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24 恋心

 
 唐突に零された一言に、呼吸が止まった。箸から肉が零れ落ちたのにも気付かないぐらい、思考がさぁっと流れて、頭が真っ白になった。
 
 逃げる? 逃げる? 逃げたい。吾妻やあの歪んだ家から逃げ出したい。一秒だって、あんな家に居たくない。一瞬だって、吾妻に触れられたくない。話しかけられたくない。見られたくない。その存在を感じたくない。吾妻から逃げられるんだったら、何でもする。四肢が引き千切られて、目玉を刳り貫かれたって構わない。吾妻に同情したって、魂に刻まれた憎悪は消え去る事はない。受けた酷い仕打ちを忘れることは出来やしない。
 
 脳裏で幾多の言葉を反芻しながら、健一は無意識に頷いていた。首からギギッと錆び付いた音がしそうな程、ぎこちない動きで頷く。唇が「逃げたい」と呟いていた。脳味噌の芯にじんと響き渡るような、切実な訴え。唇が小さく震えた。
 
 真昼は、健一の切実さを理解したかのように大きく頷いた。
 
 
「じゃあ、逃がしてあげる」
 
 
 一瞬、真昼が何を言ったのか解らなかった。誰も言ってくれなかった一言が唐突に呆気なく与えられた事に、健一は混乱した。大きく見開いた瞳が、信じられないものでも見るように真昼を凝視する。
 
 
「そんなの…できるわけない」
 
 
 唐突な真昼の申し出に歓喜するよりも先に、恐怖が身体を支配した。確かに逃げ出したいはずなのに、その底には紛れもない恐怖があった。
 
 
 逃げたいのに、怖い。恐ろしい。逃げて、もし捕まったら、吾妻に何をされるか解らない。殴られる蹴られるどころじゃない。きっと執拗な程に甚振られ、嬲り殺される。
 
 
 それでも、自分だけが殺されるなら、きっとまだマシな方だ。それだけじゃなくて、伸樹まで殺される。伸樹の褐色の肌、そばかすのある顔、それらが吾妻の手によって焼かれ、ただの炭にされていく様子を想像する。皮膚が焦げ、肉が溶け、血色の煙を立ち昇らせる伸樹の身体。
 
 皮膚が粟立って、吐き気が込み上げて来る。嫌だ、嫌だ、伸樹が殺されるなんて絶対に嫌だ。だって、友達だ。親友だ。死んで欲しくない。
 
 懊悩する健一を見詰めて、真昼は一度大きく鼻から息を吐き出した。
 
 
「出来るわ。わんこがもし本当に逃げたいと思ってるなら、逃がしてあげられる」
 
 
 真昼は断言した。一直線に健一の眼球を見据える眼差しは、力を孕んで揺るがない。その瞳には、嘘や虚構の影は一切感じられなかった。真昼はきっと本気だ。その事に、健一はうろたえ、困惑した。どうして、そんな風に言い切れるんだ。
 
 
「――どう、して、どうやって」
 
 
 引き攣る咽喉を必死で動かして、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。どうして、逃がしてくれるのか。どうやったら逃げられるのか。問い掛ける。
 
 真昼は、一度左右を窺うように見渡して、それから、抑えた声量で言い始めた。
 
 
「うちの組はね、そろそろ消えるの」
 
 
 言っている意味が分からず、健一は小さく首を傾いだ。真昼は僅かに目を伏せて、苦渋じみた形に口角を歪めていた。
 
 
「ジジィが死んだら、うちの組は消えるの。全部終っちゃう」
「どういう、こと?」
「そのままよ。ジジィの遺言状に書いてあったの。自分が死んだら、組を取り壊して、財産も全部何処ぞと知らないボランティア団体に寄付するようにって。最期の最期に善行をして、天国に行きたいんだって。天国で一人幸せになりたいんだって。…巫山戯てやがる。そんな事したぐらいで、今までの胸糞悪ィ人生がチャラになるわけねぇのに」
 
 
 真昼の口調が歪む。明朗さが消えて、発せられるのは憎悪を孕んだ、轟く様な低い声だった。
 
 
「遺言状、見たのか?」
「ジジィが見せてくれたんだよ。あたしの太腿触りながら、金庫開けてさぁ。百万やるから、シャブれって言ったんだ。あのジジィ、実の娘に……」
 
 
 そこで、一旦真昼の声が止まった。実の父親に対する失望や悲哀を噛み締めて、無理矢理飲み込もうとしているようだった。薄い頬肉越しに、奥歯が固く噛み締められているのが分かる。そうして、真昼は大きく息を吐き出して続けた。
 
 
「百万出したときに見えたの。金庫の中に遺言状が入ってるの。それ見せてって言ったら、あのボケジジィ、簡単に見せてくれたわ。あの頭、もう駄目ね。もう救いようがない。――それで、組を取り壊すって遺言状に書いてるのを読んだの。あのジジィが死んだら、あたしも真澄兄も金も家もなくなる。ぜーんぶ、消えちゃうってわけ」
 
 
 軽快にそう言い切って、真昼は片頬を歪めて、引き攣った笑みを浮かべた。どうしたら良いか分からなくなって、とりあえず笑ってみたような途方に暮れた笑みだった。そうして、頬肉を二三度痙攣させた後、掠れた声で「だから…」と呟いた。
 
 
「だから、わんこ、あたしと一緒にどっか遠いとこに行こうよ」
 
 
 助けを求めるべきは健一のはずなのに、まるで真昼の方が縋り付いているような頼りない声音だった。真昼は、先ほどの掠れた声を打ち払うように、ははっと小さく笑い声を零した。
 
 
「どうせ、権力も金もあのジジィがあの世にゼーンブ持って行っちゃうんだからさぁ、あたしもわんこも自由になれるってことよ。うちの組が崩壊しちゃえば、真澄兄もあんたを探すだけの余裕もないっしょ。誰か盾にして脅されるとしても、組がなくなった真澄兄にはもう何にも出来ないからさ、大丈夫だよ。ねぇ、だから、あたしと逃げちゃおうよ」
 
 
 無理矢理、明るく振舞っているような真昼の笑い声が聞こえる。健一には、その笑い声が無性に痛々しかった。強い哀しみを真昼から感じ取って、健一は逃げられるかもしれないという事実に対して笑顔一つ浮かべることが出来なかった。
 
 眉尻を下げて、真昼を見詰める。真昼は唇を笑みの形のまま止めて、そのまま健一を見詰め返した。唇を引き攣らせて押し黙る。鉄板が焼けるジリジリという音だけが暫く響いた。不意に、搾り出されたような、震えた声が聞こえた。
 
 
「畜生、最期の最期まで…」
 
 
 その一言に、家族に対する悲哀全てが凝縮されていた。最期まで家族を家族と見なさなかった父親。最期まで分り合えなかった兄妹。そうして、バラバラになる家族。
 
 以前、真昼が言っていた言葉を思い出す。
 
 
『いっそ切れたら楽なのに。ずるずる引き摺るみたいで、時々苦しくて仕方ないの。それか、優しくなれたらいいのに』
 
 
 家族という鎖が切れたら楽だと真昼は言っていた。だが、いざ切れる時になって真昼は哀しみを感じている。真昼にとって、どれだけ憎んでも疎んじても家族は家族なのだ。その家族を繋ぎとめていた組という存在が消え去る。健一の家族は死によって崩壊したが、真昼の家族は生きながら崩壊する。それは時として死よりも辛いものなのかもしれない。
 
 テーブルの上に置かれた真昼の拳が小刻みに震えているのが見える。健一は手を伸ばして、その拳をゆっくりと握り締めた。柔らかく包み込んで、その震えを感じる。真昼の悲哀が掌を通して伝わってくるようだった。
 
 
「あたし、真澄兄のこと嫌いじゃないのよ。真澄兄から、あんた奪いたいわけじゃないの。真澄兄を悲しませたいわけじゃない。あたしに、真澄兄からあんたを奪う権利なんてない…ないけど…」
 
 
 俯いたまま、真昼が言い訳のように言葉を紡ぐ。一言一言を噛み締めるような口調だった。健一は小さく「うん」と相槌を返した。
 
 
「だけど、あんたがあたしの事『優しい』なんて言うから…そんなん、見捨てらんないじゃんかぁ…」
 
 
 泣き出しそうな声で言って、真昼は、自分の拳の上に重なった健一の掌を、もう片方の掌で強く握り締めた。兄に対する裏切りと知りながら、健一を見捨てないとその掌が訴えていた。
 
 その瞬間、不意に胸に熱いものが込み上げてきて、健一は咽喉を大きく上下させた。幾多の同情の眼差しが脳裏に蘇る。同情するだけで何もしてくれない無数の瞳。だけど、真昼は自分を見捨てない。決して見捨てない。確信にも似た感情に支配されて、涙が溢れそうになった。
 
 
「ありがとう」
 
 
 小さく震えながらも、確りとした声で言う。
 
 ありがとう、真昼ありがとう、見捨てないでくれてありがとう。俺の存在を認めてくれてありがとう。
 
 自分には、もう帰る場所も居場所もないと思っていた。だけど、今は違う。真昼が俺の居場所で、俺の存在価値になってくれる。
ありがとう。思いを込めて、唇に言葉を乗せる。
 
 途端、真昼は顔をくしゃりと歪めた。肩を震わせて、消え入るような声で「ごめんなさい」と囁いた。きっとそれは自分の兄に向けたものだろう。そうして、唐突にテーブルに突っ伏して、わぁわぁと子供のように泣き出した。
 
 
 
 
 
 
 小さな車体が真夜中の道路をすいすいと泳いでいく。窓の外へと視線を向ければ、けばけばしいネオンが煌きながら後方へと流れていくのが見えた。タクシーの後部座席に、健一と真昼は並んで座っていた。真昼の小さな頭は、健一の細い肩の上に乗せられている。
窓から真昼へと視線を移せば、目尻を赤く染めた真昼の瞳が見えた。何処か虚ろな眼差しをしている。その眼差しを見た瞬間、健一は何も言えなくなった。言葉を発する事が憚られる。慰めの言葉も笑い飛ばしてしまう事も、今の真昼は必要としていない気がした。
長い沈黙の後、譫言のように真昼が言葉を零した。
 
 
「ねぇ、ジジィが死んだらさ、オアフ島にモアイ観に行こうよ」
「…モアイはイースター島な気がする」
「うっさいわね、あたしがオアフって言ったら、オアフなのよ」
 
 
 悲しみを吹き飛ばすように、真昼は乱暴な口調で言い返して来た。肩に乗せた頭を上下に動かして、健一の頬に軽く頭突きをしてくる。
 
 支離滅裂で荒唐無稽な真昼の言葉に、頭突きをされながら健一は大袈裟に溜息を付いた。
 
 オアフ島にモアイだなんて、聞いたこともない。しかし――想像する。真昼と一緒にオアフ島でモアイを探す未来――悪くない。悪くない未来だ。
 
 そう思って、小さく笑いを零した。途端、真昼が健一の顔を覗き込んで、まじまじと見詰める。それから、唇の両端を軽く吊り上げて、意外そうに「へぇ」と呟いた。
 
 
「わんこが笑ったの、初めて見た」
 
 
 はっとした。確かに最近笑った記憶はない。笑ったという確かな覚えがあるのは、関東大会で優勝して伸樹と一緒に帰っていた時のことだ。あれから、自分は笑った事があっただろうか。思案して、健一は笑顔を忘れていた自分に気付く。片手で自らの頬を触って、頬の筋肉が弛緩している事を確かめる。ずっと奥歯を噛み締めていたから、笑い方すら忘れていた。
 
 
「あたし、笑ってるわんこ好きよ」
 
 
 また、好きって言葉だ。連動するように心臓が高鳴って、言いようのない歓喜が血流のように全身を巡る。そうして、不意に気付く。
 
 
 好き。うん、好きだ。誰を。真昼を。真昼が好きだ。吾妻ではなく、自分は真昼が好きで堪らない。
 
 
 幾ら吾妻に愛を語られたところで、これから吾妻を好きになることは決してない。だって、自分は真昼が好きなのだから。盲目的に健一を愛する吾妻に対して、僅かな罪悪感はあった。同情もあった。しかし、だからといって自分の恋心を捨てるほど、健一は吾妻に対して優しくはなれなかった。自分自身の恋心に浮かれて、吾妻の事を真剣に考えるだけの余裕もなかった。口元が綻んで、健一は真昼が好きだと改めて思った。
 
 真昼は表情を曇らせ、微かに声を落として不意に言った。
 
 
「いつか、真澄兄を許してあげてね」
 
 
 健一は口を閉ざした。本気か?とでも言いたげに、まじまじと真昼の瞳を見据える。許す、だなんて、そんな事は出来る訳がない。家族を殺された恨みは、健一の心臓に根強く刻まれている。吾妻に対する殺意が薄れたとはいえ、それは許しとは関係がない。例えいつか吾妻に対する殺意がゼロになったとしても、許すことは一生無い。そういうものだろう。
 
 真昼は視線を落として、言い辛そうに言葉を澱ませた。
 
 
「真澄兄は確かに最悪なやつかもしれないけど、真澄兄が――さびしい人になっちゃったのは、あたし達のせいでもあるんだもの。だから…」
「だから、許せって言うの?」
「そう。いつか」
 
 
 微かな苛立ちがあった。許せないものを許せと言われるのは、心苦しくて腹立たしい。しかし、肩に乗っている重みを感じると、苛立ちが和らいだ。
 
 健一は「いつか」と意味もなく反芻して、吾妻を許す未来を想像してみた。想像は形になる前にぐにゃりと崩れて、闇に呑まれる。許すという選択肢は、健一の頭の中には欠片も存在しなかった。だが、それも『いつか』形になって、口にすることが出来るのだろうか。
 
 

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