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34 加害者の手 *暴力描写有

 
『壁』が立ち塞がっていた。
 
 斜め上へと向かって突き出されたナイフは、その壁の左腕へと根元までずっぽりと埋まっている。刃によって穿たれた肉の穴から、黒っぽい血が惰性のようにたらたらと流れていた。数秒、その光景を健一は呆然と眺めた。
 
 この壁は、何度か見たことがある。吾妻の傍に寄り添うように立っていた壁のごとき大柄な男。健一が吾妻に蹴られているとき、それを傍から黙って眺めていた男。そうやって黙って、何もしなかったくせに、そのくせ健一が吾妻を殺そうとしたら邪魔をするのか。繰り出したナイフの前に身を挺して、その腕を犠牲にしてまで吾妻を守ろうとするのか。
 
 そう思った瞬間、駄々にも似た憎悪が込み上げてきた。突き刺したナイフの刃を、埋めた肉の反発も構わず、九十度回転させる。ギチッと固い筋肉が寸断される音を、ぐちゃりと血が潤む音を、健一は聞いた。全身が総毛立つような酷く気色悪い音だった。
先ほどまで無表情に近かった壁男の眉間に、薄っすらと苦痛の皺が刻まれる。しかし、悲鳴は上げない。唇の隙間から、悲鳴を噛み殺している奥歯が覗き見える。
 
 そうして、壁男の肩越しに吾妻の微笑みが見えた瞬間、健一は我を忘れて吼えていた。
 
 
「邪魔すんなアぁ!」
 
 
 埋め込んだ刃先で、更に肉を掻き回す。ぐちゃんぐちゃんと水っぽい音と共に、ギザギザに広げられた傷口から水鉄砲のように血が噴き出る。
 
 血の隙間から見えたのは、切断された筋組織だ。やけに現実味のない鮮やかなピンク色をしていた。ピンク色の奥から白っぽい骨が垣間見える。皮膚一枚剥いだ人間の内部だった。
 
 それらを刃を抉る度に、顔面が真っ赤に染まっていく。顔に飛び散った血は、思っていたよりも粘着いていた。血が眼球に入って、目の前の光景が真っ赤に染まる。
 
 世界は真っ赤だ。オレの手は真っ赤だ。
 
 
「健一さん、止めて下さい」
 
 
 思ったよりも平静な男の声が鼓膜を撫でる。厳ついナリとは真逆な優しげな声だった。初めて会ったときの、吾妻の声の印象に似ている。それが更に健一の憎しみを煽った。
 
 ナイフを一思いに引き抜いて、今度は腹部を狙って突き出す。男は逃れなかった。腹部中央に鋭い刃が埋まっても、悲鳴一つ上げなかった。血すら殆ど出てこなかった。まるで刃のない柄だけのナイフを押し当てたような光景。だが、ナイフ越しに、内臓が切り裂かれる気色悪い感触は、掌に確かに伝わってきた。
 
 
「健一さん」
「なんでっ、何で、邪魔すんだよおォ! なんでだよ、なんでなんだよォっ!」
 
 
 金切り声で喚き散らす。地団太を踏んで、男の足を何度も蹴りつけた。
 
 余りにも理不尽だった。不条理だった。不公平だった。どうして邪魔されなくてはならない。どうして、吾妻を殺したいのに、こんなにも殺したいのに、どうして、
 
 男の大きな掌が健一の額に置かれる。掌に促されるように、ゆっくりと顔を上げれば、男が健一を見下ろしていた。奥深な瞳は、悲しみで彩られている。
 
 その瞳を見た瞬間、健一はとてつもない感情の濁流に襲われた。感情の嵐が心臓を滅茶苦茶に食い荒らして、健一の涙腺を崩壊させる。
 
 咽喉から悲鳴にも似た泣き声を上げる。生まれたばかりの赤ん坊のように大声をあげて、泣きじゃくった。泣く以外にどうしたらいいのか、もう何もわからなかった。
 
 腹に突き刺さったままのナイフから、手が滑り落ちる。膝から地面に落ちて、真っ赤な両手で顔を覆って叫ぶ。
 
 鉄錆びた血の臭い、人の肉の感触、血でぬるついた掌、もうそれは被害者のものではなかった。泣いて喚いて、ただ自分の不幸を嘆き悲しんでいればいい被害者では、もうなかった。
 
 ざわつきが聞こえる。真昼の死体が見つかったのだろうか。廊下をばたばたと駆ける足音が響いて、健一の脳味噌をガンガンと揺らす。
 
 傍らの縁側からも人の声が聞こえた。この刃傷沙汰を見つけて、どう手を出すべきかあぐねている人間達が健一たちの様子を窺っている。しかし、そんな事はどうでもよかった。血まみれの掌で顔を覆ったまま、何もかもが消えることを願った。
 
 
「誰が代わりに刺されろなんて言った、横田」
 
 
 ざわつきの中、吾妻の無感動な声がしんと響く。腹を抱えながら、横田と呼ばれた男が鈍く吾妻を振り返る。
 
 
「自分の仕事は貴方を守ることです」
「勤務時間外だ」
「時間なんて関係ありません。自分には貴方を守ることしかありません」
「随分と、つまらないことを言う」
「自分は――つまらない人間です。身体でしか貴方を守ることのできない、つまらない人間です」
 
 
 横田の声が切なげに歪む。「退け」と横田をぞんざいに押し退けた吾妻は、そのまま地面に蹲る健一の頬へと手を伸ばした。血にまみれた頬を指先でそっと撫でて、吾妻はくしゃりと顔を崩した。
 
 
「殺せなかった、ね」
 
 
 そう囁いて、弱々しく笑う。残念そうな、名残惜しそうな笑みだった。涙でぐちゃぐちゃに濡れた健一の瞳を見下ろして、それから吾妻は健一の頬に拳を振り下ろしたのだ。
 
 ガツンと頬骨に衝撃が走って、痛みを感じる間もなく、地面の上を転がった。その唐突な殴打に、健一は憤怒を覚える前に呆然とした。地面に倒れたまま見上げれば、拳を赤く染めた吾妻が酷く冷めた目をして健一を見つめていた。
 
 
「これだけ犠牲を払っても、まだ足りないの? 幾つ死体があれば僕を殺せる? 僕は、どうすればいいの? 教えてよ健一」
 
 
 理不尽な投げかけを繰言のように吐き出して、吾妻は同時に足先を健一の腹にめり込ませた。えずく暇もなく、砂利の上を身体が滑る。
 
 込み上げて来る嘔吐感を、腹を抱えて必死に耐える。痛苦が頬と腹部で破裂している。痛くて堪らないのに、嗚咽がとまらない。泣くと、痙攣した内臓が痛むのに、涙が溢れてとまらない。しゃくり上げる微かな声が闇に小さく響く。
 
 
「泣いてる暇があるなら答えろよ」
 
 
 靴裏でこめかみを踏み躙られる。頬が粗い砂とこすれて、擦り切れた皮膚から血が滲んだ。
 
 何も答えられなかった。答えられるわけがなかった。悲しみが水のように全身を浸食していく。もう殺したいも死にたいも関係がない。区別が付かない。家族が死んだことも、真昼が死んだことも、自分が生きていることも、吾妻が生きていることも、全てが等しく残酷だった。
 
 何かが倒れるような音が響く。涙で霞んだ視界に見えたのは、横田が腹にナイフを埋めたまま倒れている姿だ。まるでモノでも眺めるように吾妻が横田を見据えて、それから縁側へと視線を投げる。
 
 
「腹沢を呼べ」
 
 
 吐き出した一言は簡潔だった。縁側で呆然と此方を眺めていた観客達が慌ただしく動き始める。その忙しい足音を聞き終わる前に、意外なほどの優しさで肘を掴まれる。そうして、その優しさとは裏腹の乱雑さで地面の上を引き摺られた。
 
 仰向けに倒れたまま、地面を滑っていく。掴まれた肘が痛かった。茫洋と視線を動かせば、肘を掴んだ吾妻の手が見えた。その手の関節は、色を失って真っ白だ。きっと顔も真っ白になっている。
 
 次第にざわめきが大きくなっていった。真昼の部屋の前に、幾人もの人が固まって立ち尽くしていた。その中には真樹夫もいる。呆然と梁にぶら下がった妹の姿を見つめている。健一からは、真昼の腰から下しか見えなくて、何だか悔しかった。
 
 真樹夫が気付いたように、視線を吾妻と健一へと向けた。その目は、宇宙人でも見るような、信じれないものを見る眼差しをしている。そうして、叫んだ。真樹夫が引き攣れるような声で叫んだ。
 
 
「ここまでやるのか! お前は、ここまでやって、何がしたい!」
 
 
 吾妻は答えなかった。健一も答えなかった。きっと誰も、答えなんか知らなかった。
 
 

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