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17 春

 
 健一が次の言葉を発する前に、障子の隙間から様子を窺うように弥生が顔を覗かせた。小動物が肉食動物の檻を覗き見るような怯えた眼差しだった。
 
 控えめな声で弥生が「すみません…」と声を掛ける。掠れた小さい声は、幽霊の声のようにも聞こえた。真樹夫と真昼の視線が弥生へと向けられる。
 
 
「なんや」
 
 
 横柄な口調で真樹夫が言った。声音だけで、弥生を虐げるような雰囲気があった。口元は笑っているが、目は笑っていない。弥生は目に見えてビクついた。障子の前に立ち竦んだまま、機嫌を窺うような上目遣いをしている。
 
 
「ちゅ、昼食の用意が出来ましたので、健一様を…」
 
 
 そこで痰が咽喉に絡んだように弥生は押し黙ってしまった。細い指先が固く握り締められているのが見えた。真樹夫が「あぁ」と面倒臭そうに相槌を打つ。
 
 
「今お稚児ちゃんは俺らと遊んどるんや。わかるやろ? 見えるやろ? それとも、その目ん玉は飾りもんか?」
 
 
 厭きれたように真樹夫が首を左右に振る。その行動すらも弥生を馬鹿にしているようで、健一には不愉快だった。弥生に肩入れする訳ではないが、真樹夫の小動物を甚振るような様子は腹立たしい。
 
 眉間に皺を寄せて、健一は真樹夫を見据えた。真昼は我関せぬ様子でスコーンを齧っている。薄い唇を数度上下に戦慄かせて、弥生が途切れ途切れの声をあげる。
 
 
「あの、お稚児というのは…」
「お稚児はお稚児やろ。何か言いたい事でもあるんか? 言いたいことあんなら、言ってみいや」
 
 
 真樹夫が弥生の言葉を力で捻じ伏せる。弥生の物言いたげな眼差しが、臆する様に床に伏せられた。伏せる直前、何処か悲しそうに弥生は健一を一瞥した。
 
 その瞬間、もしかしたら、と健一は思った。弥生は昼食を告げに来たのではなく、健一を探しに来たのではないのだろうか。行く当ても無いはずなのに、中々戻って来ない健一を心配して探していたのではないだろうか、と。
 
 空想でしか過ぎないが、そう考えた瞬間、微かに胸が締め付けられた。硬いコンクリートに皹が入るように、弥生に対する憎悪の底から愛しさに近い感情が沁み出して来る。その感情に健一は戸惑った。吾妻に対して、悲しみを感じた時と同じような戸惑い。
 
 
「もういいだろ」
 
 
 気付いたら、口が勝手に動いていた。そうして、健一は自分が弥生を庇った事に改めて戸惑った。
 
 それからここに来てから、頭よりも先に身体が動くことの方が多いと思ってうんざりした心地になった。
 
 突然声を発した健一に驚いたように、真樹夫がパチパチと目を瞬かせて健一を見詰める。それから、口元に厭らしい笑みを浮かべた。
 
 
「愛人同士、お互いに慰め合いでもしとんか?」
 
 
 下衆だ、と思った。醜悪さを凝縮させたような笑みを見ていると、腹の底から反吐が込み上げてくる。真樹夫を睨み付けながら、健一は虚勢を込めて唇を笑みに歪ませた。腸が煮え繰り返りそうな時でも、笑顔というのは意外と浮かべれるものだなと思った。
 
 
「どう思う?」
 
 
 わざと余裕ぶった声を出してみる。真樹夫は健一の虚勢を面白がるように肩を揺らした。
 
 
「お稚児ちゃん、何歳やったっけ?」
「あんたに関係ない」
「中学…はまだいっとらんやろ。小学生五、六ってとこか」
「それがどうした」
「まだ下半身も育っとらんやろ。弥生のチンポを尻に突っ込まれとんか? それとも口でしゃぶって貰っとるんか? 弥生は根っからの男好きの淫乱やからなァ、勉強になるやろ」
 
 
 最後まで聞かずに、次の瞬間には眼前に白い飛沫が飛んでいた。弥生の驚愕の悲鳴が聞こえた。
 
 真樹夫の顔面に牛乳をぶっ掛けて、健一は先ほどまで牛乳に満たされていたグラスを片手に、肩で息を切って立っていた。
 
 全身から憤怒が漲るようだった。奥歯の辺りから「巫山戯んな」という言葉が溢れていた。
 
 性的な揶揄だけは我慢出来ない。頭の中で、吾妻にされた行為がフラッシュバックするようだった。腹に性器を突き入れられた痛み、口腔の粘膜に包まれた生温い感触、全てが屈辱的で許し難い。
 
 それを思い出させ、馬鹿にしてくる真樹夫も許せなかった。絶対に許せない。
 
 頭から牛乳を被った真樹夫が髪の毛先から白い滴をぽつぽつと落としながら、健一を見据えている。眼球の奥で、仄暗い影がゆらゆらと蠢いていた。冷静なまま人を殺すような目にも見えて、健一の皮膚は総毛立った。
 
 
「お稚児ちゃん、お前がどう思っとるかはわからんが、お前と俺らが同等思うたら大間違いや。お前みたいな餓鬼、殺して埋めるぐらい簡単なことなんやけぇの」
「――脅してるつもりか?」
「いいやぁ。ただ、お前は所詮真澄の玩具に過ぎんつうことを、よう覚えとけってことや」
「オレはオモチャじゃない!」
 
 
 噛み付くように叫ぶ。肩を怒らせて、威嚇するように鼻梁に皺を寄せる。真樹夫が濡れた前髪を緩く掻き上げながら、目を細めて嗤った。
 
 
「お前が自分は玩具じゃない思うてても、俺らにとってはお前は玩具や。退屈凌ぎの玩具。暇潰しの玩具。お前は、俺らに気紛れに嬲り殺されても、誰からも何とも思われん存在や。記憶から消し去られて終り」
「オレはそんなんじゃない!」
 
 
 殆ど悲鳴のようだった。指先が震えそうになるのを必死で堪える。自分という存在の薄っぺらさを教えられて、健一は引き裂かれそうな程の寂しさを覚えた。
 
 虫けらのように殺されても、誰も健一を省みてはくれないのか。悲しんでくれる人はもういないのか。涙を流して、健一の理不尽な人生を嘆いてくれることはないのか。
 
 そう思うと、眼球から涙が滲みそうになった。
 
 どうして、こんな事になったのだろうか。自分はどうしてこんな寂しい生き物になってしまったのだろうか。
 
 
「オレは、オレは、オレは、おれ、おれは、おれ、おれ、おれおれ、おれは、オレ、オレは、」
 
 
 舌が上手く回らない。口に出す度に世界がぐるぐる逆回転するようだった。足元がぐらつく。痺れるコメカミを両手で押さえて、何度も同じ言葉を繰り返す。
 
 オレは、オレは、オレは一体何だ。自分という存在が危うくなる。嬲り殺されるのを待つだけの家畜か。犯されるのを待つだけの性人形か。お母さん、オレはお母さんの腹から生まれてきた人間のはずなのに。人間なのに、どうしてこんな理不尽な生き物になっているんだ。
 
 不条理だ。不合理だ。自分には泉健一という名前があるはずなのに。それなのに、それなのに、自分が解らなくなって行く。ガラガラと崩れ落ちて、バラバラになっていく。
 
 
―――嗚呼、嫌だ、真樹夫が嗤ってる。
 
 
「四番バッター」
 
 
 澱んだ空気を貫くように、張りのある声がピンと響いた。ぼやけた視線を声へと向ければ、真昼が健一を真っ直ぐに見上げていた。そのまま、ニッと頬を緩ませて笑う。
 
 
「四番バッターでホームラン王の泉健一、でしょう?」
 
 
 確かめるように繰り返される言葉に、強張っていた心臓の筋肉がじんわりと解けていく。春のぬくもりに雪がさらさらと溶けていくような感覚だった。真昼を見詰たまま、健一は惚けたようにゆっくりと頷いた。真昼が「あたしって記憶力いいわ」と軽口を叩いて、ソファから立ち上がる。そのまま、自然な動作で健一の冷えた掌を握り締めた。真昼の掌は温かかった。真昼は春だ。体温が戻っていく指先を感じて、そう思った。
 
 真樹夫はさもつまらなさそうに溜息を付いていた。真昼が緩く真樹夫をねめつける。
 
 
「真樹兄も、いい加減にしなよ。あたし、こう見えても、このわんこのこと気に入ってんのよ」
「俺の優しさがわからんのか。気ィ狂った方が楽やったのに」
「面白半分のくせに」
「わかっとらんなぁ」
「わかってない?」
 
 
 真昼が首を傾げる。真樹夫の笑みが深まった。頬に刻まれた笑い皺が目を逸らしたくなるほど醜い。
 
 
「半分やなくて、面白いけぇやっとるんや」
「――ド外道が」
 
 
 真樹夫の唇に浮かぶ悪意を眺めて、真昼が吐き捨てる。近付いては遠ざかる。馴れ合っては虐げ合う。真昼と真樹夫の関係は、健一には理解不能だった。いや、真昼と真樹夫だけではない。この家が、家族が、歪で、奇妙に醜く捻じ曲がっている。だから、この家の空気は澱んでいるんだ。息をするのが苦痛な程に。
 
 手を引っ張られる感覚と同時に、真昼が歩き出す。擦れ違い様に真昼が立ち竦む弥生に向かって「昼ごはんはあたしの部屋で食べるから」と言っているのが聞こえた。慌てたように「はい」と返答する弥生を、真樹夫が「弥生」と粘つくような声音で呼び寄せる。
 
 障子が閉まる瞬間、見えたのは、真樹夫の頬を伝う白い滴を舐め取らされている弥生の姿で、その光景に健一は酷く苛立った。
 
 
 どうして、言うことを聞くんだ。どうして、逆らわないんだ。どうして、噛み付いてしまわないんだ。どうして――
 
 
 障子の奥から、子供に言い聞かせるような真樹夫の声が薄っすらと聞こえた。
 
 
――「お前は親父の男妾」「親父が死んだら一つも価値がない」「お前がこの家」「生きるため」「どうしたらいいか」――
 
 
 真樹夫が健一にしたような脅しを弥生にもしていることは、ぼんやりと解った。しかし、最後に聞こえた一言は矢張り意味が解らなかった。【遺言状】が、弥生に何の関係があるのだろうか。
 
 

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