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26 害虫 *軽暴力描写有

 
「あなたって豚なの? 犬なの? それとも薄ら寒い寄生虫か、ゴキブリみたいな害虫?」
 
 
 背後から聞こえてきた声に、うんざりとした心地で振り返る。そこには思った通り、テレビから這いずり出て来た貞子が居た。簾がかった前髪の間から、どんよりと曇った眼差しが健一を見ている。
 
 
「……なんか用?」
 
 
 たっぷりと沈黙を取った後、心底嫌そうな声で問い掛けた。廊下の真ん中で立ち止まったまま、面倒臭さを体言するように足の裏で軽く脛を掻く。
 
 真夜の姿を見るのは、真昼と焼肉を食べに行った夜以来だった。あれから二週間経っている。
 
 あの夜の真夜は黒いワンピースを着ていたが、今日は明るい桃色のワンピースを着ている。その春めいたピンク色がぐんにゃりとした猫背に不自然なほど似合わない。
 
 暗闇の中で踊るように指先を蠢かしていた真夜の姿を思い出して、健一は無意識に眉間に皺を寄せていた。真夜とは係わりたくない。不気味だし、自分に対して悪意を抱いているのが露骨に伝わってくる。
 
 真夜が枯れ枝のような指で健一を指差して、肩を小刻みに揺らす。口元には嘲るような笑みが浮かんでいた。
 
 
「だから、あなたはゴキブリなのかって聞いてるの」
「…違うと思うけど」
 
 
 その露骨に嫌がらせであろう質問に辟易する。不快感がじわじわと競り上がって来て、胸をムカつかせる。
 
 
「いいえ、あなたはゴキブリよ。吾妻家に図々しく入り込んで、残飯を食い散らかす害虫。薄汚い淫乱害虫は駆除しなくっちゃね」
 
 
 甘ったるい声音でそう言った瞬間、真夜は背後に隠していた右手を前方へと伸ばした。右手に掴まれた細長い缶から白い気体がシューと噴き出し、健一の顔面に噴き付けられる。
 
 
「ぶ、わっ!」
 
 
 驚愕の声を上げながら、咄嗟に後ずさる。しかし、それを追い掛けるように真夜も前進するから結局白い気体からは逃れられない。
ツンと痺れるような薬品の臭いが目と鼻に沁みる。唐辛子を鼻腔の奥と目玉に擦り付けたようだ。呼吸が詰まって息苦しさに咳き込み、生理的な痛みに目からぼろぼろと涙が零れる。
 
 耐え切れず走り出せば、背後から真夜の金切り声が響いてきた。
 
 
「逃がすもんかァ! 駆除だ! 駆除するんだッ! 害虫は死ねえぇ!」
 
 
 その狂った哄笑に、皮膚が一瞬で総毛立った。背後からもう一つ足音が響いて来る。走りながら、ぼやけた目で肩越しに振り返れば、缶から白い気体を迸らせたまま駆けている真夜の姿が見えた。
 
 極限まで開き切った瞳孔のせいで、真夜の瞳は虹彩すら真っ黒に見える。ブラックホールが背後から追い掛けてくるような恐ろしさだった。吸い込まれたら死んでしまう。
 
 狼狽と恐怖に何度か足を縺れさせながらも、必死で長い廊下を駆け続ける。真夜の甲高い笑い声に、『何事か』と障子が開いて何人か顔を覗かせる人もいた。しかし、真夜に追い掛けられている健一を見ると、僅かな同情を示して、結局諦めたように障子を閉めてしまう。畜生、やっぱり同情なんて糞くらえだ。吐き捨てて、奥歯を噛み締める。
 
 
「なんっで、追いかけてくるんだよっ!」
 
 
 息継ぎの合間合間に理不尽さを訴えても、真夜の追ってくる足は止まらない。むしろ、更に狂気が強まったような悲鳴が背後から聞こえた。
 
 
「害虫は殺すしかないんだ! 手前は殺す! 殺す! 殺す! 絶対に、絶対に、ぜぇったぁああぁいに、殺してやるううぅぅ!」
「オレは、殺されたくなんかない! 害虫なんかじゃ、ないっ!」
 
 
 叫んでいる間にも足音は近付いて来る。真夜の身長は、百四十強しかない健一よりも十センチ以上高い。リーチの長さからいっても、いつかは追いつかれるだろう。そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
 
 急停止、振り向きざまに真夜の脛を思いっきり蹴り飛ばした。サッカーボールをキックするような感覚。左足に予期していた以上の衝撃が走って、耐え切れず自分の身体が後方へ跳ね飛んだのが分かった。尻から床に落ちる。同時に、真夜の咽喉からギエェという蝙蝠じみた悲鳴が零れて、そのままうつ伏せに倒れるのが見えた。
 
 絶えず白い臭気を撒き散らしていた缶が手元に転がってきて、健一は力なくそれを拾い上げた。缶の表面には派手なロゴで【殺虫剤 コ・ロース】と書いてある。その安直なネーミングに泣き出したいぐらいの脱力感を覚えた。
 
 
「くぞおおおおぉぉ、害虫がぁぁぁあ。手前ぇえ、よくもやりやがっだなあぁぁ」
 
 
 真夜の足も動けない程のダメージを受けているだろうに、それでも真夜は腕だけで床を這いずって健一へと近付いて来る。乱れた髪の毛が細い指に絡まって、腕を前方へと伸ばす度にぶちぶちと引き千切れている。それなのに真夜は自分の髪などには頓着もしない。
 
 その何かに取り憑かれたような姿に、健一は床に尻餅をついたまま硬直した。全身の筋肉が引き攣って、咽喉が飲み込む唾液もないのにひくりと上下する。
 
 
「おっ、お前が悪いんだ! 殺虫剤なんか、かけてくるから! セイトウボウエイだ!」
 
 
 背中を壁に押し付けて、痛む脛を両手で抱える。どんどん距離が詰まっていく。真夜の瞳は既に焦点があっていない。粘つく執着心だけが、眼球の奥でどろどろと渦巻いている。
 
 
「そんなの、関係ないんだよぉおお。手前のせいで、手前のせぇでぇぇ、真澄さんがあああ」
 
 
 真夜が言いたいのは吾妻のことだろうか。健一のせいで真澄が自分に構ってくれなくなったとでも言いたいのだろうか。そう考えた瞬間に、皮膚が燃え滾るように熱くなった。吾妻のせいで、こんな目にあうのは耐え切れない。何で意味の分からない嫉妬を受けなくちゃならない、と健一はいきり立って叫んだ。
 
 
「『あいつ』がオレのこと好きなのはオレのせいじゃない! オレは好かれたくなんかない! 好きになってくれなんて、頼んでない!」
「巫山戯んじゃねぇ!」
 
 
 叩き付けるような声が返って来た。同時に痛む足を、真夜のか細い手が掴んだ。乾いた掌の感触に、掴まれた足首から寒気が全身へと広がっていく。膝頭が小さく震えた。
 
 
「巫山戯んなよ糞餓鬼がぁ。真澄さんだけじゃない、手前のせいでこの家は滅茶苦茶になるんだあぁ」
 
 
 『滅茶苦茶になる』その言い方に引っ掛かる。『なった』ではなく『なる』という事は、それは未来の事なのだろうか。これから、自分のせいで滅茶苦茶に、なる? 上手く思考が働かず、健一は小さく咽喉を鳴らした。
 
 真夜の手が健一の足首を引っ張る。悲鳴を上げる間もなく、健一は床を滑るように仰向けになった。仰向けの身体の上を、真夜がずるずると這い上がってくる、蛞蝓が這うように。そのおぞましさに鳥肌が立った。
 
 
「愛される重みも有難みも知らねぇ糞餓鬼が何で愛される。何で、私は愛されない。十何年も愛してきた私が報われず、何で愛情を跳ね除ける手前が愛される! 不公平だろうが、不平等だろうが、これこそ理不尽だろうが!」
 
 
 鶏足のような指が健一の鎖骨を引っ掻く。皮膚をギリギリと抉られて、走る痛みに健一は掠れた声を上げた。そうして、真夜の言葉の不自然さに気付いて、声を返した。
 
 
「愛されないって…兄妹じゃないか!」
「兄妹だから何だって言うんだ!」
 
 
 驚愕の声をあげる健一に対して、噛み付くように真夜は喚き上げた。胸倉を掴まれて、そのまま前後に無茶苦茶に揺さぶられる。後頭部がガツンガツンと床に当たって、頭がくらくらした。目の前が朧がかって、手足が末端から冷えていく。
 
 兄妹なのに愛してるって何だ。血が繋がっているのに、真夜は吾妻を男として愛しているのか。
 
 思うと、氷でも押し付けられたように背筋が冷えた。男を愛する吾妻も狂っているが、兄を愛する真夜も狂っている。二人とも『病気』だ。
 
 
「真澄さんを世界で一番愛してるのは私だ! 手前なんかじゃない、私だ! なのに、どうして真澄さんは私を世界で一番愛してくれない! 一番じゃなくちゃ意味がないのに…ッ!」
 
 
 朦朧とする意識に、噛み付くような真夜の叫び声がキンキンと響く。その切実なまでの醜悪さに吐き気がする。
どうだって良い。オレの知ったことか。どうして皆、オレに何もかも押し付けるんだ。望んだものじゃない。欲しがってなんかない。全部お前らの勝手じゃないか。
 
 
「手前がいるからだ! 手前のせいだ! 手前さえいなけりゃ全部丸く収まるんだ! 滅茶苦茶にならずに済むんだ! 手前さえいなけりゃ…! だから、死ねよっ、死ねえぇ!」
 
 
 オレの望みは元の生活に戻ることだ。お母さんとお父さんとお姉ちゃんがいて、伸樹と野球をやって暮らしたかったんだ。そうやってどうってことない日常を、何年も何十年も生きていきたかったんだ。それなのに――
 
 
「――滅茶苦茶にしたのは、お前らじゃないか…」
 
 
 溜息のように零した声は、真夜の耳に届かなかったようだ。真夜の痛々しいまでの罵りが内臓に沁みこんで行く。その痛々しさすら忌々しかった。
 
 
 愛されない悲哀、憤怒、絶望、それがどうした。愛するとか愛されないだとか、そんなのオレには関係ない。お前らの勝手だ。全部――
 
 
「全部全部お前らの勝手じゃないか!」
 
 
 腹の熱を全て吐きつくすように吼えて、手に持っていた缶の底で振り払うように真夜のこめかみを殴り付ける。ゴッという鈍い音が響いて、腕に衝撃が走った。ギャッと叫んで、真夜が身体の上から落ちる。
 
 上半身を起こせば、くらりと眩暈が走った。虫のような動きで床をのた打ち回っている真夜の姿を、ぼんやりと眺める。涎を垂らして痛みに打ち震えながらも、真夜の視線は健一から外されない。
 
 
「――勝手、そうよ、勝手よ。でも、それがどうだっていうの。私だって報われたい。私だって欠片ぐらいは愛されたいと思う。そう、ずっと祈ってきたのよ。――そのためなら、何だってしてやる」
 
 
 ワンピースの胸元を引き千切りそうなほど握り締めて、真夜は唸るように呟いた。そうして、まだ呆然としている健一を指して叫んだ。呪いの言葉だった。
 
 
「いいかぁ、手前のせいでこの家は滅茶苦茶になるんだ。この家で誰か死んだら手前の責任だ。手前が殺したんだ! わかったか、害虫! 手前が殺したんだからなぁっ!」
 
 
 堪らなく醜悪なのに、何故だか酷く痛々しい声に聞こえた。健一は心臓がギチギチと引き攣れるのを感じながら、痛む目をゆっくりと閉じた。
 
 

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