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31 バカ

 
 静寂。沈黙。軋轢。不穏。閉塞感。息苦しさ。この状況をどんな言葉で表現すれば良いのか検討も付かない。
 
 九名の人間が押し黙ったまま座り込んで、凍り付いたように身動き一つ取らない。息を吐くことすら躊躇われるような圧迫感に、健一は下腹がキリキリと痛み始めるのを感じた。
 
 
「真澄、どういうつもりだ」
 
 
 凍り付いた空気の隙間を、低い声が這いずる。将真が畳へと視線を落としたまま、鈍く言葉を発していた。先ほどの怒りの表情とは打って変わった無表情だ。
 
 
「何のことですか?」
 
 
 吾妻が小首を傾げる。何を言っているのか理解出来ないとばかりに、首を小さく左右に振って、それから、一呼吸置いて、吾妻はにっこりと微笑んだのだ。
 
 状況にそぐわぬ和やかな弛んだ笑みで、何処か超然としていた。場の空気を、たった一人、吾妻だけが超越し、愉しんでいた。
 
 いや、愉しんでいるのではない。玩んでいるのだ。吾妻は、将真や真樹夫の怒りを玩び、嘲笑っている。全てを手に入れた者が、全てを失った者に対する優越感をわざとちらつかせて、右往左往する姿を面白がっているのだ。何て悪趣味な、下衆な――
 
 吾妻の柔らかな微笑を見て、将真の唇が小さく震える。一瞬の戦慄きの後、将真は吾妻の眼球を凝視した。射抜くような、糾弾の眼差し。将真の瞳の奥で燻っているのは、憎悪という名の業火だ。
 
 
「手前…」
「ねぇ、将真兄さん余り怒らないで下さいよ。予期せぬ遺言で驚いたのは僕も同じです」
 
 
 余りにも白々しい。頬に笑い皺を刻んだまま言う言葉ではない。
 
 顔を赤黒く染めた将真の奥歯辺りから、ガギッという金属同士をすり合わせたような音が響いてきた。奥歯を噛み砕きそうなほど噛み締めているのが、見なくても解る。将真が座っている辺りから、怒気が霧のように忍び寄ってくる。背筋が震え上がるような、底冷えした怒りだった。
 
 
「しらァ切りとおせるとでも思ってるのか…」
「後ろめたい事が何もないのに、疑われる僕の身にもなって下さい。この場は治めて、一度冷静になってから話し合いましょう、ね? 僕も少し混乱していますので」
 
 
 駄々を捏ねる子供を宥めるような口調で、吾妻が言う。そのまま立ち上がった吾妻は、健一の手首をもぎ取るように掴んで、歩き出した。その背に、悲鳴にも似た将真の声が突き刺さる。
 
 
「何処行くんじゃ!」
「将真兄さんには関係ありませんよ」
「復讐のつもりか! お前、わしらに復讐したんか!」
 
 
 泣き出しそうな声だった。あんまりにも哀れな、惨めったらしい叫びだった。
 
 肩越しに振り返って見た将真の顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。行き場を失った子供のような途方にくれた眼差しで、吾妻の背を縋り付くように見詰めている。
 
 小さく、吾妻が息を吐き出す音が聞こえた。吾妻は何も言わなかった。自分の兄を、完全なまでに見捨てていた。吾妻に引き摺られるように歩きながら、健一はそっと瞼を伏せた。
 
 
 
 
 
 
「お前、変えたな」
 
 
 廊下を数十メートルほど進んだ所で、不意に背後から声がかかった。振り返れば、微かに眼差しを尖らせた真樹夫が見えた。足取りを止めた吾妻が苦笑いを滲ませて、真樹夫を見返している。
 
 
「将真兄さんも真樹夫兄さんも、一体何を言ってるんですか?」
「そんな下らんホラいつまでほざくつもりや。俺も将兄も、誰もお前のことなんざ信用しとらん」
「酷いなぁ」
「酷いんはどっちや。ジジィの遺言状入れ替えやがって、手前の方がよっぽどの極悪人や」
 
 
 真樹夫が一息に吐き捨てる。しかし、険のある声音に比べて、真樹夫の表情は然程の変化を見せない。怒りが臨界点を突破して麻痺する所まで到達したのだろうか。真樹夫の唇は薄っすらと笑みが浮かんでいる始末だ。
 
 だが、その目に浮かんでいるのは焦燥だ。憎悪だ。殺意だ。負のものをいっしょくたにしてごちゃごちゃに混ぜたような混濁の瞳だ。
 
 その瞳は、吾妻へと向けられて決して逸らされない。健一の存在など、二人揃って忘れてしまったかのようだ。
 
 
「変えたんやろ?」
 
 
 微かに弾むようなリズムで、真樹夫が言葉を発する。戯れる様なその言い方に、ふっと吾妻の頬が緩んで、それから歪んだ笑みへと変わる。
 
 秘め事をそっと打ち明けるような隠微な眼差しで真樹夫を見詰めて、唇をゆっくりと開く。
 
 
「それは真樹夫兄さんも同じでしょう? 弥生を使って、正規の遺言状を葬り、自分達に都合の良い遺言状へとすり替えさせた。そうでしょう?」
 
 
 発せられた吾妻の言葉に、健一の背は戦慄いた。
 
 『正規の遺言状』とは、きっと真昼が言っていた遺言状のことだと確信する。組を潰して、財産を全て寄付するという、真之介の傲岸で冷酷な遺言状のことだ。それを真樹夫は入れ替えたのか。いや、違う。真樹夫が入れ替えたのであれば、吾妻が組を継ぐなんて、そんな事を遺言状に書くわけがない。それじゃあ、一体どういうわけだ。
 
 真樹夫の頬が柔らかく歪む。緩んだ頬に滲み出ているのは、吾妻に対する悪意だ。
 
 
「…あぁ、そうや。そうしたはずや。それなのに、読まれた遺言状は俺が用意したもんとは違った」
「不思議なことが起こったものです」
「ええ加減そのフリやめぇや。――つまり、こういう事や。お前が、『もう一回』変えたんやろ?」
 
 
 真樹夫の唇が一瞬小刻みに震えて、引き攣った笑いを浮かべる。吾妻が、そっと真樹夫を窺うように見詰める。それから、悪戯が成功した悪餓鬼のような満面の笑みを浮かべた。悪びれる様子もなく、『驚いたでしょう?』とでも言いたげな得意げな表情。
 
 
「概ね正解です。正確には、『僕が変えた』のではありません」
「なら、誰や」
「弥生に決まってるじゃないですか」
 
 
 こともなげに発せられた吾妻の一言に、真樹夫がぽかんと口を開く。困惑と驚愕が混じった眼差しで吾妻を見詰めて、数度瞬きを繰り返す。そうして、空気が抜けるような声で言った。
 
 
「弥生を使ったのは俺や」
「ええ、そうでしょうね。父さんに金庫を開けさせられるのは、弥生だけです。父さんは弥生の言うことなら何でも聞きますからね。遺言状を変えようと思ったら、弥生を使うしかない。『弥生を脅す』という兄さんの選択は正しかったと思いますよ」
 
 
 出来の悪い生徒を誉めるような言い様だった。
 
 『弥生を脅す』。その言葉を聞いた瞬間、健一の脳裏に蘇る記憶があった。健一が真樹夫に牛乳をぶちまけた日、障子の奥から聞こえてきた隠微な真樹夫の声、その台詞。
 
 
 ――「お前は親父の男妾」「親父が死んだら一つも価値がない」「お前がこの家」「生きるため」「どうしたらいいか」――
 
 
 あれは、きっと遺言状をすり替えるように弥生を脅していたのだろう。気の弱い弥生のことだ。少し脅かせば素直にいう事を聞くと、真樹夫が思っていても不思議ではない。
 
 しかし、実際には、弥生は真樹夫を裏切った。すり替えられた遺言状は、吾妻が用意したものだった。裏切れば、真樹夫に制裁されることは予想出来ていただろうに。どうして、弥生は真樹夫ではなく吾妻を選んだのか―――
 
 思い浮かんだのは、縋り付くような弥生の瞳。ゆるして、と叫ぶ惨めな声。
 
 そういえば、弥生は何処へ行ってしまったのだろうか。
 
 
「何でや、俺裏切ったら、自分がどうなるか十分解っとったやろうに…」
 
 
 悶えるように断続的な言葉を吐き出す真樹夫の姿が苦しい。自分の間違いを認めたくない、だが認めざるを得ない、それが耐え切れないとでも言いたげな姿だった。苛立ったように、つま先で床を踏み締めている。
 
 そんな真樹夫を見詰める吾妻は、何処までも冷めた目をしていた。自分の兄が苦しみ悶える姿に、欠片も心を動かしていなかった。
 
 
「真樹夫兄さん、人を使う時は、完全な弱味を探しておくべきですよ。弥生を使うつもりなら、単純な脅しではなく、もっと確実なものを押さえるべきでしたね」
「確実なもの?」
「弥生には父親がいます」
 
 
 不意に、心臓を鷲掴みにされた気がした。確か、弥生が父親について語っているのを聞いたことがある。記憶を手繰り寄せながら、健一は弥生の言葉を脳裏で反芻させた。
 
 
『家を去る時、父親が泣いて追い駆けてきました。黒いリムジンの後ろを裸足でぺたぺたと。最後は転んで、地べたを這いずって…ほんと、見っとも無くて仕方ない…』
『父の言う通り、私はいつか野垂れ死にます。罰です。父を見捨てた罰です。私は野垂れ死にます』
 
 
 父親を見捨てたことを後悔し続けていた弥生。その父親を利用して、吾妻は弥生を脅したのか。
 
 それを思えば、怒りよりもずっと強い濁流のような悲しみが襲ってきた。俯いて、健一は自分の心臓が冷たく萎縮していくのを感じた。
 
 真樹夫の歯噛みするような声音が聞こえる。
 
 
「…初めて知ったわ、あの男妾に身内がおったなんて」
「弥生の父親は、病院で死に掛かっています。もう助かりません。だから、僕は言うことを聞けば、父親に会わせてやると弥生に約束しました」
「そんな事、言ってもええんか? 俺は弥生を探すで。探して、俺を裏切ったことを十分、十分後悔させてから、殺したる」
「どうぞご自由に。弥生もそれを望んでいます」
「望んでいる?」
「野垂れ死ぬことを」
 
 
『そんなわけないだろうが!』叫ぼうとした声は、咽喉の奥で絡まって出てこなかった。
 
 ひたすら、頭の中を『死』という言葉が呪いのように回っていた。弥生は、死ぬのか。殺されるのか。真樹夫を裏切ったせいで、嬲り殺しにされるのか。
 
 きっと、弥生は自分の結末を知っていたんだろう。だから、健一に許しを乞った。綺麗事な願いを語って、切なく哀願した。
 
 いや、違う。違う、弥生が許して欲しかったのは、本当に許して欲しかったのは、健一じゃない。父親だ。あの日、裸足で泣きながら弥生を追い掛けてきた父親だ。弥生は、今父親に許しを乞いに行っているのだろうか。死に掛けた父親に、一度見捨てた父親に、最期の許しを。
 
 そうして、弥生も最期には野垂れ死ぬのだ。諦めたように、自分の人生を『ろくでもない』と思ったまま。
 
 吾妻に掴まれた手首に、グッと力が篭る。固くなった筋肉に驚いたように、吾妻が健一をそっと見下ろす。その視線を見返して、健一は自分の顔が歪んでいくのが分かった。
 
 言葉が出なかった。ただ、余りにも『酷い』と思った。何が酷いのか、誰が酷いのか、上手く言葉に出来なくて、ただひたすら弥生の全てを諦めたような笑いだけが瞼の裏でぐるぐると回っていた。
 
 
――弥生、もういい。もういいよ。
 
 
「お前、何考えとるんや。俺も将兄も敵にして、お前はどうしたいんや」
 
 
 酷く疲れきった言葉だった。首を左右に振っている真樹夫は、一時間前よりもずっと年を取って見えた。もう唇を閉じるだけの力もないのか、半開きになった唇が哀れみを誘う。
 
 吾妻は、肩を竦めた。嘲笑じみた苦笑いを唇に浮かべて、それなのに顔は少し泣き出しそうにも見えた。
 
 
「僕は、家族を一つにしたいだけですよ。組が消えたら、繋ぎとめるものがなくなった僕らは家族ではなくなってしまう。それに、組が将真兄さんと真樹夫兄さんだけのものになったら、僕は追い出されてしまう。だから、僕のものにしたんです。僕は兄さんたちを追い出したりなんかしませんよ? だって、僕らは家族ですもの。そうでしょう?」
「こんなん家族なもんか」
「家族ですよ。僕らは家族です」
 
 
 吾妻の切実な声に、吾妻と真樹夫の視線が一瞬絡む。絡み合った視線は、決して柔らかさや温かさを伴ってはいなかった。酷く冷めた壁が、二人の視線の間には聳え立っていた。
 
 交わっているのに、交わることのない視線、言葉、感情。噛み合わないジグソーパズルを組み合わせようとしているような不自然さがそこにはあった。その不自然な軋轢から生まれるのは、悲しいものばかりだ。
 
 
「お前は阿呆や…こんなんどう考えても、良い方向には行かんで」
 
 
 掠れた声が真樹夫から零れ落ちる。
 
 
「そうかもしれません」
「お前は将兄の全てを奪ったんや。わかっとるんか?」
「解っています。将真兄さんは僕を許さないでしょうね。例え、兄さん達が僕を殺しても、僕が兄さん達を殺してしまっても、僕は兄さん達を愛してますよ」
 
 
 愛してるという割りには、吾妻の声は出来損ないのロボットのように固かった。真樹夫が「なんやそれ…」と呻くように呟く。
 
 
「お前、親父も殺したんか?」
 
 
 真樹夫が発した言葉に、健一の肩は微かに跳ねた。吾妻は薄笑いを浮かべている。それは言外で、そうだ、と答えているようにも見えた。
 
 
「腹沢さんの診断は末期癌による臓器不全でしたが?」
「腹沢の言うことなんざ信じられるか」
「あれでも専属医師ですよ」
「あんの腐れ医者、いつか化けの皮剥がしたる…。お前もや真澄、此処までしてタダで済むと思うな。絶対、絶対や、お前の大切なもん全部奪って、殺す」
 
 
 威嚇する犬にも似た、真樹夫の唸り声。ぞんざいに伸びた前髪の間から覗く真樹夫の瞳は、どす黒く濁っていた。決して、家族を見る目ではない。ゴキブリ、溝鼠、敵、道端に落ちているゴミ、人殺し、それらを全てごちゃまぜにした『悪の源』を見るような殺意に満ちた眼差しだった。
 
 その瞳を真っ直ぐと見据えて、吾妻は一度瞬き、そうして笑った。どんな表情をしたらいいのか解らず、とりあえず笑ってみたような、困った笑い。
 
 しかし、それは次第に歪んでいき、いつものあの情けない泣き笑いが吾妻の顔に浮かんでいた。それを見て、健一は呟いた。
 
 
「バカ」
 
 
 途端、吾妻の指先が手首に食い込んだ。その指先は、健一を痛めつけるというよりも、健一に救いを求めているような切実さを孕んでいた。もう一度、咽喉の奥で「ばか」と零して、泣きそうな吾妻の笑みから目を逸らした。
 
 

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