Skip to content →

33 真昼 *残酷描写有

 
 闇に浮かび上がるように、黒いミニスカートからぶらりと垂れ下がった白い脚が見えた。真昼の気性を現すような、真っ直ぐに伸びた足だ。真っ赤なマニキュアが塗られた爪先は、床から数十センチの位置でふらふらと頼りなく揺れている。両脚の狭間から、アンモニア臭のする液体がふくよかな太股を伝って床へと滴っていた。
 
 下から上へと視線を上らせる。見えたのは、梁から真昼の首へと繋がる太いロープ。そして、半開きになった唇から、だらりと突き出された充血し腫れ上がった赤い舌先。そうして、伏し目がちな真昼の眼球。瞬きはしていない。開かれたままの光のない仄暗い瞳は、焦点の合わないままぼんやりと宙を見つめている。
 
 暫く、その光を映さない瞳を見つめる。何度も瞬きを繰り返して、手の甲で両目を擦る。痛いぐらい、瞼が真っ赤に腫れ上がるぐらい、何度も何度も擦り続ける。その光景が瞼の裏から消えてなくなるまで、現実から消え去って夢になるまで、目が覚めるまで何度だって。
 
 気付くと、膝頭が震えていた。指先も、肩も、唇も、ぶるぶると震えて、最後はもう震えていない場所なんかなかった。歯の根がカチカチと音を立てている。
 
 風に揺られて、ロープがギシギシと鈍い音を立てる。真昼の身体が左右に小さく揺れる。その無機質な反復運動を眺めて、健一は自分の咽喉が震動じみた音を発するのを聞いた。
 
 
「ま、ぃる」
 
 
 真昼と発音したつもりだったのに、舌が縺れて言葉にならなかった。真昼は、返事を返さない。視線すら健一に向けることはない。
ひくっ、と自分の咽喉が痙攣する。真昼の身体が宙に浮いている。真昼が瞬きをしていない。真昼が息をしていない。それが何を意味するのか、健一には上手く理解出来ない。痙攣する咽喉を両手で押さえて、固まった舌で途切れ途切れな声をあげる。
 
 
「まぃ、る、おきぉ」
 
 
 起きろ、と呟く。真昼は、今寝ているんだ。寝ているから、こんな状態なんだ。首をロープで括り付けて寝るなんて、どんな最低な寝方なんだろうか。しかも、目を半開きにして寝るなんて、ホラーにも程がある。それに小便を漏らすなんて、まるで幼稚園児みたいだ。全く真昼の方がオレよりもよっぽど仕方ない。本当に仕方ない――早く、起こさないと。
 
 
「起きろよッ! 馬鹿、早く起きろッ!」
 
 
 ヒステリーを起こした女のように甲高い声を張り上げる。真昼の両脚にしがみ付いて、前後左右に滅茶苦茶に揺らす。ギチギチとロープが悲鳴じみた軋み音を立てる。その音に合わせて、真昼の身体がまるで振り子のように激しく揺れていた。それなのに、いつまで経っても足は床に下りてこない。
 
 歯痒さにも似た苛立ちが腹の底から込み上げてきて、もう制御不可能だった。繰り返し起きろと叫んでいるのに、真昼はどうやっても起きない。ずっと寝たままなのだ。
 
 巫山戯んな、オレがこんなに起きろと言ってるのに、どうして起きない! こんなにこんなに起きろって叫んでるのに!
 
 真昼の身体が雑然とした部屋中をぶんぶんと揺れながら動く。その動きを見ながら、健一は「遊んでる場合じゃないだろうが!」と、また叫び喚いた。それでも、真昼は揺れるのをやめようとしない。何で、何でだ、という不条理な疑問が浮かんでは、怒りへと変わっていく。
 
 最後はもう駄々っ子のように喚きながら、真昼の太股を両手で叩いていた。太股を叩くぺしんぺしんという音が暗闇の中、間抜けに響く。それすらも腹立たしくて、健一は劈くような金切り声を上げた。
 
 
「や、ああぁぁあ! おぎろおぉお! ばがぁぁ、おぎろぉおおお!」
 
 
 気付けば、顔面は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れていた。阿呆のように喚き散らしながら、真昼の身体を繰り返し叩く。叩いているのに、真昼の太股は赤くならない。熱くもならない。皮膚は硬直して、氷のように冷え切っている。あの春のような温もりを持っていた真昼の体温は、欠片も残っていない。
 
 
「ねるなあぁぁぁあ! おぎぉろおおお! まひるっ、死ぬなあ! 死ぬなぁあ!」
 
 
 死ぬ、という単語が出てきたことに自分自身驚愕する。息が止まって、一瞬思考が真っ白になる。
 
 
 ――真昼が死ぬ。死んでいる。真昼が死んだ――
 
 
 思考が脳味噌の周りを一周して、それから後頭部で炸裂する。核爆弾が破裂したような衝撃が体内に走って、健一はそのまま横倒しに床に倒れた。肩と側頭部が壁にぶつかったが、もう痛みなんて感じなかった。両手で胸倉を掴んで、必死で呼吸を繰り返す。ヒー、ヒィー、という何とも情けない呼吸音が咽喉から零れて、そのくせ空気なんて殆ど吸えていなかった。
 
 
 苦しい。息ができない。苦しい。息が、苦しい。息ができな、苦しい。息が、いきが、いきがいきがいきが、苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい苦し苦しい苦し。苦し苦し苦し苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦、嫌、嫌、嫌、嫌、イヤイヤイやいやいやいやいやいやいや、ややややややーーーー、真昼が死ぬなんていや、死んじゃいや、死んだらだめだ、死なないで、いや、いや、こんなのいやだ、まひるが死ぬなんておかしい、まひるが死ぬなんて、しぬ、しぬ、死ぬっていったいなんだ、息をしない、呼吸をしない、心臓がとまる、もう喋らない、笑わない、手を握り返してくれない、焼肉を一緒に食べにいけない、わんこって呼んでくれない、もうオアフ島にも行けない、オアフ島でモアイも探せない、すきって言えなかった、こんなにもすきなのに、すきだと伝えられなかった、こんなにも真昼に恋をしていたのに――
 
 
「まひる、ずきだ」
 
 
 鼻水混じりの声で囁く。真昼の身体が余韻のように小さく前後に揺れて、まるで返事をくれたように見えて、健一は少しだけ笑った。笑って、それから悲鳴にも似た嗚咽を迸らせた。
 
 もう返事なんか貰えるわけがない。分かり合えない、分かち合えない、真昼にはもう何も届かない。野球道具を貰ってどれだけ心が慰められたのかも、一緒に逃げようと言ってくれてどれだけ救われたのかも、わんこじゃなくて健一って呼んで欲しかった気持ちも、どれだけ真昼が好きだったのかも、もう真昼には伝わらない。真昼は死んでしまったのだから。真昼は死んだんだ。真昼は死んだ。
 
 
 『四番バッターでホームラン王の泉健一、でしょう?』
 
 
 そう言って、あの日真昼は健一の手を握り締めたのだ。その掌は、春のように温かく健一の心を溶かした。他愛もないその一言を、他愛もなく言える人間がどれだけいるのだろうか。そんな風に、缶ジュースでも放るような気安さで、真昼が健一へと投げた小さな優しさがどれだけ健一を救ったのか、真昼は知っていたのだろうか。その一言で、恋に落ちた少年がいたことに、真昼は気付いていたのだろうか。
 
 真昼、こんなにも好きだったんだ。違う、過去形じゃない。好きなんだ。今だって、真昼が死んだ今だって、好きだ。すきですきでたまらなくて、どうしたらいいか分らない。どうすれば、この痛みはなくなる。悲しみは癒される。この恋心はなくなる。永遠に失くなりはしない。死んでもすきだ。死んでも、ずっとずっと好きだ。
 
 咽喉が張り裂けそうなほど泣き叫んだ。慟哭を上げて、狂ったように床を転げ回りながら頭を掻き毟った。両脚をばたつかせて、何度も壁を蹴り飛ばした。
 
 苦しかった。痛かった。悲しくて堪らなかった。いっそのこと死んだ方がマシなほどの苦痛だった。身体が四方からバラバラに裂かれているような感覚、悲痛、寂寥、憤り、絶望、死、全てがごちゃまぜになって健一を蝕み、甚振った。順々に食い潰していくように、闇が末端から心臓へと向かってじわじわと這い上がってくる。
 
 やめて、やめて、オレを黒で染めないで。オレをもう汚さないで。引き裂かないで。踏み躙らないで。あぁあぁ、もういっそ殺して。
 
 
 舌を噛み切ってしまえば、死ねるだろうか。死ねば楽になれるだろうか。真昼にもう一度会えるだろうか。幽霊になって『バッカじゃない、あんたも死んじゃったの?』なんて軽々しい口調で困ったように笑ってくれるだろうか。それとも、意識も何もない無の世界に呑まれて、真昼の存在も、健一の存在も全て消え去ってしまうのだろうか。どれにしても、生きている今よりかはマシな気がした。
 
 口を大きく開く。舌を口外へと突き出して、その触れる外気の思いのほかの冷たさにひくりと舌先が震える。躊躇いはなかった。恐怖もなかった。悲しみだけがあった。その悲しみの中で死のうと思った。一瞬か暫くの痛みと苦しみを我慢すれば、もう二度と悲しみも痛みもない。涙を流すこともない。その向こう側に行けるのならば、もう何も要らない。
 
 顎骨に力を込めて、息を大きく吸う。そうして、一気に歯を噛み締めようとした瞬間、健一は吸い込んだ空気の中から何かの匂いを感じ取った。アンモニア臭に混じって漂う甘い匂い。何処かで嗅いだ覚えのある匂い。朽ちかけた花のような甘い――
 
 咄嗟、蜘蛛のように真昼の腹に張り付いた。背伸びをして、真昼の脇腹に鼻先をきつく押し付ける。そのまま鼻腔いっぱいに空気を吸い込む。
 
 淡く漂う甘い花弁の匂い。その匂いは、真昼の背から強く香ってきた。どうして背から、そんな匂いが漂ってくる。香水は背中に付けるものだろうか。誰かの移り香だとすれば、どうして背に香りが移る。何故背に密着する必要がある。
 
 疑惑が脳裏に浮かんだ瞬間、記憶の底から蘇ってくるものがあった。母親のついでに見た安っぽい火曜ドラマ、不倫相手の男に背後から首を絞められて殺害される女性、そんな映像が走馬灯のように走る。
 
 そうして、健一は思い出す。消え入りそうな淡い花の香りは、芳醇な肉の臭いに混じって嗅いだのだ。健一を抱き締めて、『許して欲しくない』などと傲慢な台詞を吐いた男、先ほど出会い『死体が増える』と脅しじみた台詞を吐いた男、その男から漂ってきた匂い。吾妻真澄の匂い。
 
 思考が一本の線に繋がった瞬間、健一の取った行動は早かった。殆ど反射的と言っても良いほどに迅速かつ突発だった。
 
 以前真昼に見せてもらったフォールディングナイフ、オズボーンは冷たい太股に括り付けられたままだった。それを殆ど毟り取るように掴み、一気に駆け出す。部屋から出る瞬間、健一の叫び声を聞いてやってきただろう誰かが「おいっ!」と健一を呼び止めたが、そんなのはどうでも良かった。ただひたすら駆ける。風景が次から次へ足早に後方へと流れ去っていって、眩暈がするようだった。息をする必要なんかない。思考する必要もない。必要なのは凝縮された純然たる殺意だけ。吾妻を刺し殺す意思さえあれば。
 
 
 ――真昼を殺したのは吾妻だ――
 
 
 あの意味深な言葉、吾妻と同じ匂いが香る真昼の死体、全てが吾妻が殺したことを物語っている。
 
 例え、その仮定が違っていても構わない。とにかく健一は吾妻を殺さなくてはならない。違う、健一は吾妻を殺したいのだ。
 
 もう理由は判らなくなっていた。真昼を殺したからか、家族を殺したからか、健一を犯したからか、もうそれらのどれが理由なのか、もしくはそれら全てが理由なのか、もう健一には何も分からなかった。もういいのだ。もういい。もう理由なんかあろうとなかろうと関係ない。
 
 熱の衝動だった。殺意が熱と絡み合って、思考能力を奪い、吾妻を殺すことしか考えさせなくさせる。
 
 池の前に、まだ吾妻は立っていた。真っ黒な池を見つめていた瞳を駆けてくる健一へとゆったりと向けて、吾妻は笑う。
 
 泣き疲れた子供のように笑う。
 
 何か言おうとして薄く開きかけられた吾妻の唇を見つめながら、健一は走り続けた。
 
 もう何も聞きたくなかった。言い訳も開き直りも、手前勝手なエゴも、同情されるべき過去も、何一つとして聞きたくはなかったし、受け容れるつもりもなかった。何一つ聞かせず、語らず、吾妻は死ぬべきだった。真昼ではなく吾妻が死ぬべきだった。
 
 距離が縮まっていく。もう後十歩も走れば終わりだ。駆けながら、フォールディングナイフの刃を飛び出させる。右手に握り締めたナイフは、やけに軽かった。人の命のようだと思った。虫けらのように軽くて仕方ない。
 
 吾妻は、ナイフを見ても、まだ笑ってる。死ぬときまで笑ってるつもりだろうか。健一に殺されることを悦びながら死んでいくのか。構わない、そうやって死にたいのなら死ねばいい。お前がフォークで懇切丁寧に教えたとおりに頚動脈を刺してやる。お前が望んだとおりに死なせてやる。血を噴き出し、断末魔の悲鳴を上げて藻掻き苦しみながら死ぬんだ。違う、死ぬんじゃない殺すんだ。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺してやる。殺すしかない。殺してやりたい。殺す。殺すんだ! 殺してやりたい! 殺すしかない! 殺す! 嗚呼、オレは殺したくて泣き出しそうなくらいなんだ! 殺したくて泣きたいい!
 
 頚動脈を狙って切っ先を突き上げた瞬間も、酷く軽かった。豆腐でも切るように、柔らかい肉に刃先がめり込む瞬間を、健一は見た。目の前で赤い液体がスプレーのように散って、顔面に噴きかかる。生ぬるい血が頬を滑って、地面へと滴り落ちた。現実は、あまりにも軽かった。
 
 

backtopnext

Published in catch1

Top