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22 お父さんみたい

 
 毎朝の習慣が一つ増えて、一つ減った。
 
 一つは、毎朝、吾妻とキャッチボールするようになったこと。どちらがやろうと言ったわけでもないのに、不思議なほどそれはあっさりと日常に定着した。
 
 毎朝起きると、吾妻がグローブ片手に縁側に座っている。きっと来るかどうかも判らない自分を待っているのだろうと思うと、その背を見詰めたまま一瞬動けなくなる。切ない背中だ。その背を裏切って踏み躙ることは容易くても、胸の痛みがそれを由とはしなかった。だから、結局健一はグローブを片手に庭に出てしまう。
 
 毎朝吾妻は、健一が出てきてくれた事に、ほっとした笑顔を浮かべる。キャッチボールをしている時の吾妻は、酷く穏やかな顔をしている。その顔は、嫌いではない。
 
 もう一つは、毎朝吐かなくなった事だ。悪夢は薄れて、目覚めは然程悪くない。首輪の事を思い出せば憂鬱にもなるが、以前よりかは不快感を覚えなくなった。それは、吾妻に対しても同様で、好きとは言い難いが、それでも殺してやりたいとは一概に思えなくなっている。
 
 この生活に適応し始めている自分を感じて、健一は時々怖気立つ。その度に、焼き殺された家族の顔を思い出そうとする。もう一度吾妻に対する憎悪や殺意を煮え滾らせて、復讐の塊になってやろうとする。
 
 それなのに、家族の顔を上手く思い出せなくなっている。輪郭がぼやけて、目鼻立ちが霧がかったように見えなくなりつつある。
まだ一ヶ月も経っていないのに。涙が一滴も出てこないことが何だか悲しかった。
 
 
 
 
 
 
 数日後、真昼がやってきた。
 
 夜の二十一時過ぎ、何の断りもなく障子を開いた真昼は、有無を言わせぬ口調でこう言った。
 
 
「真澄兄、わんこ借りてもいいでしょ」
 
 
 吾妻も健一も思わず固まって、まじまじと真昼を見返した。片手を腰に当てた真昼は、顎先をつんと上げて、微かな威圧を放っていた。とっくに寝巻きに着替えて、寝る体勢を取っていた健一は、真昼の一言に戸惑った。その傍らに正座していた吾妻も同様、困惑の眼差しで真昼を見詰めている。
 
 
「わんこ?」
 
 
 戸惑いを含んだ声音で、吾妻が問い掛ける。真昼は、拗ねたように唇を尖らせながら、顎で健一を示した。
 
 
「わんこよわんこ、真澄兄の子犬ちゃん」
 
 
 そこまで言えば、吾妻も合点がいったように「あぁ」と小さく相槌を打った。しかし、その表情は納得したものではない。僅かに苦渋じみた色を浮かべて、吾妻は健一を見詰めていた。言外に『貸したくない』とでも言いたげな、不安そうな眼差しだった。
 
 
「ねぇ、借りてもいいでしょ?」
「どういう理由で?」
「単にわんこと御飯食べに行きたいだけよ」
「こんな時間に?」
「こんな時間に。悪い? ていうか、こういう詰問みたいなことやめて」
 
 
 不快そうに呟いて、真昼が鼻梁に皺を寄せる。目元に逡巡を滲ませた吾妻は、その真意を疑うように真昼を見詰めた。真昼は目を逸らさない。
 
 暫くして、吾妻は皮肉げな笑みを口角に浮かべた。
 
 
「真昼は、随分と健一が気に入ったみたいだね」
「そうよ。だって、犬みたいで可愛いじゃない」
「本当に犬だと思ってる?」
 
 
 粘つくような問い掛けと疑心暗鬼の瞳。真昼は意表をつかれたように片頬を引き攣らせた。目尻が細かく痙攣している。
 
 
「何? 何が言いたいわけ?」
 
 
 硬い声に、吾妻は返事を返さなかった。健一へと視線を移して、淡々と問い掛ける。
 
 
「健一は? どうする? 行きたい?」
 
 
 平坦な声の底で、吾妻が『行くな』と言っているような気がした。健一は唇をヘの字に歪めて、吾妻と真昼を交互に眺めた。
そうして、僅かな躊躇いの後、「行く」とぽつりと呟いた。吾妻と真昼だったら、選ぶのは当然真昼だ。吾妻に対する多少の同情はあっても、自分は吾妻を好きなわけではない。許したわけではない。
 
 言い訳のように脳内でそんな言葉を漏らして、二人へと視線を移せば、二人は両極端な表情をしていた。真昼はにこにこと満面の笑みを浮かべている。反対に吾妻は、これでもかと言う程に無表情だ。吾妻は別段反対するわけでもなく、「そう」と興味がなさそうな声を一言漏らした。
 
 
「おっし、じゃあ、行こうか」
「着替えるから、ちょっと待って」
 
 
 急かすように言う真昼を制すれば、真昼は露骨にむっと表情を曇らせた。健一の腕を掴んで、強引に引っ張る。
 
 
「別にパジャマのままでいいって。そんな遠くまで行く訳じゃないんだから」
 
 
「でも」と渋る健一を引っ張って、布団から引き摺り出すと、真昼はそのまま乱暴な足取りで部屋から出て行こうとする。真昼の足取りに、足が縺れそうだ。
 
 その時、背後から「健一」と声がかかった。肩越しに振り返れば、吾妻が弱弱しい笑みを滲ませて立っていた。
 
 そのまま「風邪ひくといけないから」と言い訳のように呟きながら、健一の肩に白いケープをふわりと掛ける。柔らかい布の感触に包まれて、健一は一瞬言葉に詰った。数秒後、「こんなんいいよ…」と呟く自分の掠れた声を聞いた。優しくしなくて良いよ。優しくしないで欲しい。
 
 
「真澄兄って、わんこのお父さんみたい」
「お父さんじゃないさ」
 
 
 真昼の軽口に底冷えした声を返して、吾妻は再び凍りついたような無表情に戻った。ケープから手が離れる瞬間、吾妻の掌が健一の頬を掠めるように触れた。未練がましくしがみ付いてくる様な掌に、健一は堪らない切なさを覚えた。唇を噛み締める。吾妻は小さな声で漏らした。
 
 
「早く帰って来るんだよ」
 
 
 真昼がもう一度「やっぱりお父さんだ」と言って笑った。健一は、笑えなかった。
 
 

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