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29 泣き虫

 
 通夜部屋から出てから、健一は大きく息を吐き出した。
 
 しんどい、と思う。吾妻と一緒に居るのはしんどい。また、吾妻の周囲を取り巻く人物達もしんどい奴らばかりだ。弥生も真樹夫も真夜も、誰もかれも健一の心を引き裂き、磨り潰し、醜い感情ばかりを教えていく。憎悪や殺意、理解不能な悲哀を。
 
 だが、真昼だけは違う。真昼だけは健一に憎悪とは無縁の感情を呼び起こし、そうして救いの手を差し伸べてくれる。
 
 あぁ、そうだ。真之介が死んだから、自分は真昼と一緒に逃げることが出来るんだ。いつになるかは解らないが、きっと明日か明後日、少なくとも一週間以内には遺言状が読まれるだろう。その夜には、自分は真昼と二人でこの家から出て行ける。もうこんな惨めで、うんざりな生活とはおさらばだ。不条理な暴力を奮われることも、腹に性器を突き入れられて咽び泣くこともなくなる。吾妻のことで心乱されることも、二度とない。
 
 それを思えば、健一の胸は高鳴った。猛烈な歓喜が込み上げて、高らかに歓声を上げたい程だった。
 
 スキップでもしたい心地のまま、ふわふわとした足取りで廊下を進んでいく。
 
 視線先の部屋の障子が薄っすらと開いていること、そして、その部屋の中に誰かが蹲っていることに健一は気付いた。高揚した気分のまま、他愛のない好奇心で障子の隙間からその部屋を覗き込む。その瞬間、視界に入ったものを見て、健一は自分の血の気が引くのを感じた。
 
 暗闇の向こう側、薄暗い部屋の真ん中に大柄な男が蹲っている。ぶ厚い背中を丸めて、打ちひしがれたように両手で顔を覆っていた。その姿のままピクリとも動きはしない。
 
 一種の彫像の如く、吾妻組若頭、吾妻将真はそこに在った。その像にタイトルをつけるなら、きっと絶望だとかそういうものだろう。将真の毛穴という毛穴から溢れ出しているのは、限りなく絶望に近い重苦しく冷ややかなオーラだ。
 
 不意に、将真の背が大きく盛り上がった。まるで何かが背中を食い破るかのように空気を孕んで膨らみ、そうして唐突に爆発した。
すっ、と振り上げられた将真の拳がまるでハンマーのように畳に打ち落とされる。畳が畳らしかぬドォンという爆音を立てて啼き、爪先から伝わってきた震動に思わず健一も悲鳴を上げていた。
 
 
「ひっぅ!」
 
 
 短く息を呑むような掠れた声が上がる。同時に、ゼンマイ仕掛けのような鈍く角張った動きで、将真の顔が此方に向けられた。闇の中で、将真の瞳は濡れていた。しかし、飢えた獣のようなギラつきもある。
 
 その瞳は健一の姿を認めた瞬間、ナイフの切っ先のように鋭く尖った。無様な姿を見られたとばかりに、健一に対する敵意を剥き出しにしてくる。健一は、将真の視線に身体を強張らせた。
 
 
「餓鬼が…」
 
 
 忌々しさを込めて、将真が吐き捨てる。その声は僅かに鼻がかっていた。
 
 
「何の用だ」
「し、障子、あいてたから、何だ、と思って…」
 
 
 途切れ途切れに言い訳を口に出す健一を眺めて、将真が鼻先で嗤う。
 
 
「覗き見たぁ、随分下品な奴じゃのう。流石真澄の男妾じゃ、性根が腐っとる」
 
 
 ゴミでも見るような将真の眼差しに、言葉が凍り付く。返したい言葉は幾らでもあるのに、全て咽喉の奥で縺れて、滅茶苦茶絡まって、吐き出すことは出来なくなった。
 
 俯き、歯痒さを感じながらも健一は押し黙った。ふんっ、とこれ見よがしな将真の鼻息が聞こえた。しかし、同時に、ずずっと鼻を啜る音も耳に届く。
 
 
「用がないなら、早く真澄のところに戻れ。男妾なんぞ、傍に寄られるだけで臭くて堪らんのじゃ。お前らは悪臭の源みたいなもんだからな」
「…泣き虫なんかに、言われたくない」
「何?」
 
 
 ぼそぼそと呟いた声が聞き取りにくかったのか、将真が片頬を歪めて問い返してくる。その潤んだ瞳を睨み返して、健一は今度は廊下に響き渡る程の大声で叫んだ。
 
 
「五月蝿い泣き虫! お父さんが死んで、ぴいぴい泣いてる奴なんかに性根が腐ってるだとか臭いだとか言われて堪るか馬鹿やっ…!」
 
 
 叫び声も半ばに、闇が襲い掛かってきた。障子の隙間から突き出された太い腕に絡め取られて、健一は障子に肩をぶつけながら部屋に引きずり込まれていた。そのまま玩具のように身体を振り回され、背中から畳に叩き付けられる。然程力は込められていなかったのか、大きな痛みは感じなかったが、衝撃にぐっと息が詰まって、背骨がじんと痺れた。
 
 見上げれば、どす黒いオーラを背負った巨体が健一を見下ろしていた。
 
 
「何も知らん餓鬼がっ…!」
「…あんただって何も知らないくせに、自分勝手にオレを罵るな…!」
 
 
 押し殺した声で吼えて、そのまま互いに睨み合う。
 
 暗闇の中、そこの空気だけが酷く飽和し、澱み、熱し、張り詰めていた。吐き出す息でですら弾けてしまいそうな緊張感が皮膚を刺す。
 
 畳に倒れた時に擦ったらしい二の腕がひりひりと痛んでいた。その痛みすら気にならないぐらいに、憤りが腹の底で沸騰し、今にも噴き上がりそうだった。
 
 仁王立ちになった将真を、畳に尻をつけたまま睨み上げる。
 
 
「男妾がわしに歯向かうな、痛い目みんと分からんのか」
「またお得意の脅しかよ。そんなもん怖くも何ともねぇよ、パパだーいすきな泣き虫野郎が」
 
 
 強がって吐き捨てた言葉が、将真の更なる怒りを買ったのは分かった。怒髪天を突くという諺を目にしたような気分だった。短い髪をあらん限りに逆立て、全身の筋肉を怒りに流動させる男を凝視する。
 
 瞬息、殺されるかもしれないという恐怖が背骨を走り抜けて、健一は反射的に駆け出していた。早く、早く逃げないと、殴り殺されてしまう。それは既に予感ではなく直感じみた感覚だった。
 
 しかし、数歩走ったところで、直ぐに肩を鷲掴まれ引き戻される。肩の骨を握り潰しそうなほどの力強さに、胃壁がぎゅうと収縮する。壁に背を押し付けられ、健一の身体は吾妻の陵辱を思い出すように戦慄いた。
 
 もう片方の手で頬骨を掴まれ、無理矢理に顔を上げられる。見えたのは、血走った将真の眼球だ。闇の中で、薄く水の膜を張った眼球がぎらぎらと熱を孕んで鈍く光っている。
 
 
「誰が好きなものか、わしが殺そうと思っとたんじゃ…ッ!」
 
 
 怒鳴り声かと思ったのに、将真の咽喉から溢れたのは引き絞られたような悲痛な呻きだった。叫んだ瞬間、将真の咽喉がいたいけに震えるのを健一は見た。泣くのを堪えるかのような一瞬の戦慄きだった。
 
 
「ころ、す…?」
 
 
 喋ると、将真の指が頬肉に食い込んで痛んだ。
 
 
「そうだ、わしが殺すはずだったんじゃ。なのに勝手に死にやがって、あの糞爺…」
「でも…父親なのに…」
 
 
 小声でそう呟けば、将真の瞳が再び憎悪に燃え上がった。ギリギリと頬骨を指先で抉られて、痛みに顔が歪む。将真の奥歯辺りからギチギチと歯を噛み締める音が聞こえた。エナメルが今にも砕けてしまいそうな響きだった。
 
 
「父親がなんじゃ。あんな男妾に骨抜きにされた恥知らず…」
「それでも、家族じゃないか…」
 
 
 ありきたりな言葉を言っている自覚はあった。家族という定義がこの家にとって殆ど意味をなさないことも知っていた。しかし、それでも言わずにはいられなかった。
 
 将真の唇が捻じ曲がって、酷薄な笑みを滲ませる。家族というものの無意味さを感じずにはいられない薄ら寒い嗤いだった。
 
 
「血が繋がりがなんじゃ。そんなもん何にもならんかった。わしらは他人じゃ。同じ血をもった他人じゃ」
 
 
 将真の声は次第に血でも吐き出すかのようにしゃがれていった。健一の頬骨を掴む力も、感情の波を堪えるようにどんどん強まっていく。痛みに身を捩りながら、健一は目尻に薄っすらと涙を滲ませた。そうして、布団に横たわる老人の姿を脳裏に思い返した。
 
 嗚呼、あんたは酷い父親だ。吾妻だけでなく、この男にすら愛情を与えなかったのか。あんたが子供に与えたのは憎悪と殺意だけだ。どうして、欠片だけでもいいから、血の繋がった自分の子供に慈しみを注げなかったのか。あんたの子供達は、皆哀れだ。可哀想だ。悲しい子供たち、だ。
 
 
「――でも、他人、に、なりきれなかった」
 
 
 譫言のように言った瞬間、将真の頬がぴくりと動いた。なだらかな水面に石を落したように、将真の潤んだ瞳が揺れる。その瞳を見据えて、健一は噛み締めるように言った。
 
 
「だから、あんたは泣くんだ」
「…悲しくて泣いとんじゃない。わしは悔しくて泣いとんじゃ。あいつを殺せんかった悔しさで…」
「違う、あんたには殺せない。殺せなかった」
「餓鬼が…解ったように言いやがって――」
「殺す機会なんか幾らでもあったじゃないか。じいちゃんは寝たきりだし、頭はパーになってるし、あんたなら殺そうと思えばいつだって殺せた。それなのに、あんたは殺さなかった。殺したい殺したいって口では言いながらも、あんたには殺せなかった。他人じゃないからだ。父親だからだ」
「父親だなんて思ったことは一回もない」
「じゃあ、何で殺さなかったんだ。何で何ヶ月も寝たきりの老人を生かし続けた」
「それは――」
 
 
 将真が言いよどみ、下唇を噛み締める。その顔を見詰めて、健一はある事に気付いた。将真の鼻は、ほんの僅かに顔面にめり込んでいる。以前聞いた真樹夫の言葉を思い出す。
 
 
『何処の父親が、食事中に味噌汁零したぐらいで子供の鼻叩き折るっちゅうねん。お稚児ちゃん気付いたか? 将兄の鼻って、十歳ん時殴られたせいで少し陥没しとるんやで』
 
 
 胸を覆ったのは無性な切なさだ。父親に鼻を叩き折られた瞬間の子供の絶望を思う。父親から愛されていないと自覚した子供の心細さや寂寥感を思う。本当は絶望なんかしていないかもしれない。怒り狂い、父親に対する殺意を抱いただけかもしれない。ただ、痛かっただろうと思う。子供だったのだ。将真も子供だった。――子供はただ愛してもらいたかったのだ。将真も、そして吾妻も。
 
 手を伸ばし、将真の微かにへしゃげた鼻に触れる。訝しげに目を細めながらも、将真は健一の手を振り払いはしなかった。
 
 
「泣いたの?」
「…何がじゃ」
「鼻、痛かっただろう」
「痛くても、男は泣いたりせんのんじゃ」
「痛いなら泣けばいいのに」
 
 
 そう言って緩く鼻先を摘めば、将真の目が、頬が、唇が、咽喉が唐突に震えた。感電でもしたように、びりびりと、ぶるぶると。
そうして、咽喉からヒッという引き攣った音が零れたと思った瞬間、破裂するように嗚咽が溢れ出していた。畳に打ち伏せて、肩を大きく震わせて将真が慟哭していた。顔面をぐじゃぐじゃに歪めて、悲しみを全身から放出している。まるで泣く以外にどうしたらいいのかわからなくなってしまった子供のように、将真は泣き続けていた。
 
 健一は幼子にするように、その頭を緩く撫ぜた。慰めるつもりではなかった。同情でもなかった。ただそうするべきだと思った。
そうして、痛いな、と小さく独りごちた。吾妻も真樹夫も真昼も真夜も弥生も将真も、みんな痛い。青臭い考えだと思ったし、感傷的なだけの馬鹿げた想像だとも思ったけど、真実だと感じた。みんなみんな痛い。
 
 
 
 
 
 
 暫くすると、嗚咽がすすり泣きほどに収まった。見た目よりも柔らかい髪を撫で続けていると、数分後、真っ赤な目で将真が健一を見上げた。目尻が赤く腫れていて、触れると火傷しそうだと思った。
 
 
「馬鹿にせんのか」
 
 
 しゃがれた声で将真が問い掛ける。でかい図体した大人が、自分より一回り以上年下の子供の前で大泣きしたことに羞恥を感じているのか、険の削がれた将真の眼差しは、迷子になった子供のように微かに戸惑い揺れていた。
 
 
「して欲しいならするけど、今はしない」
「なんでじゃ」
「別に理由なんてない。本当は理由あるのかもしれないけど、うまく説明出来ないから、ないってことでいい」
「わしはお前のこと馬鹿にしたぞ」
「もう馬鹿にしないならいい。オレのこともう男妾とかって呼ばないなら」
 
 
 瞬間、将真の顔に苦々しいものが滲んだ。今だ健一のことを吾妻の愛人として蔑む気持ちは消えていないのだろう。口を数度もごつかせる将真を見て、健一はトドメをさすように言った。
 
 
「まだオレのこと男妾って呼ぶんなら、オレだってあんたのこと泣き虫って呼ぶ。それでもいいなら呼べよ」
 
 
 将真の顔が本当の苦渋に染まった。気まずそうに健一から視線を逸らしたまま、もごもごとした声音で「もう呼ばん」と不貞腐れたように呟く。その様子は、まるで母親に叱られた子供のようにも見えて、垣間見えた将真の幼さに健一は僅かに頬を緩めた。
 
 将真の剛健な背が余韻のように戦慄いて、大きく息が吐き出される。
 
 
「お前に『借り』が出来た…」
 
 
 ばつの悪そうな表情をした将真が窺うように健一を見上げていた。健一には、将真の言う『借り』という意味が解らず、曖昧に首を傾げた。
 
 
「かり?」
「わからんのなら、それでもえぇ。とにかく、わしはお前に借りが出来た。わしは、借りはちゃんと返す」
 
 
 白目部分が充血した将真の瞳が、真っ直ぐに健一を見据えている。一言一言区切るような力強い声音で言って、将真は健一に向かって深く頷いた。健一には、結局その言葉の意味が理解出来ず、相槌のような小さな頷きを返しただけだった。
 
 

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