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27 哀願

 
 殺虫剤が沁みた目がひりひりと痛む。既に麻痺して痛いかどうかも解らなくなった足を引き摺りながら離れへと戻る自分の姿は惨めだった。
 
 眼球の表面に張り付いた異物を剥がそうと、生理的な涙がぼろぼろと溢れてくる。心は冷え切っているのに、頬を伝う涙は惨いほどに温かい。掌を濡れた頬に当てて、健一は小さく息を零した。
 
 
「うんざりだ」
 
 
 思いがけず、吐息と一緒に声まで溢れ出た。それが自分の悲痛な叫びのように思えて、健一は眉間に皺を寄せた。遣る瀬無く首を左右に振って、もう一度呟いてみる。
 
 
「うんざりだ」
 
 
 もううんざりだった。こんな所に連れて来られて、無理矢理イカれ男の愛人にされている事だけでも死にたいほど屈辱的なのに、何故責任の取りようもない嫉妬で追い回されなくてはならない。害虫扱いされ、殺虫剤を掛けられ、泣かなければならない。あんまりにも理不尽だ。
 
 自分は悪いことなんか何もしていない。ボールをキャッチしただけだ。吾妻が投げたボールをキャッチした。ただそれだけだ。それなのに、家族は殺され、健一は犯され、絶望的な生活を押し付けられている。生きているだけで幸せさ、なんて何処の誰が言ったんだろう。こんなの死んだ方がよっぽどマシじゃないか。
 
 腹の中で喚きながら、健一は奥歯を噛み締めた。それでも、涙は止まらない。
 
 目の前の障子が開かれて、誰かが健一を見つめていたが、涙でぼやけた瞳ではそれが誰なのかすら判らなかった。
 
 
「健一様、辛いですか…?」
 
 
 弥生だ。相変わらず鈴が鳴るような細い声をしている。生気を失った人形のようだ。
 
 ふやけそうな瞼を掌でぞんざいに拭って、健一は鼻を啜った。弥生が出てきた障子の奥を見遣れば、そこには棒切れのような老人が横たわっているのが見えた。真之介の部屋らしい。
 
 ぼんやりと弥生を見上げる。痛ましそうに眉根を寄せた弥生の表情に、微かな苛立ちを覚えた。
 
 
「何で、オレをこんなところに連れて来たんだよ…」
 
 
 怒鳴ってやろうと思ったのに、出された自分の声は悲しいぐらい弱々しかった。言った瞬間、生理的とは違う感情的な涙が眼球の奥から溢れ出た。啜っても啜っても鼻水が出てきて、あんまりにも情けない。
 
 見かねたのか、弥生がハンカチを差し出してくる。ただ白いだけで模様も何もないシンプルなハンカチだ。ハンカチをもぎ取る様に受け取って、びしょぬれな顔面に押し当てる。
 
 
「何で、放っといてくれなかったんだよ…」
 
 
 ハンカチのせいで、言葉は殆どくぐもった呻き声のようだった。
 
 何で、何で、と往生際の悪い疑問ばかりが零れてくる。弥生が健一をこんな所に連れて来なければ、こんな辛い思いをせずに済んだ。誰かに殺意を感じることもなく、そうして殺意と同情の間で揺れ動くこともなかったのに。此処に連れてこられなかった自分は、きっともっと優しく生きていけたはずなのに――
 
 
「オレ、もうグチャグチャじゃんかぁ…」
 
 
 犯された自分は汚い。吾妻の死を望む自分は醜い。世界中を呪っている自分なんてバラバラに引き裂かれてしまえば良い。いつの間に、いつの間にこんなに醜悪なものになってしまったんだろう。
 
『害虫』と叫ばれた言葉が脳裏を過ぎる。そうだ、害虫だ。真夜の言っていたことは間違ってなかった。今の自分は害虫になってしまったんだ。その事実に、戦慄く。身体が内側からすぅっと冷えていって、末端から体温を失くしていく。涙だけ火傷しそうなほど熱い。
 
 
「…あなたは汚れていません」
 
 
 気休めのような弥生の台詞に、脳味噌が破裂しそうになる。カッと血走った目を見開いて、弥生の胸に拳を叩きつけた。力いっぱいやった筈なのに、小さな拳はひょろひょろとした軌道を描いて、弥生の胸に着陸した。痛みも何もない。ただ、拳を押し付けただけ。苛立って何度も胸を叩いても、それすら弱々しくて、痛みには程遠い。
 
 やんわりとした手付きで弥生の掌が健一の拳を包み込む。弥生の掌は吃驚するぐらい冷たかった。健一の何倍も、冷たい。
 
 
「あなたは汚れていません。汚れちゃいけません」
「勝手なこと、言うなよ! お前に何がわかる! オレは男にゴウカンされたんだぞ! 頭ん中で何回も何十回も何百回も、あいつもお前もみんなみんな殺してる! バットで頭殴って、包丁で刺して、火つけて焼き殺してる! 何で、こんなんになっちゃったんだよ! オレはこんなんじゃなかった! こんなんじゃなかったのに…!」
 
 
 叫ぶと、殺虫剤が沁みた咽喉が渇いて痛む。弥生の手を振り払おうとしても、弥生の掌は頑として離れない。柔らかな掌に包み込まれたまま、健一は忌々しさに唸った。
 
 
「あなたは私達を殺していい。私も真澄様も、この家にいる人間全てを殺していい。その権利がある」
 
 
 唐突に寒気の走る台詞を弥生が発した。驚きに弥生を見上げれば、悲しそうに眼差しを伏せた弥生が見えた。健一と目が合うと、微かに唇を笑みに震わせる。
 
 
「だけど、あなたはきっと殺さないでしょう」
「何でそんなことが言える」
「あなたは優しいから…」
 
 
 その言葉に鎮火しかかっていた憤怒が再び込み上げて来る。歯噛みして、弥生を睨み付ける。
 
 
「優しいせいでお前らを殺せないなら、優しさなんて要らない」
「それでも、あなたは殺さない」
「それはもう事実じゃなくて、単なるお前の願いだ!」
「そうです、願ってるんです。あなたが誰も殺さないように。決して、憎しみだけの人間にならないように。私は願ってるんです。あなたに幸せになって欲しい」
 
 
 弥生の声は切実さを滲ませていた。健一の手を自分の胸に強く押し当てて、固く目を閉じた。切迫した弥生の動作に、健一は一瞬息を呑んだ。
 
 弥生の唇は青褪めて色を失くしている。唇の隙間から見える歯が、寒々しいほどに白かった。
 
 
「…お前になんかに、願われたくない」
「解っています。あなたを連れ去った私がそんなことを願うことは、心底滑稽だと解っているんです。私のせいで、あなたは家族を失い、男に犯され、酷い目にあい続けている。ねぇ、でも、願わずにはいられないんです。おこがましいと分かっていても、傲慢だと分かっていても、それでも、ねぇ、私は」
 
 
 弥生の身体が小刻みに震えているのが分かった。膝頭が揺れて、壊れたマリオネットのように弥生は健一の肩に縋り付いた。
 
 身体が触れた部分から凍えていくような冷たさだった。壊れたように口をパクパクと上下させる弥生が、おぞましい。
 
 
「お前、どうしたんだよ…」
「ねぇ、あれを、あれを見て下さい」
 
 
 喘ぐように言って、弥生が指差したのは障子の奥で眠る真之介だ。肩まで布団を被って眠っている。別段変わったところはないように見える。
 
 
「じいちゃんが、どうしたんだよ」
「あれは一体何ですか」
 
 
 狂ったような弥生の問い掛けに、健一は薄気味悪くなった。弥生の指先が肩に食い込んで、鈍い痛みを感じる。
 
 
「何って、じいちゃんだろ」
 
 
 殆ど投げ遣りな口調で言う。途端、弥生の目が見開かれて、次の瞬間、顔面がくしゃくしゃに歪んだ。普段の取り澄ました面構えとは全く違う、親に叱られた子どものような泣き顔だった。
 
 そうして、弥生は健一の頭を唐突に抱き締めた。抱き締めるというよりも、縋り付くといった方が正しいかもしれない。自分よりも小さい子供に弥生は縋り付いていた。耳元に掠れた声が滑り込んでくる。
 
 
「許して下さい」
 
 
 切ない哀願だった。健一は唐突な抱擁に狼狽したまま、声一つ出せなかった。しかし、きっと声が出せていても、何も言わなかっただろう。許すことも罵ることも出来ない程、弥生の哀願は見苦しかった。
 
 
「許して下さい。お願いです、許して下さい」
 
 
 吾妻と弥生は真逆だった。吾妻は「許して欲しくなんかない」と言う。弥生は「許して下さい」と切願する。どちらも目を背けたくなるほど利己的だった。
 
 震える腕に抱き留められたまま、健一はその強烈なエゴイズムに眩暈を覚えた。くらり、と目の前の風景が揺れる。
 
 
「こうするしかなかった。こうするしかなかったんです。決して、こんなことをしたかったわけじゃない。私だって真っ当に生きたかった。子どもを誘拐して、こんな風に苦しめたかったわけじゃない。惨い目にあうのを、傍から見たかったわけじゃない。あぁあぁ、何てことを。何てことを。後悔しても、もう遅いのはわかってます。わかっていても、願わずにはいられない。ああ、許して下さい。幸せになって下さい。私を許してください、健一様…っ」
 
 
 余りにも見苦しい。弥生の細い指先が彷徨うように、健一の髪を掻き乱す。その指先が頭皮に触れる度に、全身が拒絶反応を起こしそうになる。
 
 
 触るな、言うな、今更いったい何を言っているんだ。もう遅い。何もかも遅い。
 
 
「お前が、自分で選んだ道じゃないか」
「はい」
「それなのに、今更許しを乞うのか」
「はい」
「身勝手だと思わないのか?」
「思います」
「なら、許してだなんて、冗談でも言うんじゃねぇよ!」
 
 
 最後は弾けるように怒鳴っていた。弥生の肩が目に見えて震えて、それでも健一を抱き締めたまま離そうとはしない。むしろ、先ほどよりも更にしがみ付いてくる。小動物が庇護を求めているような戦慄きだった。
 
 健一のような子どもに、懇願し哀願し切願し、縋り付かなければならない程、弥生は憔悴し、切迫していた。罪悪感からなのか、それともこんな生活にとうとう限界が来たからなのかは分からない。
 
 
「許して下さい」
「しつこい」
「許して下さい」
「黙れ」
「許して下さい」
「いい加減にしろよ! もううんざりだ!」
「ゆるして! お願い、お願い、許して! 何でもします! 死ねとおっしゃるなら死にます! だから、許してください! 私には、もう健一様しか許してくれる人がいないんです…!」
 
 
 弥生が喚いた。普段の弱々しさからは想像も出来ない程の力強さで、健一の肩を掴んでくる。健一の顔を至近距離で覗きこむ弥生の目には正気がない。極限まで開かれた眼球が、神でも見るかのごとく健一を凝視している。清潔感など欠片もない。弥生という人間の本性だった。人間の弱さだった。
 
 健一は身を仰け反らせて、顔面を引き攣らせた。人間の本性は醜悪だ。それを眼前に突き付けられた気がした。鳥肌が足元から這い上がってくる。鳥肌が顔まで達した瞬間、唇が勝手に動いていた。
 
 
「――きたない」
 
 
 ピタリ、と弥生の動きが止まる。咽喉からヒュウという掠れた呼吸音が零れて、まるで置物のように止まった。
 
 ガラス玉のような弥生の瞳の中に、顔面を引き攣らせた自分の顔が映っていた。その嫌悪を滲ませた自分の顔を見た瞬間、健一は自分の胃の底から何かが競り上がって来るのを感じた。
 
 
「汚い汚い汚い! お前、汚いッ!」
 
 
 身体に触れる弥生の腕を振り払って、走り出す。身体に弥生の冷たさが残っている。凍えた二の腕を抱き締めるようにして、そのまま廊下を駆け抜ける。
 
 後ろは決して振り向かない。決して、振り向いちゃいけない。そこには、未来の自分がいる。
 
 汚いと叫んだのは、弥生にか、それとも弥生の瞳に映る自分になのか。それすら分からなかった。一生分かりたくなどなかった。
 
 
 
 
 
 
 次の日の朝、弥生は健一を起こしに来なかった。布団の中で眠たそうに目を擦る健一の耳元に、「父さんが死んだよ」と吾妻が囁いた。
 
 

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