Skip to content →

30 遺言状

 
 何でこんな所に自分がいるのか、さっぱり理解出来ない。正座のせいで痺れ始めた足をもぞもぞと動かしながら、健一は伏し目がちに周囲を見渡した。
 
 和室に集められているのは吾妻家一族だ。奥から、将真、真樹夫、真澄、真澄にへばりつくように真夜、真昼、そして健一。
健一の横には、健一よりも僅かに年上であろう少女がいて、小学校に上がったばかりのような幼げな顔立ちをした少年と、健一と同い年ぐらいであろう少年が座っている。
 
 三人とも初めて見た顔で、誰とも分からないが、自己紹介ができる雰囲気でもなく、時折ちらりとその横顔に視線を走らす程度に留まった。
 
 その合計九人が無言のまま横一列に並んで座っている状態だ。話し声が少しも聞こえない、酷く重苦しい空気に内臓が押し潰されてしまいそうだった。
 
 その中に訳もわからず混ざっている自分は、丸っきり異物だった。朝早くから吾妻に起こされ、堅苦しいスーツを着せられて此処に連れて来られた。真澄と一緒にやってきた健一を見て、真樹夫や真夜は何か言いたげに唇を歪めたが、結局何一つ言葉にすることなく健一の存在を黙殺している。この場にいない人間として扱っている。居心地が悪いを通り越して、気分が悪い。
 
 健一の横に座った少女がもぞつく健一へと視線を向けて、ほっこりとした笑顔を浮かべた。少女の指先が健一の足へと向けられる。ぷっくりとした唇が言外に『痺れたの?』と問い掛けてくる。その口パクに小さく頷きを返して、健一は改めて少女を見遣った。丸みを帯びた輪郭も相まって、少女の顔はペコちゃんのように見える。
 
 そうして、少女の視線があの場所に向けられた。健一の首に纏わりついた首輪を不思議そうに眺め、少女が指先を伸ばしてくる。その瞬間、健一は自分の体内から拒絶が溢れ出すのを感じた。ざわざわと内臓の隙間を蠢いて、毛穴から噴き出してくる。
 
 少女の指先から逃れるように、正座の状態から尻もちをつくように倒れる。背中にドンと何か柔らかいものとぶつかる感触があって、頭上から「ちょっと…!」と押し殺した声が降り掛かってきた。
 
 
「何やってんのよ、わんこ」
 
 
 真昼が呆れた眼差しで健一を見下ろしていた。返事を返そうと唇を開いた瞬間、足に酷い疼痛が走って、健一は畳の上で小さく悶えた。爪先から脛まで電流が走ったような痛みを感じる。両手で足裏を抱えて、健一は小さく呻いた。
 
 
「あーあ、馬鹿だねぇ。痺れた足いきなり動かしたら、そりゃ痛いよ。学校で習わなかったわけ?」
 
 
 ふふん、と鼻を鳴らしながら、真昼が嫌味ったらしい言葉を言い放つ。真昼を横目でねめつけながら、健一は改めて目の前できょとんと目を瞬かせる少女へと視線を向けた。何処か罪悪感を感じているようなその困った眼差しを見て、健一は小さく言った。
 
 
「オレが、勝手に転んだだけ」
 
 
 言い訳じみた言葉を口に出す。少女は二三度大きな瞳を揺らした後、曖昧な微笑みを返した。
 
 その瞬間、唐突に真昼が健一の痺れた足をガシッと掴んだ。その真昼の遠慮も容赦もない突発的な行動と足を襲う痛みに、健一は「いだい!」と濁った悲鳴を上げて、足をばたつかせた。
 
 
「痛い! 馬鹿! 何すんだ!」
「痛いからやってんのよ。鈍い痛みがだらだら続くより、一回鋭い痛みを与えて短く終らせる方がマシでしょ」
 
 
 健一の途切れ途切れな悲鳴に耳を貸す様子もなく、真昼は取り澄ましように言った。真昼の言うことも一理あるが、しかし、長く少ない痛みを選ぶか、短く強い痛みを選ぶかは人によって違うだろう。真昼にしてみれば親切心からの行動かもしれないが、健一にしてみれば、唐突に横っ面を張り飛ばされたのと同じような理不尽さだった。
 
 不意打ちな痛みに、じわりと目尻に涙が浮かぶ。真昼がきょとんと目を瞬かせた。
 
 
「泣くほど痛いの?」
「…泣いてない」
「わんこって変なところで意地っ張りよねぇ」
 
 
 眼球に涙の膜を張りながらも泣いていないと否定の言葉を吐き出す健一に対して、真昼が揶揄かうように言葉を発する。
 
 
「あんたって、ほんと仕方ないやつ」
 
 
 そう言いながらも、その声には温かみがあった。子供を見守る母のようだ。
 
 真昼の頬がほっと緩んで、その指先が健一の額を緩く撫ぜる。細い指先が短い前髪を掻き上げて、生え際辺りを擽っていく。その心地よさに、健一は自分の魂が真昼に懐いているのを感じた。咽喉を鳴らす猫のように懐いて、甘えている。任せ切っている。
 
 真昼が耳元にそっと唇を寄せてきた。
 
 
「あたしの言ったこと覚えてる?」
 
 
 その潜めた声に、二人だけの秘密を共用しているのだという事を改めて認識させられて、健一の胸は高鳴った。『真昼の言ったこと』というのは、遺言状が読まれたその夜に真昼の部屋へと行き、二人で逃げ出すという事だろう。真昼の目をそっと見返して、健一は小さく頷きを返した。
 
 
「ならいいの。――ねぇ、あんたはあたしのこと…」
 
 
 瞬息、真昼の目が揺らぐ。そうして、何か言おうと戦慄いた唇は、結局次の言葉を吐き出さなかった。代りのように、真昼が健一の手を一度握り締めた。ぎゅっと、強く、その存在を確かめるように。少しだけ、掌が痛んだ。
 
 
 
 
 
 
「皆様お揃いになられたようですので、只今から故吾妻真之介様の遺言状を発表致します。尚、この遺言状が本物であり、故人の最終遺志である事は間違いありません。どのような理由があろうとも、何人たりとも故人の遺志・決定を覆すことは出来ません。以上の事を留意の上、皆様お聞きとめ下さい」
 
 
 佐竹行夫と名乗った弁護士は、酷く冷めた眼差しで此方を見回し、こう言った。健一らと向かい合うように座って、寝不足気味の朝のように時折目尻を細かく痙攣させている。
 
 神経質そうに吊り上がった切れ長の目をしており、唇は不機嫌そうに『へ』の字に結ばれている。まだ年齢的には三十そこそこなのかもしれないが、目尻や口元に刻まれた皺が年齢以上に佐竹を老いて見せている。緩やかな曲線を描いた撫で肩が酷く貧弱そうに見えて、哀れなほどだった。
 
 じっと佐竹を観察していると、不意に佐竹の鋭い眼差しが突き刺さり、健一は身を竦ませた。
 
 
「失礼ですが、其方の少年は吾妻真之介様のご親族ではないと存じます。遺言状は御身内の前で読むようにと申し付けられております」
「健一はこれから身内になるからいいんだ」
 
 
 淡々とした佐竹の言葉に、吾妻が軽やかに声を返す。その説明にしかめっ面を浮かべた佐竹は、癖のように二三度目尻を痙攣させて言った。
 
 
「私は現在形で話しているのです。未来の御身内は現在の御身内ではありません。申し訳ありませんが、其方の少年に遺言状を聞く権利はな――」
「構わん」
 
 
 正論を言う佐竹の声に被さる様に、野太い将真の声が聞こえた。唐突な将真の介入に驚いたのか、横で吾妻が眼を真ん円にしているのが見える。
 
 
「構う構わないの問題ではなく…」
「お前が組長から言われたのは【遺言状は身内の前で読む】っつうことだけで、【身内の前だけ】って事じゃないだろうが。別に身内じゃないもんが混じっとっても、わしは構わん。大した問題じゃない」
 
 
 尊大な将真の言葉に、佐竹が引き攣った嘲笑を口元に滲ませる。しかし、結局何も言わず、佐竹は懐から一枚の封筒を取り出すと、何事もなかったかのように視線をそれへと落とした。
 
 将真の言葉に驚いていたのは、健一だけではない。まるで健一を庇うかのような発言をした将真に対して、皆が皆信じられないものでも見るかのような視線を向けている。真樹夫が小声で「鬼の霍乱」と呟いているのが聞こえた。
 
 
「それでは、遺言状を読ませて頂きます」
 
 
 その言葉が響いた瞬間、部屋の空気がピンと張り詰めるのが解った。誰かの咽喉から、息を呑む音がやけに大きく聞こえる。
 
 確りと止められた封筒の口をペーパーナイフで切り開いて、取り出された紙へと佐竹が視線を落とす。
 
 ようやくこのときが来たと思う。真昼の言ったように、今日、この遺言状を読み終わった瞬間、吾妻組は消えるんだ。財産も全てボランティア団体へと寄付されて、影も形もなくなる。吾妻に囚われている状況もその瞬間に終る。自由になれる!
 
『自由』という言葉を噛み締めて、健一の奥歯は小さく震えた。横目で真昼を見遣れば、真昼の顔色は先ほどよりもずっと悪くなっていた。伏せられた視線から、今この瞬間、自分の家が潰れてしまう絶望が見て取れる。そんな真昼に悲しみを感じても、健一は高揚する気持ちを押し留めることは出来なかった。
 
 さぁ読め。早く読め。最後通告を突きつけてやれ。お前達の家はなくなるんだと。
 
 しかし、それからの佐竹の台詞は、健一の予想を裏切るものでしかなかった。
 
 
「遺言者 吾妻真之介は、次の通り遺言する。長男 吾妻将真には、下記財産を相続させる」
 
 
 感情を削いだ佐竹の声が鼓膜を延々と通り過ぎる。一に土地、所在~区、地積~㎡、二に建物、三に、と続いていくが、聞き慣れないその言葉の群れは、健一には理解不能だった。
 
 そうして、不思議に思う。どうして、『相続』だなんて言葉が使われている。だって、財産は全部寄付されるはずだ。それなのに、どうして――
 
 視線を畳へと落として、健一は自分の心臓が不規則に鳴り始めるのを感じた。予想とは違う佐竹の台詞が鼓膜に響くたびに、身体の奥からじんわりと冷えていく。
 
 
「次男 吾妻真樹夫に対しても、土地・株式・財産をそれぞれ三分の一、と長男 将真と同等に分配を行う。残る三分の一は、長女 吾妻真昼、次女 吾妻真夜へと二分の一ずつ相続させるものとする」
 
 
 そこで一寸、長い言葉の群れが止まる。終ったのかと視線を上げれば、不愉快げに歪められた佐竹の面が見えた。面倒事を抱えてしまったとでも言いたげな表情。
 
 恐る恐る将真や真樹夫を見遣れば、驚愕と憤怒をごちゃまぜになった張り詰めた横顔が見える。二人が膝頭の上で痛いぐらいに拳を握り締めている所からも、何か尋常ではないことが起きたのだと健一にも推測出来た。
 
 そうして、佐竹は続く言葉を口にした。
 
 
「吾妻組の管理・運営は、三男 吾妻真澄へと一任するものとする」
 
 
 和室の空気が一瞬止まる。誰しもが息をすることを忘れたように、呼吸音すら聞こえなくなる。この部屋だけが世界と隔絶されたかのような、一種の異様さと閉塞感。
 
 首筋にナイフの切っ先を突き付けられたような凍えた感覚だった。脳味噌に空気が回らなくなって、くらくらと眩暈に目の前の光景が定まらなくなる。
 
 何を、何を言ってる。だって、吾妻組は消えるはずだ。あのじいちゃんが、全部寄付するって、全部終わりにするって、遺言状に書いてたはずだ。真昼はそれを見たんだ。ちゃんと見たんだ。それから、吾妻組が消えたら、オレと一緒に逃げるって。オアフ島にモアイ像を探しに行くって。約束したんだ。遺言状が読まれたその夜に、一緒に、一緒に。
 
 
 吾妻組を吾妻に一任するって、どういう、一体どういうことだ。どういう意味を持ってるんだ。わけがわからない。とにかくオレは真昼と逃げるんだ。逃げる、逃げる、――逃げれない?
 
 
 ぐるぐると思考が空回りを続ける。息苦しさに短く浅い呼吸を繰り返す。
 
 そして、気付いた。吾妻が健一を見詰めている。そうして、視線が絡まった瞬間、吾妻は笑ったのだ。ぞっとするほど甘やかで、薄ら寒い微笑み。まるで死人のように虹彩のない眼球は底冷えしていて、見ているだけで凍えそうだった。
 
 吾妻の顔色は、真っ白だ。
 
 
「上記以外の財産については、長男 吾妻将真、次男 吾妻真樹夫、長女 吾妻真昼、次女 吾妻真夜に、それぞれ法定相続分どおり相続させる。――以上が吾妻真之介様の遺言状です。皆様、何か御質問はありますか?」
 
 
 言い終わって清々したかのような佐竹の真顔を眺めて、皆が戸惑うように言葉を躊躇っていた。一瞬の静寂、そうしてそれを破ったのは爆音のような将真の怒鳴り声だった。
 
 
「そんなっ、話があって堪るかッ!」
「あるもないも、現実にそう書かれているのですから仕方ありません」
 
 
 寒々とした佐竹の声に、将真が何度か口をぱくぱくと開閉させて、言葉にならない言葉を発するように畳に拳を叩き付けた。ずんとした振動が体内まで響いて来るが、それも何処か現実感がない。外部からの感覚が脳味噌まで届いてこない。
 
 
「それじゃあ、あんたの言う遺言状では、組は真澄のものっつう事か?」
 
 
 身を乗り出すようにして発せられた真樹夫の声は、普段の柔らかさを失っていた。隠し切れていない焦燥や苛立ちが、真樹夫の声を尖らせている。
 
 その横顔は、普段の人を食ったような笑みを浮かべていない。熱を孕んだ真樹夫の眼球は、明らかな憎悪を滲ませていた。
 
 
「はい、遺言状にはそのように書かれています」
「弁護士さん、あんたは知らんかもしれんけど、こいつは親父のガキやない。お袋が何処かで身籠ってきた『野良犬の息子』や。そんな奴に、親父が組の跡を継がせるわけないやろうが」
 
 
 野良犬の息子という単語が出た瞬間、吾妻の肩がピクリと戦慄いた。それでも、その張り付いたような唇の笑みは変わらない。顔が笑う以外の表情を忘れてしまったかのようだ。
 
 真樹夫の眼差しが刺すように吾妻へと向けられる。歯軋りが聞こえてきそうな真樹夫の表情は、明らかな屈辱と悔しさに歪んでいた。
 
 真樹夫が言っていることは最もだ。どうして、野良犬の息子と父親から蔑まれていた吾妻に吾妻組を継がすなんて事が起こる。健一から見ても、明らかな策略としか思えなかった。それか、最高に性質の悪い冗談か。
 
 
「そのような事をおっしゃられましても、私にはどうしようも御座いません。私は単なる弁護士であって、イタコではありませんので、故人の遺志を覆すことは出来ません」
「巫山戯んな…! こいつが遺言状を入れ替えたに決まっとるじゃろうが…っ!」
 
 
 弾けるように将真が吼えた。しかし、怒声には遠く、引き絞られたような掠れた声だった。憤怒が余りにも高まりすぎて、上手く言葉にならないような潰れた声。
 
 ピンと伸ばされた指先は真っ直ぐ吾妻へと向けられている。その瞳は、怒りの余りに潤んでいる。将真の口からフーッフーッと威嚇する猫のような荒い息が吐き出されていた。
 
 佐竹が数度瞬きを繰り返して、将真と吾妻を交互に見遣り、それから溜息と一緒に吐き出す。
 
 
「私は、故人が残された遺言状を読むだけです。入れ替えが行われていようがいなかろうが、最終的にそこにあった遺言状が『本物』です。もし遺言に不服があるようでしたら、どうか故人が蘇ることを皆様でお祈り下さい」
「そない無責任な弁護士がおるもんか…」
「今貴方の目の前にいます。御不満があるようでしたら、どうぞ解雇を」
 
 
 真樹夫の反論に、いとも容易く解雇を申し出た佐竹の冷え冷えとした声は、此方の思考を停止させるには十分だった。眼精疲労を解すように目頭を軽く揉んで、皆の思考を置いてきぼりにするように佐竹は部屋から出て行った。
 
 暫く、誰もが周りの人間を窺い、疑うような、何ともいえない異様な空気が流れる。張り詰めているというよりかは弛み切ってしまっている空気。そんな中、ぽつりと、何処からか放心したような呟きが聞こえた。
 
 
「うそよ…」
 
 
 真昼の唇が小さく震えているのを、健一は見た。
 
 そうして、唯一の希望が打ち砕かれた事を、吾妻から逃れられない現実を、ようやく健一は理解して、目の前が真っ暗になるのを感じた。
 
 

backtopnext

Published in catch1

Top