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14 チョコレート

 
 フォンダンショコラが日差しと掌の体温で溶けてきた。掌にチョコレートがベタベタとこびり付いて気色悪い。
 
 当て所もなく歩いていると、改めてこの家には自分の居場所がないことに気付く。長い廊下をぶらぶらと歩きながら、健一は締め付けられるような心細さを感じた。左右を見渡せば幾人かの厳つい顔をした男達が居たが、健一の姿を見ると、慌てたように視線を逸らしてしまう。
 
 そうして、自分がこの家で唯一帰れる場所が吾妻の用意したあの離れだと気付けば、健一はいっそ笑い出したい気分になった。なんて皮肉だ。
 
 だからといって、今更弥生が待つ部屋に大人しく戻る気にはなれなかった。行く先も帰る先もない自分は、一体何処へ行き着くんだろうか。不安が胸を押し潰して、眩暈を起こしそうだった。
 
 暫くすると、重厚な扉が視界に映った。車二台同時に通れそうな程の大きな玄関口。その玄関口の両脇には、厳つい面をした〝いかにも〟な男達が、門番の如く立っている。いや、実際門番なのだろう。玄関付近を通る人間に、威圧するような鋭い眼光を向けている。
 
 そのまま十メートル程度離れた位置から、ぼんやりと眺めていると、健一に気付いた門番達がハッとした顔で御辞儀をしてきた。腰を九十度に曲げた最敬礼。それを最後まで見ず、健一は踵を返した。門番にまで顔を知られている。今更逃げる気もないが、改めてこの家から出られないことを健一は実感した。
 
 そうして、敬礼されるのは健一が吾妻の愛人だからなんだろうとも思った。そうでなければ、健一みたいな子供、この家では何の価値もない。『価値』という言葉を、頭の中で繰り返す。『価値=愛人』という文字が脳裏を過ぎって、眼球の奥が一瞬チカッと弾けるように赤くなった。一瞬、門番に掌のケーキを投げ付けてやろうかと思ったけど、結局止めた。八つ当たりしても、虚しくなるのは自分だということが解っていた。
 
 
 玄関付近から離れて、再び徘徊する。
 
 そうして、最終的に辿り着いたのは、以前頭を沈められた池の前だった。
 
 靴下のまま庭に降りることに躊躇はなかった。池の前にしゃがみ込んで、水中を優雅に泳ぎ回る鯉をぼんやりと眺める。しなやかにくねる紅白の鱗を見詰めて、頬に触れた鰭を思い出す。頭の周りを優雅に泳ぎ回っていた鯉の滑らかな肢体。
 
 
「お前ら、あの時、何考えてた」
 
 
 唇が勝手に動いていた。意識せず零れた独り言に、言った健一の方が吃驚して目を剥いた。鯉に話しかけるなんて馬鹿げている。だが、今の自分にはまともに話をする相手すらいない事を思い出せば、鯉に話しかけようが仲良くしようが、どうでも良くなった。
 
 フォンダンショコラを細かく砕いて、水面へとパラパラといい加減に撒く。口をぱくぱくと開閉させて鯉達がケーキの欠片に食い付いて来るのを眺めながら、健一は自分が言った言葉の意味を考えた。
 
 あの時というのは、きっと自分が頭を沈められた時のことだろう。水中に突っ込まれた子供の逆さまの頭を見て、鯉達は一体何を考えていたか。
 
 改めて言葉の意味を考えて、下らない事を尋ねたもんだと自分でも赤面しそうになった。
 
 
「次に生まれるなら鯉がいいな。そうすりゃ頭沈められても、もう苦しくないだろう?」
 
 
 下らないと解っていながらも、独り言を零す。絶えず喋っていないと、孤独に胸が張り裂けてしまう気がした。学校や家にいた時には、家族や友達が数分とおかず喋りかけて来て煩わしいぐらいだったのに、今は鯉しか話し相手がいないなんて御笑い種だ。可笑し過ぎて、笑いと一緒に涙が出てきそうなぐらいだ。
 
 小さく肩を揺らして自嘲を漏らしたところで、不意に背後から声が聞こえた。
 
 
「何しとんの、お稚児ちゃん」
 
 
 柔らかなイントネーションの関西弁がうなじを擽る。肩越しに視線を向ければ、軽く腰を屈めた真樹夫が健一を見詰めていた。
 
 髪の毛は相変わらず毛先が縦横無尽に跳ねているし、眦は眠たそうに垂れていて、寝起きのように見える。真樹夫は、白い長袖シャツにダメージ加工のジーンズを履いたラフな格好をしていた。
 
 掌のフォンダンショコラを真樹夫へと見せて、健一は「餌やり」と投げ遣りに言った。
 
 
「魚ってチョコ食べれるん?」
「知らない」
 
 
 返した言葉も投げ遣りだった。真樹夫は忍び笑いながら、健一の横にしゃがみ込んだ。
 
 
「変なもん食わせて怒られても知らんで。一応こいつら一匹一千万は下らんのやけぇな」
「…それって、カップラーメン何個分?」
 
 
 一千万という金額に現実味を見出せずに、健一は問い返した。途端、真樹夫が腹を抱えて、笑い声を張り上げた。ヒャッヒャッヒャッ、と引き攣ったような笑い声が響き渡る。
 
 目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭いながら、笑いも覚めやらぬ真樹夫が「ほんまに」と呟いた。
 
 
「ほんまにお稚児ちゃん、庶民なんやなぁ」
 
 
 しみじみした言い方が勘に障って、健一は眉を顰めた。
 
 
「庶民が珍しいなら外出て散歩でもしてこいよ。その辺にゴロゴロ転がってる」
「口が減らんなぁ。可愛げないのはあかんで? 上辺だけでも可愛げがあったらな、性格悪かろうが顔が不細工だろうが、それなりに人生上手くやっていけるんやけぇ」
「もう人生上手くやれてないし」
「またぁ」
 
 
 真樹夫が柔らかくしなを作って、軽く肩を叩いてくる。気安い真樹夫の仕草を横目でねめつけながら、健一はフォンダンショコラを撒き続けた。一千万する鯉に無害か有害かなんて考えなかった。真樹夫は、しきりに左右を見渡している。
 
 
「真澄は?」
「知らない」
「知らんって、お稚児ちゃん一緒に暮らしとるんやろう?」
「オレとあいつの部屋別々だし、毎朝どっかに出かけて夜まで帰ってこない。だから、知らない」
 
 
 愛人という程、健一と吾妻の生活は甘ったるくなかった。むしろ、淡々として味気ない程だ。
 
 吾妻は朝早く何処かへと出かけ、毎晩きっかり二十一時に帰って来る。そうして、夕食も取らずに健一のいる和室を訪れる。健一が眠るまでの数十分の間、独り言めいた言葉を健一へと投げ掛けて、最後に物言わぬ健一の額に唇を落として去って行く。最初の時のように無理矢理健一の身体を奪おうとすることはなかったし、暴力を奮って言う事を聞かせる様子もなかった。まるでひっそりと静かに健一の生活に溶け込もうとしているようだった。吾妻が健一の生活に介入してこないことは有難いことだったが、その何も求めようとしない吾妻の毎日の行動は健一には理解不能で、何処までも不気味だった。
 
 真樹夫は、「ふぅん」と気のない相槌を打って、それ以上は聞いてこなかった。
 
 いい加減面倒臭くなって、健一は四分の一ほど残ったフォンダンショコラを池の中に落とした。ぼちゃんと水が跳ねる音が響く。驚いたように鯉が水中を逃げ惑っていた。
 
 
「ええの? ケーキ全部あげてもうて」
「いい。あんなもん食いたくない。欲しくもなかった」
 
 
 嫌悪を込めて吐き捨てると、真樹夫が顔を覗き込んできた。好奇心を隠そうともしない眼差しが煩わしい。
 
 
「真澄のプレゼント?」
「プレゼントって、普通相手が喜ぶものを渡すよな。オレはこんなの欲しくなかった。だから、そういう意味で言ったら、これはプレゼントじゃなくてゴミだ。押し付けがましい、あいつの自己満足を満たすためのゴミ」
「お稚児ちゃんは、ほんまに真澄のこと嫌いなんやなぁ」
「嫌い、嫌い、大嫌い。あいつ、死ねばいいのに」
 
 
 口調が荒くなって、目尻が吊り上っていく。隣で苦笑を漏らす真樹夫へ視線は遣らず、チョコレートがべったりとついた自分の掌を眺める。池の水で洗おうかと思ったが、その生臭い水を腹いっぱい飲まされた事を思い出すと、手を突っ込む気が萎えた。暫く掌を見詰めていると、不意に強い力に手首を掴まれた。
 
 
「うわー、こまい手! 子供の手って感じやなぁ!」
 
 
 健一の手首を掴んだ真樹夫が感嘆の声をあげる。許可もなく手を掴まれたことに露骨に顔を顰めれば、真樹夫は一度誤魔化すように、ははっと笑いを零した。しかし、その笑みが不意に変わる。悪巧みを思い付いたような、意地の悪い笑みへ。
 
 あ、と思う間もなく、指の間に舌が潜り込んでいた。指の股を舌が這って、チョコレートがこびり付いた掌をねっとりと舐め上げる。真樹夫の開いた口から薄梅色の舌が伸ばされているのを見て、健一はようやく現状を理解した。理解して、か細い悲鳴をあげた。
 
 
「ひっ」
 
 

 その悲鳴を聞いて、楽しそうに真樹夫の目が細められる。小動物を甚振って楽しむようなサディスティックな眼差しだった。掌の皺一本一本を丹念になぞる舌先が気色悪くて、鳥肌が立つ。鳥肌が腕から首筋へと這い上がってくる前に、健一はもう片方の手で真樹夫を突き飛ばした。真樹夫は「いてっ」とさして痛そうでもない声をあげて尻餅を付いた。暫く大袈裟に痛がるふりをした後、真樹夫は自分を化物のように見る健一の眼差しに気付いて、誤魔化すような柔和な笑みを浮かべた。
 
 
「俺、チョコレート好きなんよ」
 
 
 柔らかな関西弁だが、欺瞞に満ちていた。下らない言い訳、いや、真面目に言い訳する気すらないのだろう。その顔からは反省どころか罪悪感の欠片すら窺えなかった。
 
 舐められた手を守るように抱き締めながら、健一は怪しむように真樹夫を凝視した。真樹夫に対する不信感が頭を擡げる。それに不快感と嫌悪感、吾妻に感じるのと同じような言いようのない恐怖も。
 
 
「チョコすきだからって、オレの手を舐めるな。気色悪い」
「気色悪いって、容赦ないなぁお稚児ちゃん。――可愛げないのはあかんって言ったけど、前言撤回するわ。生意気なガキを捻じ伏せるっつうのは、存外楽しいんやろうなぁ。あぁ、真澄の気持ちがちょっとわかってきたわ」
 
 
 真樹夫の唇の端が吊り上がって、雰囲気が豹変する。狸が化けの皮を剥ぐ。
 
 地面についた尻を緩く掌で叩きながら立ち上がった真樹夫は、健一を緩く見下ろした。柔和な垂れ目の奥で、他人を虐げようとする者の仄暗い影が見え隠れしている。下腹がきゅうと収縮して、威圧感に健一は身体を硬直させた。
 
 
「なァ、お稚児ちゃん、真澄とどういう風にヤるん? 言ってくれたら、俺もおんなじようにヤッたるけん。慣れたヤり方の方が、お稚児ちゃんの負担も少ないやろ?」
 
 
「ほら、俺、優しいやろ?」という、如何にもうそ臭い言葉が続いた。真樹夫の唇から、下卑た笑い声が零れる。健一は、ぎこちなく首を傾いだ。
 
 
「ヤる…?」
「あ? あ、あー、…そうよなあ。まだ子供やもんなぁ。『ヤる』が何かもわからんのか」
 
 
 真樹夫は「あー」と逡巡するような声をあげながら、髪の毛を掌でぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。健一の無知を責めるように、その眉間には小さく皺が刻まれている。それから、真樹夫は腰を折り曲げて、至近距離から健一の顔を覗き込んだ。
 
 
「お稚児ちゃんは、真澄とどういう風にセックスされるんですかー?」
 
 
 真樹夫の口調から関西弁が消えて、揶揄する響きだけが残される。その言葉の意味を理解した瞬間、頬がカッと熱くなった。
 
 怒りもあるけれども、それ以上に羞恥の方が大きかった。吾妻と身体を重ねたことを他の人間に知られているというのが果てもなく恥かしく、そして居た堪れなかった。
 
 セックスなんかしたくなかった。あんなの俺は嫌だったんだ。本当に嫌だったんだ。気持ち悪いし、痛いし、怖くて堪らなかった。
そう声を大にして叫びたい。だが、無理矢理とはいえ、吾妻とセックスした事実は消えない。腹を犯された事実は消えない。
 
 思わず視線を真樹夫から逸らせば、頭上から真樹夫の笑い声が降りかかって来た。
 
 
「何で、そんなこと、聞かれなくちゃいけない」
 
 
 切れ切れに必死に言葉を紡ぎだす。真樹夫は肩を竦めた。
 
 
「参考、と、好奇心?」
「巫山戯んな!」
 
 
 からかっているとしか思えない理由に、怒鳴り声が腹の底から溢れ出た。憤怒の熱を込めて、真樹夫を睨み上げる。握り締めた両拳がわなわなと怒りに震えた。
 
 
「巫山戯とらんよ。ほんま俺気になっとるんよ。今まで熟女から幼女、時には男まで、ありとあらゆるプレイを駆使して愉しんできたつもりやったけど、まだ少年っつうのは抱いたことないんよ。どんな味なんか気になるやん。あ、ちなみに抱くっつうのもセックスするっつうことやけぇね。よう覚えとき」
 
 
 まるで教師のように教授し始める真樹夫を眺めて、健一は下唇を噛み締めた。化けの皮を現した狸は、反吐を吐きそうなほど醜悪だった。
 
 
「お前、最低だ」
 
 
 侮蔑するように吐き捨てる。瞬間、真樹夫の顔が引き攣って、それから破裂するように笑った。空まで届くような高笑い。唐突な笑いに、思わず目を剥いて、真樹夫を凝視する。そうして、笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、真樹夫は言った。
 
 
「かわえぇこと言うなぁ。ほんなら、思う存分、最低なことしたろうか」
 
 
 真樹夫の手が伸ばされる。逃れようと思うのに、筋肉が鉄のように固まって、身体が上手く動かない。健一は目を見開いたまま、近付いてくる真樹夫の掌を凝視した。
 
 真樹夫が嗤っている。嗚呼、嫌だ。また嗤いながら、酷いことをされるのか。どうして、皆酷いことばかりするんだ。
 
 真樹夫の手が、真っ赤な首輪を掴む。抗う術も知らず、健一の身体は強い力にゆっくりと引き摺り上げられた。
 
 

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