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35 化物

 
 布団にぞんざいに放り投げられて、身体の上に圧し掛かられたときも何も思わなかった。
 
 吾妻が健一を見下ろして、玩具を買って貰った子供のような満面の笑みを浮かべている。その笑みを茫洋と眺めたまま、健一は微動だにしなかった。
 
 唇に柔らかくキスを落されて、きっとこれから犯されるであろう現実を理解したが、抗うだけの力も理由もなかった。犯されようが、殺されようが、生かされようが、もう健一にとってそれら全てが等しかった。等しく、空虚だった。
 
 丁寧な手付きで、吾妻が健一の服を一枚ずつ剥ぎ取っていく。ボタンを外す指先の繊細さが、やけに目に残った。
 
 
「健一、真っ赤だ」
 
 
 熟したトマトを目の前にしたかのような台詞を、吾妻が耳元で隠微に囁く。脱がされたシャツが目の前に掲げられる。白いシャツは至るところに返り血がこびり付いていた。シーツの上に転がった腕へと視線を遣れば、肘近くまで乾きかけた血で赤く染まっていた。爪の間まで、深く血が入り込んでいる。きっと、吾妻が見下ろす健一は、顔も身体も返り血で真っ赤になっているのだろう。
 
 腫れ始めた健一の頬を、吾妻が指先で緩やかに撫ぜる。
 
 
「横田は死んだかな?」
 
 
 揶揄かうような声音に、腹の底で嫌悪が膨らんだが、直ぐに風船のように萎んでいってしまった。感情も意思もない空洞のような眼球を、ただ反射のように吾妻へと向ける。
 
 
「死んでればいいのに。そうすれば、健一は僕と同じ。おんなじ『人殺し』」
 
 
 吾妻の嬉しそうな顔ったらない。笑い皺の刻まれた頬、その醜悪さ、おぞましさ。
 
 指一つ動かせないガラクタのような自分の身体。ガラクタを裸に剥いた吾妻がその胸元に吸い付く。米粒のような乳首を、確かめるように舌先でねぶる。ひくり、と鎖骨付近が震えた。
 
 
「ひとごろし」
 
 
 震えに共鳴するように、無意識に咽喉がか細く声を発していた。それが自分の声だと気付くのに、数秒を要した。
乳首の先端と舌先を唾液の糸で繋いだ吾妻が顔を上げる。そのまま、健一の顔を覗き込んだ。その瞳を無感情に見つめ返して、空気にも似た声を発する。
 
 
「おまえが殺した」
 
 
 吐き出す声が、言葉が、掠れて溶ける。自分が何を喋っているのか、既に脳味噌は感知していなかった。唇がまるで自分のものではないかのように勝手に動いて、言葉を発する。瞳は逸らさない。健一も逸らさないし、吾妻も逸らさない。
 
 
「僕じゃない」
「おまえだ」
「結果的には僕かもしれないけど、手を下したのは僕じゃない」
 
 
 屁理屈じみた台詞を吐いて、吾妻が口角を皮肉げに吊り上げる。その掌は、蹴り飛ばされ麻痺した健一の腹を思わせぶりに撫ぜていた。その欲深な手付きに、皮膚が不快に疼く。
 
 
「じゃあ、だれが殺した」
「父さんを殺したのは弥生だよ」
 
 
 昨日の晩御飯でもいうような気軽な口調で、吾妻が言う。その言葉を聞いた瞬間、健一は驚愕すると同時に、酷く合点のいった心地にもなった。健一が真夜に殺虫剤をかけられたあの日、弥生に会ったときの焦燥と狂気、そして哀願。あれは吾妻真之介を殺害したからこそだったのか。しかし――
 
 
「どうして、弥生が殺さなくちゃいけない。弥生は遺言状を代えるだけでよかった。それなら、自然にじいちゃんが死ぬのを待つだけでもよかったはずだ。殺す必要なんてなかった」
 
 
 頭で噛み砕く前に、唇が勝手に言葉を吐き出していく。吾妻は、健一の滑らかな発言に目を丸くして、それすらも面白いと言いたげに唇を歪めた。
 
 
「最初は父さんが死ぬのを待つつもりだったんだけどね。だけど、弥生が言ったんだ。早く父さんを殺そう、って」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。弥生には時間がなかった。父さんが死ぬのを待っていたら、自分の父親のほうが先に死んでしまうからね。三日前に、弥生の父親の意識がなくなった。それを言った時の、弥生の慌てっぷりったらなかったなぁ。普段は取り澄ました弥生が僕にしがみ付いて、殺させて下さいって叫ぶんだ。早く殺させて下さいって。父さんが死なないと、弥生はこの家から出られないからね」
 
 
 そこまで言って、不意に吾妻の顔が凍る。酷く冷めた表情で、淡々と吐き捨てた。
 
 
「弥生は言ったよ。父親は私のせいでアル中になった。私のせいで肝臓癌になった。父親を私の知らないところで死なせたくない、って。だから、弥生は僕の父さんを殺した」
 
 
 冷め切った声だった。しかし、吾妻は、すぐさま笑みを浮かべ直して、弥生は仕方ないなぁとでも言いたげに肩を揺らした。
 
 その演技じみた吾妻の仕草を見ながら、健一は自分の心が急速に醒めて行くのを感じた。そうして、ぽつりと零した。
 
 
「嘘吐き」
「嘘?」
「お前がじいちゃんを殺そうって弥生に言ったんだ。お前が、自分の父親を殺せって、弥生に命令したんだ」
 
 
 吾妻が驚いたように数度瞬きを繰り返す。そうして、卑しい笑みを唇に浮かべたと思ったら、「驚いたな」と唸るように呟いた。
 
 
「どうして、そう思う?」
「あの被害者面した弥生に、人を殺そうだなんて自分から言えるもんか」
「身内が関われば、人間変わるものだよ」
「それはお前も同じだろう。言えよ。お前が言ったんだ。お前が自分の父親を殺すように、弥生に差し向けたんだ」
 
 
 殆ど断定的な口調で言い放つ。唇は淀みなく動くが、脳味噌は四〇℃の熱でも出したように熱く、飽和していた。
 
 暫くの沈黙の後、吾妻が諦めたように首を左右に振る。そうして、吐き出した。
 
 
「どうして、分かっちゃうのかな? そうだよ、僕が殺せって言った」
 
 
 その開き直った言葉を聞いた瞬間、健一の脳裏を現実じみた妄想が走った。父親が死にそうだという報告を聞き、焦燥する弥生の耳元に『父さんを殺せば、すぐにでも病院に行ける』と優しく囁く吾妻の姿。知恵の実を差し出している蛇とイヴのような、その光景。
 
 
「父親に殴られてたからか」
「え?」
「父親に、虐待されたから殺したのか」
 
 
 唐突に、吾妻が声を張り上げて嗤った。天井に反響するような高らかな笑い声に、健一は目を剥いた。吾妻が腹を抱えて、心底可笑しげに嗤う。壊れたピエロのような不気味な嗤い声だった。
 
 
「それが理由だと本気で思ってるの? 僕は父さんに殴られたことなんて、どうだっていいんだ」
「じゃあ、何で」
「名前」
 
 
 健一の言葉を遮って、吾妻が意味不明な言葉を漏らす。意味が分からず双眸を瞬かせる健一を見返して、吾妻はもう一度「名前」と譫言のように呟いた。
 
 
「あの日、弥生にモルヒネを打たないように言った。途端、父さんは癌の痛みに苦しみだしたんだ。当然だよね。もう余命三ヶ月の癌だ。骨の髄から軋んで、内臓や肉が腐れ爛れるように痛む」
「何でそんなこと…」
「父さんは、今まで僕の名前を呼んだことがない。だけど、痛みに苦しんでいる時ぐらいなら呼んでくれると思ったんだ。真澄、助けてくれ、って。だけど、父さんは最期まで僕のことを野良犬の息子と呼んだよ――≪野良犬の息子、助けろっ!≫」
 
 
 不意に、吾妻の声が罅割れる。死期を迎えた老人のようなしゃがれた声になって、その声には激しい憎悪が漲っていた。あの日の真之介を再現をしているのは明白で。その蔑みに満ちた声音に、健一の心臓は引き攣るように痛んだ。言い終わった後、吾妻の顔に滲んだのは寂寥ともつかない諦念だ。
 
 
「だから、僕は助けた。弥生にコカインを打たせた。コカインを一グラム以上、苦痛と恍惚の間で死ねる」
「そんな理由で、殺したのか?」
「健一は、お父さんから名前で呼ばれるのが当り前なんだろうね。僕は、その『当り前』が欲しかった。それだけだよ」
 
 
 それだけ、と吾妻が繰り返して、小さく吐息を吐き出す。しかし、言い換えれば『それだけ』のために吾妻は自分の父親を殺したのだ。
 
 健一にしてみれば、幼い頃に酷い目に合わされたから復讐で殺してやった、と言われた方がよっぽど納得が出来た。名前を呼ばれたいという、たった『それだけ』のためだけに、この男は家族すら殺したのか。悪寒がじわじわと足先から這い上がって、全身の体温を奪っていく。
 
 
「そんな風に、真昼も殺したのか」
 
 
 掠れ震えた声が無意識に溢れていた。吾妻が呆れたように溜息を付く。
 
 
「言ったでしょう? 僕が殺したんじゃない、って」
「引き金を引いたのがお前じゃなくても、弾を込めたのはお前だ」
 
 
 健一の例えに、吾妻が「上手いこと言うね」と笑みを零す。その長閑な笑みを見つめながら、健一は唇を戦慄かせた。
 
 
「どうして、殺した。真昼は、妹だ。お前の、妹だったのに」
「そうだよ、妹だ。だからこそ、許せなかった」
 
 
 吾妻の視線が尖る。剥き出しの眼球から溢れ出ているのは、赤黒い憎悪だ。
 
 吾妻の掌が這うように健一の胸元を滑り上がり、喉仏を真上から押さえつけた。首を絞めるというのには力が足りない程度、しかし息苦しさと苦痛は感じる。
 
 その掌から逃れようと、健一が身を捩った瞬間、吾妻が呟いた。
 
 
「健一は、真昼と一緒に逃げようとしたね」
 
 
 ぞっとするような響きをもった仄暗い声音。はっと吾妻を見遣れば、表情を一切失った吾妻の顔が見えた。詰る、責めるというよりも、断罪するようなその表情に、息を呑む。
 
 そうして、頭を過ぎった疑問に、健一は更なる恐怖を覚えた。
 
 
――何故、吾妻がそれを知っている――
 
 
 そのことは、健一と真昼だけの秘密だったはずだ。他には誰にも言っていないのに。
 
 驚愕を浮かべる健一を見て、吾妻が酷薄に笑う。咽喉仏を押さえつけていた吾妻の指先がそっとずらされる。戯れるように細い指先が真っ赤な首輪に絡まる。見せ付けるように上下に軽く動かす仕草に、健一の呼吸が止まる。健一の思考を真っ白にしていく。まさか、まさか、まさか、
 
 
「僕は取ったら殺すって言った。健一は、それをきちんと守ってくれたね」
 
 
 その言葉を聞き終わる前に、長い悲鳴が口から迸っていた。恐慌状態に陥った健一を見つめて、吾妻が嗤う。声をあげて嗤う。悲鳴と嗤い声が交じり合って、部屋中が狂気に満ちる。
 
 知らず唇から「まさか」という言葉が溢れていた。いや、違う。まさか、なんかじゃない。考えてみれば、『そんな事』は当然のことだったのだ。吾妻によって与えられ、一切取り外しを禁じられ健一から離れることのなかった首輪に【何か】が仕掛けられているのなんて、考えれば分かることじゃないか。吾妻の言いつけを無意識にしろ守っていた自分、そのせいで真昼が殺されたのであれば、真昼を殺したのは吾妻ではなく――
 
 
「全部っ、全部知ってたのか! 知ってて、オレ達のこと馬鹿にしてたのか!」
 
 
 激昂のままに喚き散らせば、吾妻が心外だとでも言いたげに眉根を寄せた。
 
 
「馬鹿になんかしてない。むしろ焦っていたよ」
「焦る!? どうして焦る必要がある! 楽しかっただろうが、馬鹿みたいに足掻いてる姿が見れて!」
「ただ逃げようとしてるだけなら焦ったりなんかしないさ。だけど、健一は…」
 
 
 吾妻の表情に苦渋が滲む。眉間に皺を寄せ、下唇を噛んで押し黙る。吾妻が耳元に唇を寄せた。そして、そっと囁いた。
 
 
「健一は真昼に恋したね」
 
 
 咽喉の奥で燻っていた暴言の数々が一瞬で凍り付く。舌の根が貼り付いて、動かなくなる。吾妻の顔は、玩具を取られた子供のように悔しそうに歪んでいる。
 
 
「真昼は、健一を連れて行こうとした。それだけなら良い。だけど、真昼は健一の心も持っていこうとした。僕には、逃げ出す二人を物理的には止められても、真昼を好きになる健一の心は留められない。人の心に歯止めはかけられない。だから、真昼を殺すしかなかった。それに真昼は、家族から一人だけ逃げ出すつもりだった。家族をやめるなんて、許さない。どうしても、許せなかった――だから、真夜に殺させた」
 
 
 溜息のように吐き出された最後の一言に、健一は目を剥いた。『双子の妹が、姉を殺すだなんてあるもんか!』と叫ぼうとした唇を押し留める。この家は、家族が殺し合うことが異常ではないのだ。この家族自体が異常だから。
 
 
「…でも、真昼からお前の匂いがした。お前が、殺したんだ」
 
 
 淡い花の匂いが鼻腔の奥に蘇る。真昼の死体から漂ってきた匂いは、紛れもなく目の前の男から香ってきたものだ。
 
 吾妻が弱々しく頭を振る。
 
 
「あれは…真夜の匂いだよ」
「お前のだ。真昼と焼肉食べにいった夜に、お前から匂ってきた」
「あの夜…」
 
 
 吾妻の声が消え入る。その消え入る直前に聞こえた言葉は、健一を慄かせるのには十分だった。電流のように背筋を走っていった寒気を感じながら、健一は掠れた声で問い掛けた。
 
 
「今、何て言った」
「真夜を抱いたよ。セックスした」
 
 
 内容とそぐわぬ子供っぽい吾妻の言い方。仮定が確信へと変わった瞬間、健一の体内を埋め付く勢いで溢れ出たのは嫌悪だ。
気色悪い。気持ち悪い。実の兄と実の妹が絡み合う現実のおぞましさ! そうして、思い出したのは、あの夜見た真夜の姿だ。黒いワンピースを身に纏って、細い指先が空中で踊るように動いていた。あの真夜の満たされた笑顔。気色悪い笑顔!
 
 吾妻が淡々とした声で続ける。
 
 
「真夜に、言ったんだ。真昼は、僕をこの家から追い出すつもりだって。もう二度と真夜に会わせないつもりだって。僕は真夜が好きだから、そんな事にはなりたくない。そのためにも、真昼を〝どうにかしなくちゃいけない〟」
 
 
 陳腐な言葉の数々だった。それを、真夜は本気で信じたのだろうか。それを信じて、自分の姉を殺す決心をしたのだろうか。そんな阿呆の戯言のような言葉を信じるほどに、盲目的に自分の兄を愛していたのか。
 
 疑惑の眼差しをした健一を見て、吾妻は僅かに困ったような笑みを浮かべた。
 
 
「抱きながら、真夜に、何度も愛してるって言ったよ。好きだって。離れたくないって。兄妹なんて関係ないって。……反吐が出る」
 
 
 不意に、吾妻の声が濁る。そうして、次の瞬間、破裂した。
 
 
「僕が愛してるのは健一だけだ。真夜なんて気色悪い。僕を愛してるって? ずっと男として見てきたって!? 妹なのに、気色悪くて堪らない! 言葉を交わすだけで鳥肌が立つ! キスなんか吐き気がする! 僕と一つになりたいだって!? お前は犬にでも突っ込んでもらってりゃいいんだ!」
 
 
 唐突なまでの吾妻の崩壊だった。髪の毛を掻き毟って、吾妻が「ヴ~」とも「ぐぅ~」ともつかない唸り声を上げる。固く瞑られた目蓋から見えるのは、実の妹に対する嫌悪だ。強張った両腕で健一を掻き抱いて、吾妻が噛み締めるように囁く。
 
 
「健一のことを想いながら真夜を抱いたよ。でも、真夜は健一じゃない。僕が抱きたいのは健一だけ。健一だけなんだ」
 
 
 耳の裏を、吾妻の舌がそっと擽る。堪らない悪寒に、健一は全身に鳥肌を浮かび上がらせた。
 
 噴き上がってきた嫌悪に突き動かされるように、吾妻の胸を両手で突き飛ばした。僅かに上半身を浮かび上がらせた吾妻がきょとんとした眼差しで健一を見詰める。その瞳を凝視したまま、健一は叫んだ。
 
 
「気色悪い!」
 
 
 その瞬間、吾妻の顔が崩れる。傷付いた表情。切なげに歪められた眉は、泣きながら彷徨っている子供のように庇護欲をそそられる。
 
 しかし、吾妻は泣いている子供ではない。目の前の男は、父を、妹を、殺した男なのだ。そのために、自分の部下に手を汚させた。妹と交わった。余りにも、恐ろしい事を、おぞましい事を――
 
 
「き、しょくわるい、気色わるいきしょくわるい、きしょくわるい…!」
「健一、やめて」
「お前も真夜も気色悪い! お前ら化物だ!」
 
 
 叫んだ瞬間、吾妻の身体が闇のように覆い被さってきた。唇を塞がれながら、健一は頭の中で『化物』と繰り返し叫んだ。
 
 

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