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19 やさしい

 
 真昼の部屋は、その粗暴な性格を現すように雑然としていた。床の至る所に、けばけばしい色をした服や化粧品が散ばっていて、足の踏み場もないというのはこの事を言うのかとさえ思えた。
 
 真昼は足先でそれらを左右に押し退けながら、部屋の中央へと進んで行く。まるで獣道のように出来上がった道を、健一は恐る恐る後に続いた。しかし、途中で避け切れなかった物を踏み付けた。足元を見れば、Xのマークが付いた太いクレヨンのようなものが見えた。
 
 
「シャネルのリップを踏むなバカ。上手く歩けよ」
 
 
 と振り返り様に真昼が眉根を寄せて言う。
 
 
「こんなん、唐傘小僧でも何か踏んずける」
 
 
 悪態を吐き返せば、真昼が軽く部屋を見回した後、「そりゃそうだ」と口元を緩めて笑った。その笑顔にほっと肩の力が抜ける。
先ほどの真昼の寂しい背中が目に焼きついて離れなかった。真昼の弱さを垣間見て、健一は奇妙な不安と愛しさを感じて戸惑っていた。だからこそ、こうやって何事もなかったようにカラッと笑う真昼を見ると、無性に安心する。
 
 真昼は部屋の奥にあるベッドの上に腰掛けると、片手で肩を軽く揉みながら「適当にその辺座っていいよ」と言った。健一はその一言に改めて脱力した。一体、この部屋の何処に座れる場所があると言うのだか。仕方なく、床に散ばったものを座れる程度に押し退けて、真昼が作った獣道に正座して座り込んだ。
 
 不意に、ムッと鼻につく煙臭がした。真昼へと視線を向ければ、真昼の唇には細見の煙草が咥えられていた。焼けた先端から、灰色の紫煙がゆらゆらと立ち昇っている。思わず、目を細めて真昼をねめつければ、紫煙を吐き出している張本人は意地が悪そうに口角を歪ませた。
 
 
「わんこも吸う?」
「野球選手は煙草を吸わない」
「犬も煙草は吸わないしね」
「犬じゃないし」
 
 
 不平を言うように唇を尖らせれば、真昼はヒッヒッと声を上げた。
 
 その咽喉が煙草の煙を肺一杯に深く吸い込む。それから、健一へと向かって吐き出した。顔に纏わり付く白いもやに、健一は大きく咳き込み、真昼を睨み付けた。真昼は煙に右往左往する子供を面白がるように笑って、ゆったりと足を組んだ。下から見上げている体勢のせいか、真昼のスカートの中が覗き見えて、健一は慌てて視線を逸らした。
 
 しかし、逸らした瞬間、真昼の太腿にベルトらしきもので括り付けられているフォールディングナイフが視界に映った。チカリと太陽光に反射した刃の煌きを思い出して、思わず視線を戻して、まじまじと見てしまう。
 
 
「エロ犬、人のパンチラ見てんじゃねーよ」
 
 
 嫌味ったらしい声音で真昼が言う。声に反して、顔は朗らかに弛緩していた。
 
 
「ち、がうっ! それ、が見えたから…!」
 
 
 言えば言うほど言い訳臭くなっている気がして、健一は自分の頬が紅潮するのが解った。「ははん」としたり声を上げながら、真昼が見せ付けるように足を組みなおすのが視界の端に見えた。
 
 
「それって、あたしのパンツのことぉ?」
「どうして、そういうことばっか言うんだ! オレはそんなに破廉恥じゃない!」
 
 
 混乱と怒りが混じった声で怒鳴り返す。真昼は意表を付かれたように数度瞬いた後、腹の底から込み上げてくるような笑い声を上げた。笑い声の合間に「破廉恥ってっ!」と言うのが聞こえて、健一は更に頬を赤らめた。俯いたまま、膝頭の上で拳を固く握り締める。羞恥と憤怒がごちゃ混ぜになって、何だか泣きそうだった。
 
 
「あぁ、ごめんごめん。だって、破廉恥なんて久々に聞いてさぁ」
 
 
 ぷるぷると震える健一に気付いたのか、「怒んないでよ、わんこぉー」と弁解するように真昼が言う。しかし、その目尻には笑い過ぎの涙が薄っすらと浮かんでいて、説得力が無い。
 
 もう一度大きく煙草を吸った後、煙草を灰皿に押し付けた真昼が「コレでしょ?」とスカートの内側に手を伸ばし、折畳まれたナイフを取り出す。片手で、弄ぶように軽く前後に揺らす。
 
 
「全長十六センチ、刃長七センチのオズボーン、可愛いでしょう?」
 
 
 小学生がカードゲームのカードを自慢するような言い方だった。
 
 パチリという音と共に広げられる刃を、健一は食い入るように見詰めた。電灯に反射してギラリと光るナイフは、獲物を狙っている肉食獣の牙にも見えた。知らず、咽喉が大きく上下する。それを見て、真昼の唇が歪んだ。
 
 
「何? 欲しいの?」
「欲しい」
 
 
 間髪入れず答える。真っ直ぐ真昼を見据える。
 
 吾妻を殺すための道具、凶器、刃物、咽喉から手が出る程に欲しい。フォークでは吾妻は殺せない。臆病な自分の心を奮い立たせるため、何か確固たる殺意の象徴が欲しかった。切り裂いて、殺す印が。
 
 
「何で欲しいのよ」
「……」
 
 
 答えれず、健一は押し黙った。真昼に言っていいものなのか迷いが生じた。
 
 真昼は詰問するような眼差しで健一を見ている。それから、何一つ言わない健一に諦めたように溜息をついた。
 
 
「あげない。子供が刃物持って、ろくな事になった例がない」
「子供扱い…すんな」
「子供じゃない。真樹兄に一つも敵わなくって、襲われそうになったり、頭おかしくなったりしそうになってたくせに。一人で立ち上がることすらままならないガキがナイフを持ったところで何が出来る。粋がってんじゃねぇよ」
「五月蝿いッ!」
 
 
 痛い部分を的確に突き続ける真昼の言葉に、健一は頑是のいかない子供のように喚き返した。瞬間、上半身が前方へと引っ張られる。唐突な引き寄せに身体が言うことを利かず、顔面が床に一度ぶつかった。痛いと叫ぶ暇もなく、次の瞬間には真昼の顔が至近距離にあった。
 
 真昼の手はフォールディングナイフを握り締めたまま、もう片方の手は健一の首輪を掴んでいる。首輪を掴まれて引っ張られたらしい。
 
 真昼の瞳は憤怒を孕んで、健一の眼球の奥を貫いていた。それから、吐き出す。ゆっくりと熱を吐き出すような口調だった。
 
 
「目ぇ閉じんな」
 
 
 真昼の言葉は簡潔だった。しかし、その一言に全てが凝縮されていた。
 
 そのまま身体を投げ出される。尻餅を付いて、真昼を見上げると、真昼は「畜生、青臭ぇ」と健一に向けたとも自分に向けたとも判らない一言を呟いて、視線を逸らした。その眼差しを見て、唇から思いがけぬ言葉が零れ落ちた。
 
 
「――ごめん」
 
 
 突然健一の口から漏れた謝罪に、真昼が驚いたように目を大きく開いて、それから、ゆっくり、困ったように淡い笑みを滲ませる。
嗚呼、やっぱり女の子なんだ。とその時改めて思った。どれだけ乱暴で口が汚くても、真昼は女の子だ。
 
 
「ねぇ、わんこ、前聞いたよね。どうして刺さなかったのか、って」
 
 
 歪んだ空気を振り払うように、真昼が切り出す。一瞬何の事だか分からず、健一は曖昧に頷いて、それから思い出し、「うん」と相槌を打った。真昼と初めて会った時のことだ。ナイフを取り出しながらも、真昼は不実な男を刺さなかった。あれだけの憤怒と憎悪を男に抱きながら、どうして刺さなかったのか不思議で健一は問い掛けた。
 
 
「あの後さ、あたしなりに考えたのよ。どうして、あの馬鹿男を刺さなかったのか、って。あたしも初めは分かんなくってさぁ、でも、段々『そういうもん』なのかなって思えてきたの」
「そういうもん?」
「好きな人は殺せないよ。あたし、あんな馬鹿な奴のこと愛してたからね。刺せなかったよ」
 
 
 そう言って、真昼は肩を揺らして笑った。どうでもいい事だと思い込もうとするような、何処か投げ遣りな笑い方だった。好きな人、という言葉に健一の胸はチクリと針で刺されたように疼いた。
 
 
「好きだと、殺せないのか?」
「うん、他の人はどうだか知らないけど、あたしはダメ。絶対にダメ」
「そんなに、すきだったの?」
「うん、ほんとに好きだった。世界で一番大好きだった。結婚して、御嫁さんになりたかった。子供だって欲しかった。ヤクザの娘だとか、そんな理由で捨てられたくなかった。好きだった。今だって、まだ好きなのに」
 
 
 繰り返す度に、真昼は自分の膝頭にゆっくりと顔を埋めていった。それでも、真昼は目を開けているんだと思った。失恋の痛手を抉り出して、向き合っている。
 
 真昼の手からフォールディングナイフが零れ落ちる。床に玩具のように転がって、キラリと光る。
 
 不意に『優しい』という言葉が、健一の胸に溢れた。間欠泉のように湧き出して、胸の内側をあたたかく充たして行く。
 
 会話の脈絡に沿わぬ単語が思い浮かんだ事に、健一は動揺した。それでも、胸を暖めていく感覚は確かで、その言葉は目の前の少女にこそ相応しいのではないかと、証拠も根拠もなく思えた。だから、躊躇わずに言った。
 
 
「やさしい」
「…優しい?」
 
 
 突拍子もない言葉に、訝しげな真昼の視線が向けられる。その瞳は潤んでいなかった。しかし、その目尻は微かに赤く染まっている。涙を堪えるように、眉間に皺が寄っていた。唇は真一文字に引き結ばれている。
 
 
「真昼は優しい」
「優しい? あたしが?」
「うん」
「…わんこは、あたしを慰めようとしてんの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。思ったことを言っただけだ」
 
 
 疑うような真昼の眼差しが、微かに細められる。親指の爪を軽く噛んで、健一の真意を確かめるように逡巡を滲ませた視線を、横目に滑らせた。
 
 
「…あたしが優しいって、ほんとに思ってくれてるの?」
「うん。他の人にはどうか解らないけど、オレにとって真昼は優しい」
 
 
 真昼の歯がガジガジと爪を噛み締める。照れを隠すような子供っぽい仕草が何だか愛しい。その頬が微かに赤くなっているように見えるのは、気のせいだろうか。
 
 
「優しいなんて、初めて言われた」
「そうなのか?」
「ねぇ、他に何か言ってよ」
「何か言えって…何言ったらいいんだよ」
「何でもいいから言ってよ」
 
 
 無茶苦茶な要求を突き付けられて、健一は困惑した。暫し考えて、ぽつぽつと言う。
 
 
「真昼は、かわいい」
「あたしが、かわいい?」
「うん、かわいい」
「何処が?」
「目が、キラキラしてる。鼻筋が通ってていい。それに背中が綺麗だ」
「背中?」
「そう、肩甲骨が綺麗な形してる」
「…エロガキ」
「違っ…!」
「嘘よ、うーそ」
 
 
 そこまで言って、真昼は笑った。氷が解けて、春が訪れたような暖かい笑顔だった。そのまま、背中からベッドの上に倒れ込んで、満ち足りたように息を吐き出す。仰向けになった真昼の胸が大きく上下するのが見えた。
 
 
「ああ、なんか嬉しくなっちゃったわ。こういうの久しぶり」
「こういうのって」
「肯定されること」
 
 
 肯定という言葉は、健一には上手く把握出来なかった。優しいという言葉は、真昼にとって肯定の言葉なのだろうか。曖昧に首を傾げる。
 
 
「ねぇ、わんこって何歳だっけ?」
「…十二、歳」
「きっと後五年もすれば、良い男になるよ」
 
 
 唐突な褒め言葉に、健一はきょとんと双眸を瞬かせた。それから、耳がじんわりと熱くなった。心地良い恥じらいだった。
 
 意味もなく鼻頭を手の甲で擦って、それから戯れるように「オレを慰めてるの?」と先ほどの真昼と同じ言葉を返した。
 
 真昼はハッハァッと男らしい笑い声を一息に上げた。空気が柔らかくなる。悴んでいた指先に体温が戻るような感覚だった。
 
 

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