積まれた札束、それに複数の男と関係を持つのが煩わしくなっていた時でしたので、私はその話を受けました。しかし、父はやめろと言いました。ろくな人生にならないと。最期は犬みたいに野垂れ死ぬだけだと。初めて父に殴られました。どうしようもないアル中だったのに、父は私を一度も殴ったことはなかったんです。その父に殴られて、ヤクザの愛人になるならお前とは縁を切ると言われました。でも、私は意志を変えなかったんです。腹を空かせて道端をうろつくような、あんな惨めな生活をするぐらいなら、運の続く限り遊び遊ばれて野垂れ死んだ方がマシだと思いました。…家を去る時、父親が泣いて追い駆けてきました。黒いリムジンの後ろを裸足でぺたぺたと。最後は転んで、地べたを這いずって…ほんと、見っとも無くて仕方ない…」
 
 
 不意に、嘲りとも愛しさともつかない微笑みが弥生の顔に影のように浮かんだ。見っとも無いと馬鹿にしながらも、弥生は父親を愛しているんだろうと健一は思った。アル中のろくでなしでも、裸足で必死に自分を追い掛けて来た父親を、弥生は紛れもなく愛していた。
 
 
「転んだまま、行くなと叫んでいました。ろくな人生にならないと。野垂れ死ぬだけだと。…私は今此処に居ます。自分の意思で此処に居るんです。しかし、今でも夢に出ます。裸足の父が、ろくな人生にならないと叫んでいる姿が」
 
 
 最後は殆ど独白だった。一人の男の自叙伝を語り終わった弥生は、魂ごと吐き出すような大きな吐息をついた。肺の空気全てを吐き出して、最後に小さく嗤った。自分の人生を小馬鹿にするような嗤いだった。
 
 弥生の双眸は虚ろに宙を彷徨った後、健一へと据えられた。健一は緩く唾液を飲んで、唇を開いた。
 
 
「後悔してんの?」
「そうかもしれません。少なくとも、転んだ父を助け起せば良かったと」
 
 
 過去の話だった。弥生の口調も、昔の思い出を語るような淡々とした響きに戻っている。それから、唐突に自嘲的になった。清潔さを思わせる美貌が歪んで、唇の端が醜く歪む。
 
 
「父の言う通り、私はいつか野垂れ死にます。罰です。父を見捨てた罰です。私は野垂れ死にます」
 
 
 決まりきった事実のように言い切って、弥生は姿勢を正した。床に指先をついて、健一へと向かって慇懃に頭を下げる。
 
 
「どうか捨てろだなんておっしゃらないで下さい。真澄様は真澄様なりに健一様を大事に思っていらっしゃいます。その気持ちまで捨ててしまわないで下さい」
 
 
 そのまま弥生は頭を上げようとはしなかった。自分よりも小さな子に平伏したまま、弥生は「どうか、どうか」と同じ言葉を繰り返した。
 
 どうして、こんなケーキ如きで頭を下げるのか理解出来ない。吾妻を庇う理由も解らない。その不快感に、健一は眉をハの字にへし曲げた。だが、懇親の願いを跳ね除ける程、健一は冷血にも無感情にもなれなかった。
 
 だから、フォンダンショコラを片手に鷲掴んで、そのまま荒い足取りで部屋の出入口へと向かう。しかし、もう一歩で部屋から出るというところで足が止まった。怖気が全身を支配して、動けなくさせる。
 
 息を呑んで、弥生の細い腕を思い出す。痩せ細った身体、いつか自分もああなる。今動かず、この部屋で腐っていれば、自分は弥生と同じ人生を歩むことになる。
 
 
『私は野垂れ死にます』、弥生の声が頭の中でループする。健一は振り返らないままに問い掛けた。
「今でも人生は容易いと思う?」
「…人生は、ろくでもないです」
 
 
 悲しげな弥生の声が背後から忍び寄る。その声を振り払うように、健一は足を踏み出した。
 
 室外に出た途端、生命力に溢れた夏の日差しが肌を刺した。背後から「ろくでもない…」と繰言のように呟く弥生の声が聞こえる。それでも、お前が選択した人生なんだろうと健一は腹の内で吐き捨てて、歩き出した。
 
 

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