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20 野球

 
「そうだ!」と弾けるような声をあげて、真昼がベッドから足を大きく跳ね上げて起き上がる。
 
 
「わんこって野球やるんだよねぇ。だったよねぇ」等と独り言じみた台詞を零しながら、真昼が床に積まれた物の間やベッドの下をゴソゴソと漁り始める。
 
 最終的に『それ』は、開けた瞬間ありとあらゆるものが雪崩を起して落ちてきたクローゼットの中から見つかった。雪崩に脛まで埋もれながら、真昼が誇らしげに掲げる物を見て、健一はぽかんと口を開いた。
 
 
「野球って、バットとグローブ以外に何かいるんだっけ?」
 
 
 と言いながら、真昼は健一へとバットとグローブをぞんざいに放り投げた。緩い弧を描いて飛んでくるバットとグローブを慌てて両腕で受け留める。硬くてゴツゴツとした感触を掌に感じて、皮と微かな泥の臭いを鼻腔いっぱいに吸い込んだ時、健一は理由もなく涙ぐんでいた。胸元に抱き締めて、小さく呻く。十二年間の自分の人生、その大半を占めてきた野球という存在。失ったと思っていた。もう二度とバットとグローブなんて持てない、触れない、関われないと思っていた。だからこそ、今両手に感じる感触が嬉しくて堪らなかった。
 
 だが、その感動を台無しにする一言が真昼の口から零れた。
 
 
「真澄兄のなの」
 
 
 高揚していた気分が奈落の底まで墜落させられる。露骨に落胆を浮かべる健一に気付いているのか、気付いていないのか、真昼は意気揚々と言葉を続ける。
 
 
「真澄兄も高校卒業するまでは野球やってたんだ」
 
 
 真昼の説明にも、健一は「へぇ…」とやる気のない返事しか返せなかった。抱き締めていたバットとグローブを、微かな虚しさを感じつつ床に並べる。よく見れば、バットもグローブも使い込まれた跡が残っていた。泥に汚れ、人の手によく馴染まされている。
 
 これらの持ち主が吾妻だとは、天地が逆転しても信じられそうになかった。あの冷血人間が泥に塗れて野球をするだなんて、考えられない。いっそ気色悪いぐらいだ。疑心暗鬼に目を細めて、真昼を見遣る。真昼は首を傾げて、うんうんと唸っていた。
 
 
「何だっけ、こうし、うし、何だっけアレ。あーもー、ド忘れしちゃった」
「小牛?」
「バカ、牛じゃねぇよ。アレよアレ。あの熱血球児達の、野球の大会…」
「それって甲子園?」
「そうよ、それそれ。真澄兄って甲子園にも出たのよ」
 
 
 思わず、「はぁ!?」という驚愕の声が出ていた。真昼のド忘れっぷりに呆れて半開きになっていた目が見開かれる。
 
 甲子園って、あの甲子園だよな、という間の抜けた問い掛けが頭の中でぐるぐると回った。憧れてやまない甲子園、深夜放送の熱血甲子園は欠かさず見て、皮膚を汗と焦れに疼かせていた。
 
 真昼が再び床に積まれた山を漁り始める。「あった」という一言と共に発掘されたのは一本のビデオテープだった。学校か何処かの団体が製作したと思われるビデオのカラーパッケージには「E高等学校 真夏の激闘」という安っぽいタイトルがプリントされていた。
 
 はい、と当り前のように渡され、思考停止状態のまま健一はそれを受け取った。劇画調のタイトルの下に選手の名前が並べられている。上から三番目に『吾妻真澄』と名前があるを見て、健一は自分の境遇も忘れて「うわぁ」と感嘆の声を上げていた。
きっと、咄嗟に『あの吾妻』だと思い出さなければ、「うわぁ、すげぇ!」と叫んでいたことだろう。サインだって貰っていたかもしれない。
 
 真昼はまるで自分の事のように、ふふんと勝ち誇った表情をしている。
 
 
「それあげるわ。あたしが持ってても仕方ない気がするし」
「それって、バット? グローブ? ビデオ?」
「全部よ全部」
「いらないの?」
 
 
 恐る恐る問い掛ければ、真昼は肩を竦めて曖昧に笑った。
 
 
「要らなくはないけど、あたしが持ってても仕方ないもの。わんこなら、捨てたりしないでしょ?」
 
 
 意味深な真昼の一言に、健一は数度瞬きを繰り返した。『捨てたりしない』という事は、以前これらは捨てられたものだったのだろうか。吾妻か、吾妻の家族の誰かに捨てられて、それを真昼が拾ったのだろうか。一体誰のために。
 
 
「捨てはしないけど…」
「あ、そうだ。そのビデオも見ちゃいなよ。昼ごはん食べたら、ビデオルームに連れてってあげるからさ」
 
 
 閃いたようにパンッと両手を合わせて、真昼はビデオルームと垢抜けない単語を口に出した。この広い部屋に何処かにビデオデッキぐらい埋もれてるんじゃないかと健一が左右を見渡していれば、健一の思惑を見抜いたように、真昼は「テレビは脳味噌腐らせる」としたり声で言った。見透かされた事に、僅かむっとする。唇を尖らせて、反抗期の子供のように言い返す。
 
 
「別に見たくないし」
「そう言わないで見なよ」
「嫌だ」
「見なって」
「やだ!」
「五月蝿ぇ、あたしが見ろって言ってんだから黙って見ろ!」
 
 
 反抗期は迅速に終った、というよりも強制的に終らされた。真昼の威勢に圧倒されて、しょんぼりと肩を落とすと、真昼が笑いながら頭をぽんぽんと軽く叩いてきた。赤子を宥めるような仕草に、矢張り腹は立ったが、その掌の温かさを感じると、再び反抗する気にはなれなかった。
 
 
「別にさぁ、見てどうこうしろって言う訳じゃないのよ。ただ、何も知らずにいるよりも一つでも多く知った方が良いって思うの。あたしは」
 
 
 健一は「うん」と素直に頷いた。少なくとも、今真昼の言っている事は正しいと思った。吾妻の姿なんか見たくもないが、それでも見るべきなのかもしれない。知らないことから目を背けないために。
 
 健一はもう一度まじまじとビデオパッケージを眺めた。吾妻の名前の横には『投手』と書かれていた。あいつは投手なのか、とぼんやりと思う。
 
 触れた腕や肩の硬い感触を無意識に思い出そうとして、やっぱり気色悪くて思い出すのを止めた。
 
 
 
 
 
 
 昼飯は蕎麦だった。桜海老と野菜の掻揚げをグアッシャグアッシャと小気味の良い音を立てながら噛み砕き、蕎麦のつゆを胸元に飛ばす真昼からは、一切の女らしさは感じられなかった。掻揚げを眺めて、「海老って身体曲がってて不自由そうよね。いい加減学習して真っ直ぐな身体に進化すればいいのに」と漏らされた独り言からも、色気を感じることは出来なかった。
 
 それでも、その豪快な食いっぷりに呆れるぐらい食欲がそそられて、健一は久しぶりに腹一杯御飯を食べた。首輪の事を思い出して、食べたばかりのものを戻しそうになった時も、目の前の真昼を見ると吐き気を忘れることが出来た。
 
 健一は、自分は真昼に治癒されているのだろうかと思って、まじまじと真昼を眺めた。真昼は相変わらず蕎麦つゆをビチャビチャと至る所に飛ばしている。味を付けるためではなく、染みを付けるためにつゆがあるのではないかと勘違いするぐらいだった。
 
 そんな姿を見てでさえ、頬が熱くなるだなんて、自分は風邪でもひいているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 防音性らしき重厚な扉の前に辿り着くと、真昼は「じゃあね」と手を振った。一緒に見ないのかと問い掛けると、真昼は、野球に興味ないのと飄々とした声音で答えて、その場から去っていった。野球に興味がないなら、どうしてこんな物を持っていたんだ、と問い返そうとしたが、無粋かと思って聞くのを止めた。
 
 暫く真昼が消えていった方向をぼんやりと眺めて、それから部屋の中に入る。部屋の内は真っ暗で、手探りに電灯のスイッチを探して押す。明るくなった室内の左右には、いかにも高価そうな機械がずらりと並んでいる。扉の一直線上には、健一の背丈程ありそうなスクリーンがあった。
 
 ビデオテープが入りそうなデッキを探して、適当にテープを押し込む。再生と書かれたボタンを押せば、大した操作もなく直ぐにスクリーンに映像が映り始めた。
 
 画面いっぱいに現れた【E高等学校 真夏の激闘】という大袈裟なタイトルに微かな苦笑いを漏らす。
 
 選手達の行進、テンポの良いファンファーレ、選手宣誓、試合開始、その後は殆ど画面に齧り付くようにして観た。
 
 
 
 
 
 
 気付けば、夕方だった。
 
 ビデオを観た後の微かな充足感と気だるさに放心したまま部屋の外に出ると、周囲の景色は夕焼けに赤く染まっていた。
 
 無意識に見晴らしの良い縁側に座り込んで、ぼんやりと夕焼けを仰ぎ見る。何処からともなく夕餉の臭いが漂って来た。
 
 体内では甲子園の熱がじわじわと燻っていて、心臓が破裂しそうだった。腕の中のバットとグローブ、それにビデオテープを抱き締めて、興奮を抑えるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 
 そうして、あの投球フォームを思い出す。柔らかく撓るような筋肉の動き、踏み込まれた片足が強く地面をにじり付け、土煙があがる光景。高校三年生の吾妻は、当然のことながら今の吾妻よりも幼い顔立ちで、そして、活きた笑顔をしていた。バッターとキャッチャーを見据える眼差しはひたむきで純真で、今の濁った眼差しとは比べ物にならないほど輝いていた。チーム自体が類まれなる完成度を誇っていたが、その中でも吾妻の才能は際立っていた。
 
 甲子園での準々決勝、E高等学校にとっての負け試合だが、その試合のゲームセット後、チームメイト達が御互いの肩を叩き、泣いたり慰め合ったりしている中、映像の端に小さく、吾妻はぽつんと独り映っていた。マウンドに立ち竦み、天気でも確かめるように快晴の空をじっと見上げていた。全身に太陽の光を浴びながらも、帽子の影に覆われてその表情は見えなかった。
 
 その瞬間、健一は吾妻を『花』だと思った。
 
 最後の選手インタビューで、吾妻は『寂しいですけど、嬉しいです』と笑って答えていた。花びらを静かに閉じるような微笑みだった。
 
 
「健一?」
 
 
 思考が中断される。肩越しに背後を見遣れば、中腰になった吾妻が『此処で何をしているの』とでも言いたげな視線で此方を見詰めていた。
 
 黒色のスーツを身に纏った吾妻からは、野球男児の名残は一切感じられなかった。ただ、夕焼けが反射した眼球は、キラキラと輝いているようにも見える。
 
 その背後には、以前見た時と同じように壁のような大男が付き添うように立っていたが、健一が二度視線を向ける前にその姿を消していた。でかい図体なのに空気のような人間だ。
 
 視線が健一からその腕の中の物へと移ると、吾妻は驚愕と嫌悪に目を大きく開いた。
 
 
「どうして」
 
 
 責めるような嘆くような吾妻の口調に、健一は「あぁ」だとか「うん」だとか曖昧な相槌を二三度返して、それから言った。
 
 
「真昼に貰った。けど、これあんたの物らしいから、あんたが返せって言うなら返す」
「真昼」
 
 
 確認するように呟いて、吾妻は露骨に眉を顰めた。真昼に対するものか健一に対するものかは分からないが、その唇は微かな憎々しさに歪められていた。その顔を見て、健一はこれらを捨てたのは吾妻という事を漠然と理解した。理解した瞬間に、続く言葉が零れていた。
 
 
「何で野球やめたんだ?」
 
 
 プロにしろアマチュアにしろ、今の吾妻は野球を続けているようには見えなかった。どうして野球道具を捨ててしまったのか、どうして野球を捨ててしまったのか、好奇心というよりも純粋たる疑問だった。
 
 吾妻ははぐらかすように一度脆弱な笑みを浮かべて、笑みで誤魔化し切れない事を悟ったように吐息を吐き出した。
 
 それから、健一の隣に腰を下した。夕焼けに向かい合うように、二人で並んで座り込む。然程、気まずさも居心地の悪さも、嫌悪感すら感じなかったことに、健一は驚いた。
 
 
「やめたくなかったよ」
「なら、何で」
「高校三年生の時に、父さんと母さんが離婚したんだ」
 
 
 赤く染まった吾妻の横顔を眺めながら、健一は眉を顰めた。そんな過去の話は今関係ないだろうとばかりに、吾妻をねめつける。しかし、吾妻は曖昧に笑った後に構わず続けた。
 
 
「僕は丁度受験を前にしてたから、大学に進学して、何処かの野球チームに入ろうかなんて考えてたんだ。だけど、離婚が決まった時、父さんに言われたんだ。野球を取るか家族を取るか、って。野球を取るなら、お前はもう家族の一員じゃない。単なる他人だ、って」
 
 
 過去を回想するように吾妻の視線は宙に向けられていた。その唇には無意識にか、何処か寂しげな笑みが滲んでいる。過去の選択を思い出すように言葉が一瞬止まって、それから、吾妻は「僕は家族を選んだ」と一息に言った。それは空っぽの箱を振ったような、空虚な響きだった。
 
 
「僕は家族を失いたくなかった。だから、家族を選んで野球を捨てた。だけど――」
 
 
 もう失ってるも同然だね、と吾妻の言葉は続いた。吾妻はその事実を笑い事にしたがっているようだが、声から切実さは消せなかった。悲哀や寂寥が吾妻から滲み出て、息が詰る。
 
 健一は何も言えずに押し黙った。虚しそうに歪んだ、泣き笑うような吾妻の微笑みが何だか悲しくて堪らなかった。
 
 地面から熱気が噴き上がるような暑い夏の、あのひたむきな吾妻の眼差しを思い出す。捨てることは容易いだなんて、誰が言った言葉だろう。少なくとも目の前の男は容易く捨てられた訳じゃない。身体の一部を抉り取るようにして野球を捨てたのではないかと、健一は不意に思った。だからこそ、捨て去った筈の思い出を目の当たりにして、吾妻は寂しそうに笑うのだ。
 
 そうして、選んだ筈の家族も失っている。吾妻は家族に疎まれ、倦厭され続けている。
 
 吾妻は譫言のようにこう続けた。
 
 
「母さんにずっと言われ続けたんだ。あんたは此処の息子だ、って。だから、誰に否定されても、僕は家族の一員だって思い続けた。ずっと、家族だって信じてきたんだ。だけど、母さんは僕を置いて一人だけ逃げ出した。僕をこの家族に置き去りにして、一人だけ家族を放棄したんだ。だから、僕は母さんを家族だとは思っていない。――だけど、僕はこの家族を放棄したりしない。絶対に」
 
 
 呪詛のように「絶対に」と吾妻は何度も繰り返して、それから健一の腕に抱かれたバットやグローブを悲しそうに見詰めた。
 
 野球を捨て、失われつつある家族に未練がましく執着する悲しい男が隣に居た。夕日が赤く反射した吾妻の瞳は、泣いているようにも見えた。
 
 

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