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32 これは恋 これは愛 これは

 
 真夜中の廊下を、抜き足で歩く。
 
 深夜零時、灯りが無くなり、人気も消えた屋敷の廊下は、不気味なほど静まりかえっていた。時折、不意打ちのようにジッというセミの鳴き声が暗闇の奥から響いて来る。
 
 じっとりと湿った生ぬるい空気が皮膚に纏わり付いて、毛穴を塞ぐ。額に滲み出てきた汗を手の甲で拭って、健一はそっと息を吐き出した。足を踏み出す度に、床が小さく軋み音を立てる。それに緩く肩を跳ねさせながら、ゆっくりと慎重に足を進めていく。
 
 遺言状が読まれた夜に真昼の部屋に行く、という真昼との約束。遺言状がすり替えられた今、そんな約束はもう意味を成さないのかもしれない。もう真昼にも健一にも、逃げるなどという選択肢はありはしない。だが、それでも、健一は希望の残骸に縋り付かずにはいられなかった。逃げられないのが解っていても、それでも尚逃げたいと心臓が喚き散らしていた。
 
 真昼に会いたかった。遺言状が読まれた際の、あの真昼の青褪めた顔、嘘よと呟かれた声の儚さ、それら全てが理由もなく健一の心臓をざわめかせた。仄暗い影がじわじわと体内に枝葉を広げていく感覚。根拠のない不安、恐怖、慄きにも似た感情が体内で増殖して、健一の足を闇へと駆り立てた。知らず間隔が短くなっていく呼吸が苦しい。
 
 
「どこ行くの?」
 
 
 不意に幼げな声が届いた。警戒心もなく足取りを止めてしまったのは、余りにも邪気のない声音だったからだ。
 
 視線の先に居たのは吾妻だった。暗闇の中、健一の頭を沈めた池の前に、行き場をなくした子供のようにぼんやりと立ち竦んでいる。
 
 その姿を視界にいれた瞬間、健一の背筋を走ったのは嫌悪にも似た恐怖だった。だが、健一を見つめる吾妻は、まるで外出する母親に行き先を尋ねる子供のような瞳をしている。
 
 
「眠れないの?」
「…お前こそ、何してんだよ…」
「僕? 僕はいろいろ考えてたら眠れなくなって。起きてても、どうせ考えちゃうから意味がないんだけどね」
「…どうせろくでもないことばっか考えてるんだろうが。お前、どうするつもりだよ」
「どうする?」
 
 
 まるで無知な子供のように首をひねる吾妻を、もどかしい心地で睨み付ける。
 
 解ってないはずはないだろうに、解らないフリをしているのか。それとも、本当に脳味噌が赤子にでも逆戻りしたのだろうか。いっそ後者の方が良い。こんな奴、赤ん坊にでも戻ってしまえばいいんだ。そうして、今度はもっと普通の、普通に温かい家族の中で生き直せばいい。そうすれば、健一はもうこんなもやもやした気持ちからは解放される。吾妻に切なさや憐憫など感じなくなる。
 
 鈍く歯噛みしながら、唸るように声を吐き出す。
 
 
「お前の兄ちゃん達、すげえ怒ってた。ただじゃ済まない、って言ってたじゃんか」
「うん、僕は殺されるだろうね」
 
 
 他人事のように軽く吐き出して、吾妻は、ふぁ、と長閑に欠伸を零した。自分の命を蟻の命や何かと勘違いしているような態度だった。
 
 その吾妻の態度に、健一はぽかんと口を半開きにして、それから、胃が捻じ切れるような猛烈な怒りを覚えた。怒声を浴びせかけようと開いた健一の唇を閉じさせたのは、吾妻の淡い泣き笑いだ。暗闇の中で、ぽっかりと浮かび上がるように、その微笑みだけが眼球の奥まで浸透してくる。
 
 
「健一が早く殺してくれないから悪いんだ」
「は、ぁ?」
「殺すって言ったのに、復讐するって決めたくせに、健一はいつまで経っても僕を殺してくれないじゃないか。僕はいい加減待ち切れないんだ。健一、早く殺してよ。僕、何だか辛いよ。健一が殺してくれないから、ぼく、つらい」
 
 
 開いた口が塞がらないとはこの事だ。殺されないことが辛いだなんて、支離滅裂にも程がある。呆然と吾妻を凝視すれば、吾妻が所在なさげに肩を揺らして笑った。そうして、小さな声で「そうじゃないと」とじれったく続けた。
 
 
「じゃないと?」
「死体が増えちゃうよ」
 
 
 醒めた声だったが、同時に泣いた後のような掠れた声でもあった。その隠微な声に、ぞっと皮膚が粟立つ。『死体が増える』なんて、不吉な台詞だ。一体、その言葉は何を意味しているのだろうか。誰の死体を。
 
 その言葉の真意を図るように吾妻を見つめるが、吾妻は健一などそ知らぬように真っ黒な池を眺めている。闇の中、池なんてただの黒い穴にしか見えないだろうに、それでも吾妻は見つめたままで。
 
 
「どういう意味――」
「行く場所あるんでしょ? 行けばいいよ」
 
 
 健一の問い掛けを払いのけて、吾妻が放り投げるように呟く。まるで会話を放棄するような口ぶりが気に入らず、健一は苛立ちに眉根を寄せた。しかし、ここで無闇に時間を吾妻に割くわけにはいかない。真昼のところへ行かなくては、という当初の目的が脳裏に浮かぶ。
 
 
「お前に言われなくたって、行くさ」
 
 
 捨て台詞を吐き出し、吾妻から視線を逸らして、再び歩き出す。
 
 吾妻は、まだ池を眺めているのだろうか。その暗い穴に、何を見ているのか。何を見出しているのか。それとも、何も見ていないのか。何も見たくないから、暗闇を見つめているのだろうか。
 
 絡んだ思考が巡る。それらを全て切り捨てて、健一は吾妻のことを頭から閉め出した。
 
 吾妻のことを考えている場合ではない。吾妻のことよりも、ずっと真昼のことを考えてなくては。だって、健一がすきなのは吾妻ではなく真昼なのだ。好きな人のところに行きたいと願うのは当たり前だ。好きな人のことを心配するのはごく普通だ。どうでもいい吾妻のことで思い悩むなんて馬鹿馬鹿しい。吾妻が苦しもうが泣き喚こうが、そんなのは真昼とは比べようにはならない。例え吾妻が死に掛けて、健一の助けを心から必要としていても、自分は真昼のもとへと走る自信があった。それが恋だ。それが真実の愛だ。吾妻が健一に感じているのは真実の愛ではなく、所詮ぐちゃぐちゃに縺れ、捩れ歪んだ感情を愛情と勘違いしているだけなのだ。本当に愛しているはずならば、健一が苦しむような事が出来るはずはない。家族を殺したり、無理矢理犯したり出来るはずなんかないのだ。吾妻は健一なんか愛してない。
 
 
 だが、健一は真昼を愛してる。愛まではいえないかもしれないけど、間違いなく恋をしている。
 
 
 真昼のことを考えるだけで、気持ちが昂る。何処へでも飛んでいけるような気すらしてくる。真昼が傷付いていたら慰めたい。傍にいたい。悲しませたくないからだ。喜ばせたいからだ。笑顔で居て欲しいからだ。
 
 
 真昼、真昼、と叫びながら、抱き締めたいし、キスだってしたい。吾妻なんかとじゃない。真昼とキスしたい! だって、好きだから! はは、吾妻の馬鹿野郎! オレは真昼に恋したんだ! お前じゃなくてお前の妹に! 真昼に! 畜生ざまあみろ! お前のかたる愛の空虚さを見ろ! これこそ恋だ! これこそ愛だ!
 
 考えれば考えるほど高揚してくる感情に、込み上げてくる笑いを堪えながら、一歩ずつ真昼の部屋へと近付いていく。一度訪れた真昼の部屋、散らかり放題で足の踏み場もない部屋、その前に立って息を整える。
 
 真昼は起きているだろうか。健一を待ってくれているだろうか。電灯の消えた室内は、暗闇で覆われている。もし眠っているのなら、真昼の寝顔を見よう。きっと綺麗だ。涎を垂らしていても、寝相が最悪でも、きっと健一はそれを愛しく思う。眠っていたら、どうやって起こそう。肩を揺らして、髪を撫でて、キスをして? きっとそんな度胸はないし、寝起きが悪そうな真昼のことだ。頬を引っ叩かれるぐらいの事はするかもしれない。
 
 
『眠いのに、起こすんじゃないわよ!』
 
 
 そんな真昼の声が聞こえてくるようで、健一は咽喉の奥で小さく笑いを零した。真昼のことを考えるだけで、胸が綻ぶ。笑い方を忘れていたはずなのに、自然と笑みが零れてくる。凍えていた心臓に温もりが満ちてくる。真昼のことを考えるだけで幸せになれる。
これは恋、これは愛。改めて実感すれば、身体がはち切れそうなほどの充足感が全身に満ち溢れる。
 
 
 嗚呼、真昼に会いたい。喋りたい。傍にいたい。好きだと言いたい。例え逃げられなくたって、真昼がいれば健一は笑顔を忘れずにいられる。真昼がいれば、この家にいることも耐えられる。真昼さえいれば―――
 
 
 開いた障子の奥で、真昼が宙に浮かんでいた。
 
 
 これは?
 
 

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