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25 許してとは言わない

 
 ネオンの街から閑静な住宅街に戻ってきた瞬間、健一は溜息を漏らしていた。結局此処に帰って来るのかと思うと、酷くうんざりした心地に陥る。
 
 吾妻はもう眠っているだろうか。屋敷を出てから、もう三時間以上経っている。そろそろ日付変更線を超えて、次の日になろうという時間帯だ。
 
 屋敷に到着しても、タクシーの後部座席に座ったまま真昼は動かない。だから、健一も動かない。真昼は暫くぼんやりと窓の外へと視線をやって、それから、健一の耳元へと、溺れるようなぎこちなさで唇を寄せた。
 
 
「ねぇ、何だかドキドキしない?」
 
 
 ぎこちない動きとは裏腹に、砂糖菓子が耳朶の上をコロコロと転がっていくような甘やかな声だった。小さく笑い声をたてる真昼の息が耳の穴を擽る。
 
 真昼が言っているドキドキは、どういうドキドキなのだろうか。家から逃げ出すことか、それとも健一と一緒にいるからドキドキしているのか。自惚れでも良いから後者だと思いたかった。
 
 しかし、健一の言葉を待たずに、真昼は軽やかな動きで車から降りると、屋敷へと入っていった。屋敷の入口近くで振り返り、「わんこっ」と健一を呼ぶ姿でさえ、夢か幻のように見えた。
 
 タクシーを降りてからの真昼は、先ほどとは打って変わって陽気だった。何を言ってるか定かではない早口で、真昼はガツガツと飢えたように喋り続ける。まるで喋り続けていないと息ができないとでも言いたげな喋り方だった。
 
 内容は好きな食べ物に学校の宿題の話、駅の階段から落ちたのにも関わらず軽症ですんだ友達の話等、幼稚園児のおもちゃ箱のようにゴチャゴチャしていた。
 
 そうしている時、庭を挟んだ向かい側の廊下に真夜の姿を見た。暗闇の中に、黒ワンピースの少女の姿が薄ぼんやりと浮かび上がっている。ふらふらと蛇行しながら歩く真夜の姿は、丸っきり幽霊だ。
 
 
「気味が悪い」
 
 
 真夜を凝視している健一に気づいた真昼は、足取りを止めて酷く嫌そうな声で呟いた。
 
 
「真夜が?」
「そうよ、当たり前じゃない」
 
 
 当たり前のことを何故聞き返すのか、とばかりに忌々しげに言う。
 
 真昼は無意識に親指の爪を噛んでいた。それが真夜と同じ癖だということを忘れているのだろう。ガリガリと二三度爪を噛み締めて、押し殺した声で吐き捨てる。
 
 
「転んで頭でも打っちゃえばいいのに」
 
 
 他愛もない言葉だが、微かな陰湿さを滲ませている。
 
 
「頭打ったら、痛いじゃないか」
「そうよ、だから転んじゃえばいいのよ。そうしたら、少しはまともになるかもしれないじゃない。真夜は異常よ」
「異常?」
「度を越えた愛情は異常よ」
 
 
 言ってから、真昼ははっとしたように健一を見た。きっと真昼は、真夜のことを言いながら、自分の兄を思い出したのだろう。健一へと度を越えた愛情を向ける異常な兄のことを。
 
 真昼の顔が僅かに憐憫の情を滲ませるのを見て、健一は小さく首を振った。何に対して首を振ったのかは解らない。ただ、諦念にも似た心地が胸に染みていった。
 
 真夜へと視線を戻した瞬間、健一は不意に気が付いた。
 
 真夜は笑っている。赤い唇がぐにゃりと弓なりに彎曲している。足取りは覚束無いが、その細い指先は空中を踊るように舞っている。
 
 蛇のようにしなやかな真夜の関節の蠢きを見た瞬間、皮膚が一瞬で総毛立った。言葉で説明出来ないけれども、何故だかおぞましい。何か恐ろしい罪のかたちが真夜に宿ったように思える。
 
 
「――何だか嬉しそう。真夜が嬉しそうなときは大抵ロクなことにならないのよ」
 
 
 吐き捨てるように言って、真昼は真夜とは反対方向にすっと歩き出した。自分の片割れを切り捨てるような足取りだった。
 
 その後を追いかけながら肩越しに振り返れば、真夜の姿が闇に呑まれるところだった。じわりと真夜の鶏がらのような身体が闇に溶けていく様を見詰めて、健一は「気味が悪い」と真昼と同じ言葉を呟いていた。
 
 
 
 
 
 
 相変わらずゴミ溜めとしか思えない部屋の前で、真昼とは別れた。健一の耳元に「遺言状が読まれた日の夜、あたしの部屋に来て」と、酷く聞き取りにくい小声で呟くと、そのまま「おやすみ」の一言もなく、真昼は逃げるように扉を閉めた。
 
 健一は呆気ない気持ちで、閉められた扉を眺めた。一世一代をかけた逃亡劇の計画が、こんなにも簡単な一言で締め括られて良いものなのかと拍子抜けした心地だった。というよりも、結局自分に出来ることは何もないんだなという拗ねた気持ちになった。
 
 真昼にとって、健一はあくまで逃亡のオマケでしかないのだ。だから、逃亡計画の相談をする必要もないし、細部まで話し合う必要もない。そう思うと、不貞腐れたように唇が尖った。
 
 真夜中だというのに、蝉の声がジリジリと燻るように背骨へと響いてくる。鳴声の出所を探るように、視線を闇に這わせても、そこにはぽっかりとした黒があるだけだ。
 
 心細さがゆっくりと心臓を締め付けてくる感覚に、息が詰まりそうになる。追い立てられるように、その場から立ち去って、離れへと向かう。
 
 だが、離れへと戻った途端、健一は息を呑んだ。心細さではなく、驚愕に。離れの縁側に、吾妻が座っていた。
 
 
「あ」
 
 
 唖然とした声が勝手に零れる。それなのに、吾妻が健一に気付く様子はない。凍りついたように身体はピクリとも動かず、ただひたすら庭の暗闇を凝視している。
 
 闇を見詰める眼球からは光沢が失われ、まるで底の見えない穴のようだ。ぐんにゃりと猫背になった背中からは、悲しみやら絶望やら汚物やらをごちゃ混ぜにして煮詰めたような暗いオーラが放たれているようにも見える。
 
 健一はゆっくりと唾を飲み込んだ。話しかけたくない。触れたくない。全て見なかったことにして、眠りこけてしまいたい。
 
 足音を立てないように、慎重な足運びで部屋へと進む。吾妻の背後を通ったが、それでも、吾妻は視線を闇から外さない。まるで闇に囚われてしまったようだ。
 
 ぞっとする。暗闇で蠢く真夜の腕、暗闇から逸らされない吾妻の瞳、どちらもおぞましい。
 
 吾妻の後ろを通り過ぎた後は、走って部屋へと駆け込んだ。ドタドタと鈍い足音が響いたが、もう気に留めなかった。案の定、障子の影から吾妻を覗き見ても、吾妻は魂を抜かれたように身動ぎ一つしていない。健一はほっと息をついて、身体から力を抜いた。
 
 途端、強張っていた肩からするりとストールが床に落ちた。健一は、それを泣き出しそうな気持ちで見詰めた。思い出さなければ良かったのに、嫌なことを思い出してしまった。
 
『早く帰って来るんだよ』と縋り付く様に呟かれた吾妻の声。掛けられた真っ白なストール。思い出すと、ぐらりと頭が痛くなった気がした。
 
 見なかったフリをするのは容易い。目を瞑れば良いだけのことだ。だけど、心は瞑れない。胸に感じた小さな痛みは消えない。迷子の子供を置き去りにするような罪悪感に襲われながら、健一は奥歯を噛み締めた。
 
 そうして、結局は一歩を踏み出してしまうのだ。布団に潜って、思う存分惰眠を貪れば良いと知りながら、吾妻のもとへと近付いてしまうのだ。
 
 どうして自分は理性とは反対の行動を取ってしまうのかと、健一は胸中で悶えた。悶えながら、吾妻の肩にゆっくりとストールを掛けた。
 
 
「――肉の匂いがする」
 
 
 視線は動かさぬまま、吾妻の唇だけが操り人形のように動いた。
 
 
「そりゃそうだ。焼肉食いに行ったんだから」
「美味しかった?」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
「真昼と一緒だったから?」
「…そういう言い方、やめろよ」
 
 
 不意に細い針で心臓をつつかれた気がした。込み上げた不快感に、健一は眉根を寄せた。吾妻の嫉妬の炎が、さり気なく皮膚を炙ってきている気がする。吾妻はゆっくりとした動作でストールに顔を埋めた。
 
 
「じゃあ、どう言えばいいのさ。僕より真昼と一緒にいる時の方が健一は楽しいものね。良かったね。とでも言えばいいの?」
 
 
 口調はやんわりとしているが、所々に隠し切れない棘が見える。吾妻の苛立ちが空気を通してチリチリと伝わってくる。嫌味ったらしい吾妻の言い様に、健一は腹の底からじわりと憤怒こみ上げてくるのが判った。
 
 
「大人のくせに、ガキみたいなこと言うなよ」
「大人もガキも関係ないよ。健一は僕より真昼の方が好きなんでしょう?」
「だから…」
「好きなんでしょう?」
「黙れよ」
「好きなら好きだって言えばいいじゃないか」
「何でそんなことお前に言わなきゃなんねぇんだよ!」
 
 
 執拗な吾妻の言葉に、一瞬目の前が真っ赤に染まって、憤怒が弾けた。殴り飛ばそうと咄嗟に振り上げてしまった手を、吾妻が掴み取る。手首にやんわりと吾妻の指が食い込んでいる。真綿で首を縊られているような感覚だ。
 
 怒りのあまりに身体がぶるぶると震えていた。健一を見上げる吾妻の目に感情はない。ガラス球のような虚ろな眼球が、じっと健一を見詰めていた。
 
 
「けんいち」
 
 
 健一を呼ぶ、奇妙なほど幼い吾妻の声音にすら怒りがこみ上げてくる。奥歯を噛み締めても、堪え切れない。
 
 もう片方の手を振り上げて、吾妻の頬を思いっ切り張り飛ばす。硬い頬骨に掌がぶつかる音が鈍く響き渡る。
 
 今度は吾妻は止めなかった。素直に小さな手に頬を張られて、頬を赤く腫らした。それでも、親を見上げるような従順な眼差しで健一を見ている。
 
 
「けんいち」
「五月蝿い」
 
 
 赤子に退化したような吾妻の様子に、怖気が走る。鈍く痺れる掌が吾妻を殴ったという事実を思い返させて、肝が冷える。
 
 少しずつ赤が濃くなっていく吾妻の頬を見詰めて、健一は恐怖を押し殺すように下唇を噛んだ。
 
 
「俺が、誰をすきで、誰をすきじゃないかなんて、お前には関係ない」
「僕は健一が好きだ」
 震えた。息を飲んだ。足先から這い上がってくるような、言いようのない寒気が走った。
「そんなん、…知らない」
「好きだ」
「知らない」
「健一が好きなんだ」
「いやだ、言うな」
「愛してるんだ」
「やめろよ!」
 
 
 最後は金切り声で喚いていた。盲目的に愛を紡ぐ吾妻が恐ろしかった。吾妻の愛情が余りにも重たくて、潰されそうだった。膝頭から力が抜けて、へたり込む。
 
 
「それでも、健一、愛してるんだ」
「やめてくれよ…、オレは、もうやめたい…」
 
 
 掠れた自分の声は、まるで泣いているようにも聞こえた。反対に吾妻はどこまでも事実を語るような淡々とした声音だ。
 
 掴まれた手首が次第に強い力で縊られていく感触に、鳥肌が立つ。
 
 
「やめたいって僕も思ったよ。どうして、自分を愛してくれないと解っている子供を愛し続けなくちゃいけない。どうして、こんな何処にでもいる子供に心臓を掻き乱されなくちゃいけない。自分の妹に嫉妬までして、情けない。下らない。馬鹿馬鹿しい。やめれるものなら、やめてしまいたい」
「なら、やめろよ。今直ぐ、オレのこと嫌いになって、家の外に放り出しちまえよ」
「やめれない。それでも、愛してる。どうしても、どうやっても、悲しいくらい、愛してる」
 
 
 心臓の隙間に捻り入ってくるような執拗さで、吾妻は繰り返す。吾妻の瞳は真っ直ぐ健一を見据えている。
 
 
「愛してるのに、悲しいのか?」
「愛してるから悲しいんだよ。愛さなければ良かったと後悔するぐらいに」
「オレは愛してない」
「解ってる」
「オレは愛せない」
「解ってる」
「オレは愛せない。どうしても、どうやっても愛せない。お前の気持ちには、一生応えれない」
「わかってる」
 
 
 たどたどしく頷く吾妻の仕草に、健一は泣きそうになった。余りにも痛々しかった。どうして、こんなにも報われない。吾妻も自分も、余りにも切ない。愛という言葉に囚われているのは健一だけでなく吾妻もだ。
 
 
「お前、一生悲しいままじゃないか」
 
 
 呻くように漏らすと、息が止まりそうな強さで吾妻に抱きすくめられた。芳醇な肉の匂いに混じって、微かに甘い花の香りが鼻先を擽る。吾妻のコロンの匂いだろうか。
 
 吾妻の肩先に顔を埋めたまま、健一は咽喉を小さく引き攣らせた。耳元で、祈るように「愛してる」と繰り返す吾妻の囁きが聞こえた。
 
 
「愛してるだとか…くだらない」
 
 
 バーゲンセールのように安売りされる愛してるの連呼に、健一は唸るように吐き出した。花の匂いが癇に障る。
 
 吾妻の胸に食い込む程に爪を立てて、その虚しさを思う。抱き締めても、抱き締められても、何も生まれない。こんな行為に意味なんか一つもありはしない。愛という言葉に意味はない。
 
 
「そうだね、くだらないよ」
「放せよ」
「くだらないけど、どうしようもない」
「放せ」
「どうしようもないんだ」
 
 
 爺の繰言のように漏らして、吾妻は更に強い力で健一を抱き締めた。健一の拒絶に聞く耳持たない吾妻の行動に、健一は辟易し、苛立った。
 
 
「じゃあ、どうして殴るんだ。どうして酷いことばかりするんだ。オレを愛してるなら、そんなことしなきゃいいじゃないか。オレは人間だ。痛いんだ。辛いんだ。骨に皹入れられて、痛くないわけないだろう。池に沈められて、苦しくないわけないだろう。家族殺されて、辛くないわけないだろうが!」
 
 
 込み上げてきた憎悪をぶつけるように、吾妻の身体を拳で叩く。胸を、腹を、顔を、駄々っ子のように何度も何度も繰り返し殴り付ける。
 
 子供の力とはいえ痛くないわけはないのに、吾妻は抵抗しない。健一を抱き締めたまま、ひたすら耐え忍んだ。息を殺して、健一の殴打の嵐がやむのを待つ姿は、祈りを捧げているようにも見えた。
 
 そうして、しゃがれた声を零した。
 
 
「許してとは言わない」
 
 
 その傲慢さが腹立たしかった。腹の底で『誰が許すものか』という言葉を嫌悪とともに吐き捨てて、健一は俯いた吾妻を睨み付けた。目だけで人が殺せるのならば、と考えずにはいられない。それぐらい、吾妻が憎くて仕方なかった。心の底から死ねと願っている。溺れ死ね。殴り殺されろ。撃たれて失血死しろ。首を掻っ切られろ。絶望の底で野垂れ死ねばいい。
 
 それなのに、置いてきぼりにされた子供のような眼差しを見た瞬間、悲しみが這い上がって来る。哀れみがこみ上げてきて、鋭く尖った殺意の先をへし曲げられる。
 
 感情を振り払うように、健一はもう一度吾妻の頬を張り飛ばした。暗闇に肉が叩き付けられる鈍い音が響く。
 
 
「そんな顔すんな!」
「許して欲しくない。許して欲しくなんかないんだ」
 
 
 微かに腫れ上がった頬では喋りにくいのだろう、寝言のような不明瞭さで吾妻は呻いた。
 
 そうして、母に甘える赤子のように、健一の胸にそっと腫れた頬を押し付けた。健一を抱き締める腕が、小さく震えていた。
 
 

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