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15 健全

 
 健一は真樹夫を凝視したまま、咽喉をひくりと引き攣らせた。真樹夫が薄ら笑いを浮かべている。しかし、唐突にその顔が驚愕に歪んだ。
 
 
 頭上を一陣の風が吹き抜ける。
 
 
 真樹夫が「うわぁ」と間抜けな声を上げて、後方へと仰け反る。そのまま真樹夫は健一の首輪から手を離して、よろよろと地面に尻餅を付いた。
 
 頭上を見上げれば、真っ直ぐに伸びたしなやかな足が見えた。初めて見た時と同じ、綺麗な上限蹴りの構えだった。スカートの裾から、白いショーツが覗いている。
 
 
「下衆なことしてんじゃねぇよ」
 
 
 真昼が居た。ミニスカートから右足を突き出したまま、不愉快そうに吐き捨てる。威嚇する猫のように鼻梁に皺を寄せていた。
 
 
「真昼ぅ、パンツ丸見えやわ」
「それがどうした。あたし、こういうのダイッキライ。ガキを馬鹿にしてさァ、面白半分に真澄兄のモンに手ェ出して、そうやって優越感に浸ってんでしょ? 自分は凄い、偉いとでも言いたいんでしょ? こんな低俗なことしやがって、どうして、もっと高尚になれないわけ?」
「高尚やなんて、難しい言葉使うなぁ。えらいえらい」
「はぐらかしてんじゃねぇよ。真樹兄のそういう適当に受け流すところ嫌いよ」
 
 
 にやついた真樹夫の声を切り捨てて、真昼は言葉荒く吐き捨てる。前方へと突き出していた足を地面へと付けた真昼は、両腕を胸元で構えてファイティングポーズを作った。真樹夫に対して、挑むような視線を向ける。
 
 
「性欲は暴力で発散させるのが一番イイのよ。ねぇ、真樹兄ヤる?」
 
 
 顎先をしゃくって、真昼は笑みを浮かべていた。その足は、闘志を示すように緩くステップを踏んでいる。まるで試合開始のゴングを待つボクサーだ。真樹夫の頬が笑みの形のまま、ひくりと小さく引き攣った。
 
 
「残念やけど、俺、体育会系やないねん。暴力反対な博愛主義者やねん」
「何が博愛主義だ。『人間愛に基づいて全人類が平等に相愛協力すべきである』とか御大層なこと言いながら、その挙句が乱交と獣姦、ロリコン野郎よ。誰でも彼でも愛する奴らは、結局は誰も愛しちゃいないのよ。そのくせセックスの事ばっかりは一丁前に考えてさ、こんなガキに手出さずに、もっと健全に生きたらどうなわけ?」
「健全っつう言葉は、俺の辞書にはないなぁ」
「だったら、今直ぐその煩悩だらけの脳味噌に書き込みなさいよ。ケ・ン・ゼ・ン。分かった? ケ! ン! ゼ! ン!」
 
 
 大股で真樹夫に近付いた真昼が、真樹夫の耳元で大声を張り上げる。真樹夫は両耳を塞いで、辟易したように唇をヘの字に歪めた。
 
 
「あぁあ、もうほんまやめてぇな。鼓膜が破けるわ」
「破けりゃいいじゃない。一回ぐらい破けりゃ、流石に懲りるでしょ? それとも、真澄兄に半殺しにされなくちゃ懲りない?」
 
 
 真樹夫が「半殺しィ?」と不思議そうに首を傾げる。真昼は両腕を組んで、その場で仁王立ちをしたまま「そうよ」と至極当然の事のように返した。
 
 
「半殺しなら良い方ね。下手すりゃ真樹兄殺されるよ」
 
 
 躊躇いもなく自分の兄を貶しながら、真昼は呆然と地面に座り込んでいる健一を一瞥した。捨てられた子犬を拾うべきか見捨てるべきか逡巡しているような眼差しだった。
 
 今だ地面に尻餅をついたまま、緩く真昼を見上げる真樹夫の顔は、何処かおかしなことを聞いたかのように歪んでいる。
 
 
「〝下手したら〟殺されんの?」
「そうよ。それに、真澄兄ってこの家に恋人一回も連れてきたことないのよ。毎日毎日相手変えて連れてくる真樹兄と違ってさぁ。この家に連れてくるっていうことは、それなりに真澄兄が特別扱いしてるわんこなんだから。そのわんこに手出して、タダで済むわけないでしょ?」
 
 
 続けられた真昼の言葉に、真樹夫の笑みが更に深められる。意地の悪い狸が嗤っているように見えた。
 
 
「そこまで解っときながら〝下手したら〟はないやろ。下手せんでも殺されるわ」
 
 
 飄々と言い放たれた真樹夫の言葉に、一瞬真昼が怯んだように目を瞬かせた。わけのわからない事を言うな、とでも言いたげな憮然とした表情を滲ませて、真昼は「なによそれ」と譫言のように呟いた。
 
 
「まんまや。このガキに手ぇ出したら、ほぼ確実に俺は真澄に殺されるやろうなぁ」
 
 
 健一には、真樹夫の言葉も真昼の言葉も理解出来なかった。自分が何かされて吾妻が真樹夫に対して怒り狂うという事実はピンとこなかった。手を出した真樹夫ではなく、手を出された健一の方が殺されてしまう気すらする。
 
 二人の会話を絵空事のように聞きながら、健一は吾妻の事を思い出そうとした。健一を愛してると繰り返す男。健一しかいらないと臆面もなく言う男。しかし、愛してると言いながら暴力を奮い、健一を恥辱の底に叩き落とす男。その矛盾に満ちた行動から吾妻の愛情を量ることはできない。吾妻は、健一の家族を殺した。そうして、健一のために自分の家族まで殺してしまうのだろうか。解らないし、解りたくもない。
 
 
「あの偏執狂が自分のモンに手出されて殺す以外のケリをつけるわけないやろ? 自分のモンに一ミリでも触られんのが嫌な独占欲の強い真澄お坊ちゃまが、自分の愛人食った俺を生かしておくわけがないわ。真昼はまだ真澄のことよう解っとらんわ。真澄は真昼が思っとるより壊れとる」
「壊れてる?」
「ぐらぐらしとるもんほど危ないもんはないやろ?」
 
 
 あまりにも真樹夫の言葉は曖昧で、とらえどころがなく、現実味がなかった。『死』という言葉が重みもなく空滑りしている。自分の命すら面白半分に弄んでいるような雰囲気が真樹夫からは感じられた。
 
 真昼は言いよどむように唇を尖らせて押し黙った後、口火を切るように言った。
 
 
「じゃあ、真樹兄と同じこと言ってあげる。『そこまで解っておきながら』、何でわんこにちょっかい出すわけ?」
「さァなァ。でも、まあ、しいて言うなら、真澄の吠え面でも見たかったんかなぁ」
「自分の命捨ててでも?」
「セックスしようかって時に生きるか死ぬかまで考えんわ」
「バッカみたい!」
 
 
 能天気な真樹夫の言い草に、真昼が破裂するように叫んだ。呆れと憤りが混じった表情を浮かべながら、真昼は真樹夫を睨み付けていた。簡単に命を投げ出す気持ちが理解できないと言いたげな健全な表情だった。
 
 それから、不意にへたり込む健一へと視線を向けたかと思うと、腹の底から鋭い怒声を上げた。
 
 
「自分の足で立て!」
 
 
 一瞬、皮膚がビリリと痺れた気がした。ぐにゃぐにゃと蛸のように弛んだ身体に電流を流されたような感覚。目が覚めるような、一本芯が通った張りのある声だった。
 
 声に促されるように、強張った筋肉を無理矢理動かして立ち上がる。それを見て、唐突に、本当に唐突に、真昼が頬をゆるりと解いて笑みを浮かべた。純粋さと危うさを含んだ少女らしい笑顔だった。
 
 不意に、思いがけず心臓がどくんと音を立てて震えた。手足の先からじんわりと熱が生まれて、心臓が鼓動を早くする。健一にはその理由が解らなかった。ただ、真昼の顔から視線が逸らせなかった。心臓の音がやけに五月蝿い。
 
 鷹揚な仕草で、真昼が健一の肩に手を回す。
 
 
「やればできるじゃねぇか」
 
 
 肩を抱かれたまま、わしゃわしゃと犬でも撫でるような粗雑な手付きで頭を撫でられる。頭を引き寄せられると、額が真昼の胸に当たって、健一はうろたえた。柔らかい胸の感触に、耳まで熱くなる。
 
 
「胸っ、が、あたってる!」
 
 
 両手をばたつかせて真昼から離れようとしても、引き寄せる力は強くなるばかりだ。真昼の笑い声が頭上から降り掛かった。
 
 
「うっせー、マセ犬。いいんだよ。あたしがいいって言ってんだから、大人しく乳の感触でも味わっとけ」
「でもっ、でも」
「あぁ、そういえばスコーン買って来たんだった。ラ・ブランシェルの一日五十個限定のパンプキンスコーン。仕方ねぇなぁ、わんこにも特別に食べさせてやるよ」
 
 
 健一の戸惑いなど意にも介さぬ様子で、健一の肩を強く抱き寄せたまま真昼が歩き出す。だが、直ぐに立ち止まる。尻を叩きながらのんびりと立ち上がった真樹夫を、真昼は一瞬冷ややかな目で眺めて、それから口角を上げてガキ大将のような笑みを向けた。
 
 
「真樹兄も来なよ」
 
 
 予期せぬ誘いの言葉に、真樹夫が驚いたようにぱちぱちと瞬きを繰り返す。それから、人差し指で自分を指しながら「俺ぇ?」と間の抜けた声で問い返した。
 
 
「この家に他に真樹夫って人間がいるの?」
「おらんけどぉ…」
「いないなら、あたしの目の前にいる寝癖だらけの男のことで当ってるよ。何、来たくないの? スコーン食べたくないの? 可愛い妹の誘いを断るわけぇ?」
 
 
 ずいと身を乗り出して、不貞腐れた顔をした真昼が真樹夫を睨み付ける。しかし、その眼差しには先ほどの鋭さはなく、どこか親愛の篭った柔らかさがあった。躊躇うように真樹夫の眉はハの字に垂れていた。
 
 
「真昼、怒っとらんの?」
「怒ってたよ。でも、もう怒ってない。怒りすぎたら小皺が増えるじゃない」
 
 
 ツンと取り澄ましたように言う真昼を見詰めて、真樹夫は一瞬ぽかんと口を開いたが、徐々に綻ぶように笑みを浮かべて「ほやなぁ」と呟いた。その笑みや口調からは、今まで感じられなかった血の通った温もりを感じた。
 
 真樹夫でもそんな風に笑うのかと思って、健一は驚いた。驚いたと同時に、真樹夫に対する反感が微かに薄れるのを感じた。
 
 真昼は、もう片方の手を真樹夫の腰に回した。両手に男二人を抱えて歩き出しながら、真昼はへっへっと笑い声をあげた。わだかまりを残らず解くような軽快な笑い声だった。
 
 

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