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18 切れない

 
 真昼に手を引かれるまま、小走りに廊下を歩く。入り組んだ廊下を、水中の魚のようにすいすいと真昼は進んでいく。背後から素早い足音が響いて来た。足音は健一と真昼の前方に回り込んで、唐突に平伏した。
 
 
「すんません! 真昼さん、すんませんっした!」
 
 
 エプロン青年こと小山だった。「すんませんっした!」と謝罪の言葉を繰り返しながら、小山は床に額を擦り付けている。脱色され短く刈られた頭髪の隙間から旋毛が見えた。足取りを止め、真昼は片手を腰に当てて溜息を付いた。
 
 
「小山ァ、何であんたが謝って来んのよ」
 
 
 小山はおどおどとした仕草で眉毛が半分しかない顔を上げて、真昼を見上げた。三白眼の一重が情けなく垂れている。半開きにされた口には左前歯が二本ほど欠けていて、ぽっかりとした黒い空間が見えた。美形とは言えないが、何処か頭を撫でたくなるような愛嬌のある顔立ちだ。
 
 
「真樹夫さんに代りに謝って来いって言われっした! マジすんませんっした!」
 
 
 額をガンッと床に打ち付けて、再び小山は平伏した。真昼が口内で「あの野郎…」と鈍く呟くのが聞こえた。声だけで人を絞め殺せそうな低く轟くような声音だった。
 
 
「あんたが謝ってもどうしようもないでしょうが。それに、あたしに謝ってどうするのよ。どうせ謝るなら、わんこに謝りなさいよ」
「でも、自分は真昼さんに謝れって言われて来ましたから……すんません! 真樹夫さん、真昼さんに嫌われたら傷付く言うてました! 許したって下さい!」
 
 
 盲目的な小山の謝罪の繰り返しに、真昼が舌打ちを零す。苛立ったように髪の毛を緩く掻き毟って、真昼は唇をへし曲げた。
 
 
「もういいよ。本人以外に謝られて許すも許さないもないし。真樹兄は何してんのさ」
 
 
 小山の身体が小さく震えた。再び上げられた小山の顔が微かに紅潮している。その紅潮の中には、羞恥だけでなく何処か嫉妬じみた腹立ちも含まれているように見えた。もごもごと言い難そうに唇を動かした後、小山は消え入るような声で「弥生さんと…」と呟いた。
途端、真昼の足がドンッと床を踏み締めた。小山の身体は目に見えて大きく震えた。間髪入れず額を擦り付けて「すんませんっした!」と繰り返し叫ぶ。
 
 真昼の肩は怒りに震えていた。自分で謝りにも来ず、弥生と何事かしているらしき兄に対して憤怒が滾っていた。健一の手を握り締める掌にも力が篭って、痛い。
 
 
「あの下半身馬鹿に言っておいて。地獄に落ちろ糞野郎!」
 
 
 真昼が中指を突き立てる。吐き捨てて、真昼は小山の横を通り過ぎた。擦れ違い様に、泣き出しそうな小山の顔が見えた。「そんな事言えないっすよぉ…」と、小山の半泣きの声が聞こえる。哀れみを誘うその声音は、捨て犬が「くぅん」と鳴いているようにも聞こえた。
 
 その声に反応を返さず、真昼はドカドカと荒い足取りで進んで行く。肩越しに振り返れば、小山は相変わらず床にへたり込んでいた。呆然としたように肩が垂れ下がっている。帰巣本能を失った柴犬が途方に暮れているようにも見えた。
 
 
 
 
 
 
 荒い足取りで数十メートル進んで、暫くしたらその歩調も迷子のようなトボトボとした歩き方になった。
 
 
「あたし達って仲良く出来てないのかな」
 
 
 独り言に近いその言葉を、健一は一瞬聞き逃しそうになった。
 
 先ほどの怒りは何処にいったのか、それは悲しみを含んだ小さな声だった。それは、その場に置いてきぼりにするような孤独な声にも聞こえた。
 
 健一はギュッと重なったままの掌を見つめて、それから真昼の顔を見上げた。何処か思い詰めたようにも見える真昼の横顔、下唇を柔く噛んでいる。
 
 真昼は足取りを止めて、健一へと視線を向けた。掌を接いだまま、向かい合う。
 
 
「さっき、わんこ言ったでしょ? どうして家族なのに仲良く出来ないのか、って。あたし達って仲良く出来てない?」
 
 
 真昼の声は真剣だった。先ほどの男勝りな荒々しさは何処に行ったのか、今健一の目の前に居るのは儚げに揺れる少女だった。
 
 
「仲良く出来てると思う?」
 
 
 意地が悪いと思いつつも、反対に問い返す。健一の返答に、真昼は苛立ったように視線を背けた。暫く悔しそうに黙り込んで、それからゆっくりと唇を解く。
 
 
「出来てないわよ」
「じゃあ、仲良く出来てないんだろう」
「そんなの解ってるわよ!」
 
 
 唐突に真昼が炸裂するように甲高い声を上げた。繋がっていた掌を振り解いて、真昼は息を荒く、健一を睨み付けた。
 
 健一は、真昼のヒステリーに目を剥きながら、自分自身を落ち着けるように小さく息を吐き出した。
 
 
「仲良くしたいのか?」
「そんなんじゃない」
 
 
 問い返した言葉には反発を返して来る。天邪鬼な真昼の返答に、健一は逡巡と呆れを覚えた。だったら、一体真昼はどうしたいのか。さっぱり解らない。
 
 唇をヘの字にへし曲げて、真昼を見遣る。真昼は親指の爪を軽く噛んでいた。真夜と同じ癖に、健一の心はざわりと騒いだ。
 
 
「真夜と同じだ」
「はぁ?」
「爪噛むの」
 
 
 ハッとしたように、真昼が噛んでいた親指を、無かった事にするみたいに腕ごと背後に隠す。バツが悪そうな表情を滲ませて、真昼は曖昧に口をもごつかせた。
 
 それから、暫くして、諦めたように溜息をついて隠していた腕を出した。疲れたように肩を落としている。
 
 
「だから、血って嫌いよ。反対方向に歩いてるつもりでも、いつの間にか同じところに向かっちゃてるんだから」
 
 
 悔恨と諦念がマーブル状に混じったような声音だった。眼差しは悲しそうに細められている。
 
 
「どういう意味?」
「あたし怖いの」
 
 
 不意に吐き出された真昼の弱音に、健一は困惑した。真昼は唯我独尊、独立独歩、暴走特急な人間だと思い込んでいたからこそ、『怖い』という一言は意外だった。
 
 真昼自身も、自分自身が言った言葉に戸惑うように眼球を揺らしている。
 
 
「何が、怖い?」
「――家族。ジジィもババァも、将兄も真樹兄も真澄兄も真夜も、みんなみんな怖くて仕方なくなる時があるの」
「どうして」
「血が繋がってるから。捨てたいのに捨て切れないって怖い」
 
 
 血の繋がりを怖れる真昼の姿に、健一は決定的な感覚の齟齬を抱いた。真昼の恐怖の理由が理解出来ず、曖昧に首を傾げるだけだ。それでも、真昼は構わず続ける。
 
 
「あたし、みんな嫌いよ。大嫌い。死ねばいいって思う時だってある。だけど、嫌いきれない。本当にどうしてなのかわからないけど、心の底から嫌いになれないの。それから、時々愛しいなんて思っちゃうの」
「それは、悪いこと、なのか?」
 
 
 問えば、真昼は再び親指の爪を噛んだ。
 
 
「悪いわ。悪過ぎよ。嫌いにも好きにもなれないなんて、最高に厄介だわ」
「どうして」
「憎むことも優しくすることも出来ないのよ。中途半端で、シーソーみたい。いつか均等が崩れて、あたし達みんなどうにかなっちゃうんじゃないかって思うの」
「どうにかなっちゃう?」
「どうにかなっちゃう」
 
 
 心細そうに漏らして、真昼は視線を落とした。伏せられた真昼の眼差しを見た瞬間、不意に健一は真昼を抱き締められたらと思った。人を抱き締めたいと思ったのは初めてで、その感情に健一はうろたえた。
 
 真昼は寂しそうな笑みを口元に浮かべていた。
 
 
「いっそ切れたら楽なのに。ずるずる引き摺るみたいで、時々苦しくて仕方ないの。それか、優しくなれたらいいのに」
 
 
 ぽつりと諦め半分な声音で零して、真昼は再び歩み始めた。御互いの手を離したままに。掛ける言葉も思い付かず、その後ろを健一は着いていった。
 
 Tシャツ越しに真昼の肩甲骨が微かに浮き上がっている。それをぼんやりと眺めて、健一は『優しくなれたら』という言葉を思い浮かべた。
 
 優しいというのは、どういう意味だろうか。どういう人間が、優しいという言葉に相応しいのだろうか。答えは出ず、健一は真昼の寂しい背中を見つめ続けた。
 
 

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