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21 キャッチボール

 
 爽やかながら湿った熱気が空中を漂っていた。寝惚け眼に時計を見遣れば、まだ午前の五時だった。それでも、障子越しの景色は既にぼんやりと明るんでいる。
 
 二度寝しようかと寝返りを打ったところで、布団の脇に置いたバットとグローブが視界の端に入る。暫くそれらを上目にぼんやりと眺めて、それから健一は上半身を起こした。緩く欠伸を零して、両瞼をぐしぐしと拳で擦る。それでも、覚醒には程遠い。
 
 首輪の存在を思い出しても、不思議と今日は吐き気に身悶えるような事はなかった。首輪を指先で弄りながら、その理由を探るように昨日の記憶を思い返す。真樹夫の事、真昼の事、野球の事、吾妻の事、結局理由を特定する事は出来ず、健一は考えるのをやめた。
 
 グローブを掴んで、大した考えもなく庭へと向かう。生温い湿気が剥き出しの肩や素足に纏わり付いて、健一は微かに背筋を震わせた。流石にタンクトップと半パンでは拙いだろうかと一瞬考えたが、別に誰が見るという訳でもないだろうと思って、そのまま庭に下りた。
 
 底冷えした土の感触が素足に伝わってくる。朝一番の空気を腹一杯に吸い込んで、吐き出す。早朝独特の柔らかい静けさの中に立ち竦んで、もう一度欠伸を零した。
 
 吹き抜ける風が心地良い。仰ぎ見れば、灰色の空には雲ひとつ浮かんでいなかった。今日も晴れそうだ。
 
 足先に転がっている丸っこい石を拾う。大体掌の半分程度の大きさの石だ。グローブを嵌めて、戯れるように何度か頭上にぽんぽんと放り投げて、落ちてきたところをキャッチする。他愛もない遊びでも、健一には酷く楽しかった。
 
 毎日のように行っていた早朝練習を思い出す。毎朝七時にジョギングから始まり、肩慣らしのキャッチボール、それに山やんの怒鳴り声、伸樹とじゃれあって、茶化すような励ましの言葉を言い合って――
 
 この家に連れて来られて、まだ一ヶ月も経っていないのに、それらは酷く遠い思い出のように感じられた。
 
 そんな事を考えていたら、受け損なった石が軽く額にぶつかって地面に落ちた。「いだっ」と小さく呻いて、石の軌道を追うように振り返る。その瞬間、視線を向けた方向から柔らかい弧を描くように白い球体が落ちてきて、思わず健一はそれをキャッチしていた。
 
 グローブの中を見ると、硬式の野球ボールが収まっている。そうして、十メートル程度離れたところに吾妻が立っていた。Vネックシャツにジーンズというラフな出で立ちをした吾妻は、のんびりとした眼差しで健一を見詰めている。
 
 
「石でキャッチボールするのは、危ないよ」
 
 
 穏やかな声で諭すように言う吾妻と、グローブの中の明らかに新品ではないだろう微か泥茶けたボールを交互に眺める。健一は僅かな驚きを込めて呟いていた。
 
 
「捨ててなかったの?」
 
 
 バットやグローブは捨てたのにボールは捨てられなかったのか、と。問い掛けると、吾妻は一度唇を噤んだ後、答えに窮したような苦笑いを曖昧に浮かべた。はぐらかす様に視線を逸らす姿は、小学生が遅刻の言い訳を考えている姿のようだ。
 
 
「捨て忘れただけだよ」
 
 
 その言葉が本当か嘘かは健一に判断は出来なかった。暫く真意を探るようにじっと吾妻を見詰める。しかし、直ぐ『知ってどうする』という自問自答が苛立ちと共に胸に溢れた。吾妻がボールを故意に残しておこうが、そんな事はどうでもいいじゃないか。どうして、自分が吾妻の事なんかを気にしなくてはいけない。思えば、眉間に皺が寄った。
 
 視線を落として、手持ち無沙汰にグローブの中でボールを転がした。吾妻は此方に近付いてくる訳でもなければ、喋りかけてくる訳でもなく、ただ健一を眺めている。何て無意味な時間なんだろうか。腹立たしさに、ちらりと吾妻を見れば、吾妻は立ち竦んだまま、一瞬消え入るような笑みを滲ませた。健一が視線を向けてくれた事に安堵したような、頼りない笑みだった。
 
 その笑みを見た瞬間、吾妻に向かってボールを投げていた。それほど速度は出ていないが、ボールは弧を描くこともなく真っ直ぐ吾妻へと向かって飛んでいく。それを吾妻は片手でキャッチした。掌とボールがぶつかり合う鈍い音が聞こえて、それから、きょとんとした眼差しで健一を見詰める。
 
 驚きの心地で、健一は吾妻を凝視した。どうして、投げてしまったのだろうか。
 
 吾妻が再び弱弱しい笑みを浮かべて、ボールを投げ返してくる。条件反射でそれをキャッチして、そうして同じく条件反射で投げ返す。
 
 これじゃキャッチボールだ、と気付いたのはボールが三往復したところで、健一は吾妻なんかとキャッチボールをしているという事実に顔面を歪めた。不愉快で仕方ない。それでも、一旦始まったキャッチボールを自分から打ち切るのは妙に悔しくて、健一はボールを投げ返し続けた。それに、例え吾妻といえども、他人が投げ返してくれるボールの感触は堪らなく嬉しかった。
 
 不貞腐れた表情を浮かべる健一とは正反対に、吾妻は嬉しくて堪らないといった微笑みを頬に滲ませていた。吾妻の投げ返すボールは孤を描きながら、健一へと真っ直ぐに向かってくる。
 
 
「あのさ」
 
 
 不意に、吾妻が呟いた。まるで高校生のような話の切り出し方に、健一は少々面食らった。そのせいで、吾妻へと投げ返すボールの軌道が僅かにズレた。吾妻は、頭上を飛び越えようとするボールを軽くジャンプして受け取った。肩をしなやかに動かし、投げ返しながら言葉を続ける。
 
 
「前も、健一にこうやって投げ返したんだよ」
 
 
 言葉の意味が理解出来なくて、ボールをキャッチしたまま暫く吾妻を凝視する。それから、止まっているのも不自然かと思って、半ば意地になってボールを投げた。球速は強め、受け止めた吾妻の掌はバシンッと高い音を立てた。吾妻の片目が痛みに細められる。
 
 
「それって、あんた曰く、オレとあんたが前会ったときの話?」
「うん」
「ふーん」
 
 
 いかにも興味無さそうに振舞う。それでも、暫くすれば脳味噌が疼きだすのが分かった。好奇心というよりも、ひたすら理由が知りたかった。自分がこうなってしまった理由。こんな目に合わされる羽目になった原因を。だから、ボールを投げながら問い掛けた。
 
 
「それっていつ」
「六年前」
 
 
 よどみなく返された答えに目を剥く。「六年前って…」と譫言のように呟く自分の声が聞こえた。六年前といえば、健一がまだ六歳の時の事だ。十二年しか生きていない健一にとって、六年前とは途方もなく昔のことのように感じられた。
 
 
「オレが小学一年生のときじゃんか」
「そうだね、あの頃の健一はもっと小さかった」
「……前々から思ってたけど、あんたってショタコン?」
 
 
 ボールを振り被った体勢のまま、吾妻の動きがピタリと止まった。目を白黒させて、それから大きな笑い声を上げる。早朝にはちょっと迷惑なぐらいの高らかな笑い声だった。
 
 目尻に薄っすらと笑い涙を浮かべながら、吾妻はボールを投げ返して来た。
 
 
「そういう意識は無いけどなぁ。特別少年が好きって訳でもないよ。健一だから好きなんだ」
「…そういうこと言われると、背中がぞわわってなる」
 
 
 嫌そうな顔で正直な気持ちを言えば、吾妻は矢張り楽しそうに笑い声を上げた。邪気のない笑い声は余りにも吾妻と不釣合い過ぎて、目の前に居るのは吾妻の顔をした別人なんじゃないかとさえ思った。
 
 
「健一のそういう正直なところ好きだよ」
「…全然覚えてないけど、あんたとオレ、前にキャッチボールしたの? その時、オレのことすきになったの?」
 
 
 気詰まりする質問を投げ掛けてみる。吾妻は僅か悩むように視線を上空に浮かべた後、緩く首を傾げた。
 
 
「どうだろう。キャッチボールはしてないね。好きになったのは、その時かもしれないし、もっと後かもしれない。よく判らないんだ」
「すげぇ曖昧…」
「人を好きになる瞬間なんて、曖昧なものだよ」
 
 
 そう言って、吾妻は健一の投げたボールを胸元近くで受け止めた。その言葉を聞いた瞬間、不意に脳裏を真昼の顔が過ぎって、健一は狼狽した。何で、今真昼の顔が思い浮かぶんだ。
 
 暫く何の変哲もないキャッチボールが続いて、それから吾妻がぽつりと零した。
 
 
「初めは腹が立ったんだ」
「は?」
「人の気も知らずに、のうのうと河原で草野球なんかやってる馬鹿餓鬼共を殴り飛ばしてやろうかと思ったんだ」
「…おい」
「足元にボールが転がってきて、餓鬼が兄ちゃん投げてなんて能天気に叫ぶから、余計に腹が立って仕方なかった」
 
 
 どうやら吾妻の回想らしいが、口に出される言葉の数々は全国の野球少年に喧嘩を売っているとしか思えない。確かに野球を辞めてしまった吾妻にとって野球のヤの字すら辛いものだったかもしれない。しかし、だからといって野球を楽しんでいる少年達に八つ当たりをする権利はないだろう。健一は眉間に皺を寄せて、吾妻への不快感を露わにした。それに構わず、吾妻はボールを投げ返しながら淡々と続けた。
 
 
「だから、川に向かって投げたんだ。脳味噌足りない餓鬼共の頭を跳び越して、川に落ちてしまえばいいと思ったんだ」
 
 
 陰湿な台詞をぼやいて、吾妻はそこで一旦口を噤んだ。じっと健一を見詰めて、僅か困ったように眉をハの字にへし曲げた。
 
 
「それなのに、健一が取っちゃったんだ」
 
 
 あーあ、とでも言いたげな呆気ない言い方だった。不意に自分の名前が出てきたことに、健一は背筋と硬直させた。そして、頭を過ぎる嫌な予感に、健一はごくりと唾を嚥下した。
 
 
「まさか、その仕返しで、オレを攫ったわけじゃないよな」
 
 
 たかが野球のボールを取ったぐらいで、と途切れ途切れに問い掛ける。吾妻は「まさか」と呟いて、頬を緩めた。
 
 
「確かに腹は立ったけど、そんな事ぐらいで仕返ししたりしないよ」
「だったら、なん――」
「健一はさ」
 
 
 健一が言い終わる前に、畳み掛けるように吾妻が言葉を続ける。
 
 
「川に片足突っ込んでボールをキャッチしたんだ。それから、ありがとうって叫んだんだ。わざと僕が川に向かって投げたとも知らずにさ、ありがとうって、大きな声で。ボールを握った手を振り上げてさ」
 
 
 少し罪悪感もあったけど、何だか嬉しくって、と吾妻の言葉は続いた。バツが悪そうに、頬を緩く掻いている。身に覚えがなくて、健一は首を捻った。吾妻は首を傾げる健一を見て少し笑って、それからこう続けた。
 
 
「その瞬間に、キャッチしてくれた、って思ったんだ。この子なら僕を受け容れてくれるんじゃないかって思った。それから、気付いたら健一の事を考えてた。毎日何やってても、健一の顔が思い浮かぶんだ。ありがとうって声も、振り上げられた腕も、笑った顔も。それから急に思ったんだ。好きだって。僕はこの子を愛してるって―――そう思ったら、止まらなくなった」
 
 
 吾妻の言葉は何処か狂っていたし、破綻していた。その思い込みの激しさに、ぞっと背筋が粟立ちながらも、健一は吾妻の表情に困惑した。
 
 吾妻は幸せで堪らないというように微笑んでいる。クリスマスプレゼントを貰った子供のような、幸福感に満ち足りた笑顔だった。
健一は、ボールを握り締めたまま押し黙った。
 
 幾ら鮮明に語られた所で、そんな他愛もないことは記憶の片隅にすら残っていなかった。健一が何の思惟もなくやった事を、堪らなく幸福な事のように語る吾妻の気持ちが理解出来ない。
 
 
 ただボールをキャッチしただけじゃないか。ただありがとうと言っただけじゃないか。恋に落ちる要素なんか一つもない、何処にでもある有り触れた話だ。そんなのドラマにも映画にもならない普通の事じゃないか!
 
 
 そう叫びたいのに、言葉が咽喉に詰って出て来ない。『どうして、たったそれだけの事に…』と嘆くような自分の声が頭の中で響いた。それだけの理由で歪められた自分の人生が悲しいのではない。ボールをキャッチして貰った、たったそれだけの事で誘拐する程に健一を好きになってしまった吾妻の人生が惨めで仕方ない。
 
 惨めだ。哀れだ。何て下らない人生だ。ボールなんて誰にだってキャッチ出来る。ありがとうなんて誰からだって言って貰える。それなのに、それすら吾妻には稀有な事だったのか。誰にも受け容れて貰えず、ありがとうすら言って貰えない人生。父親から虐待され、兄妹からは疎まれ、母親には置いていかれ、野球すらも失って、何もない抜け殻のような吾妻の人生。
 
 それを思うと、健一の心臓は締め付けられた。吾妻の孤独が心臓の内側まで沁みてくるようだった。同情なんてしないと思っているのに、悲しかった。他意もなく行われた子供の行動に、吾妻は縋り付いたのだ。
 
 何て、哀れな、悲しい、魂。
 
 健一はボールを握り締めたまま思わずしゃがみ込んで、膝を抱えた。膝頭に額を押し当てて、目を閉じて小さく呻く。
 
 吾妻は最低な人間だ。それは間違いない。殴られ、犯され、家族を焼き殺されたことを容易く許せるはずがない。殺してやるという言葉に嘘偽りはない。
 
 それなのに、健一は吾妻を悲しいと思ってる。寂しいと思っている。抱き締めてやりたいとは思わないが、言葉を掛けてあげたいと思ってる。憎悪と悲哀がせめぎあって、自分の心の矛盾に押し潰されそうだ。
 
 
「どうしたの?」
 
 
 吾妻の声が聞こえる。「気分が悪いの?」と続けて問い掛けてくる声にも、近付いてくる足音にも、健一は顔を向けられなかった。何だか辛い。吾妻を憎むのも哀れむのも辛くって仕方ない。
 
 不意に、真昼の声が頭の中で蘇った。『目ぇ閉じんな』簡単に言うなよ。目閉じてる方がずっと楽なんだぞ。それを解って、お前は言ってんのか。思いながらも、脳裏の声に促されるように、視線は緩く上がっていった。
 
 見上げると、吾妻の心配そうな顔が見えた。あ、と思った。そうして、どうして自分が吾妻にボールを投げ返したのかが解った。吾妻はお父さんに似ている。頼りない表情や追従するような笑い方が瓜二つだ。
 
 そう思った瞬間、胸の内側に温かいものが不意に溢れてきた。吾妻と父親は別人なのに、それでも懐かしさと愛しさに心臓が潰れそうだった。
 
 泣き出しそうに顔を歪めた健一を見て、吾妻が「大丈夫?」と驚きの声を掛けてくる。その声に返す言葉も思い付かず、健一は吾妻の胸元に握り締めたボールを押し付けた。吾妻は不思議そうに瞬いた後、ゆっくりと頬を緩めて、愛しそうにボールを掌に包み込んだ。
 
 灰色の空が淡い青に変わりつつあった。
 
 

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