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37 果て *軽暴力描写有

 
 朝日が目蓋を柔らかく刺した。障子越しに、光が部屋に差し込んでいる。
 
 目を開いた瞬間、指に違和感があることに気付いた。全身の鈍痛を押し殺して、左手を軽く掲げる。左薬指の爪がない。乾いた血がこびり付いて、真っ赤な肉が剥き出しになっている。そういえば、昨日剥げてしまったんだった、と実感もないままに思い返す。
 
 同時に気付く。左薬指に指輪が嵌められている。装飾も何も施されていない、シンプルなシルバーの指輪。光に透かすように見ると、チカリと煌く。代わりのように、首輪が消えていた。
 
 ぼんやりと新たな拘束物を眺める。大した感慨はなかった。首輪が指輪に代わっただけ。
 
 身体を横に倒すと、朧がかった視界の端に炎が映った。うねりをあげて燃え盛る業火。淡い朝日の中、それは健一の瞳に鮮烈に映った。その業火は、吾妻の呼吸に合わせてゆらゆらと蠢いている。
 
 炎へと、そっと手を伸ばす。炎に指先が触れた瞬間、吾妻の背が小さく揺れた。凸凹に隆起した炎の形に沿うように指先を動かす。吾妻の背に刻まれた炎を見つめる。そうして、ぼんやりと、真樹夫が言っていた言葉を思い出した。
 
 
『親父は真澄を虐待した。将兄も俺も、数え切れんぐらい真澄の悲鳴聞いた――肉を切り刻まれたみたいな赤い蚯蚓腫れ。真澄の背中にはまだ残っとるんかなぁ…あの痕』
 
 
 背中一面、縦横無尽に刻まれた暴力の痕跡。痛々しく残る吾妻の傷。一番愛して欲しい父親によって刻まれた歪み。
 
 未だ眠気に開き切らない瞳で見つめて、健一はそれを何度も指先で撫ぜた。
 
 傷痕は、吾妻の歪な悲しみの象徴だった。吾妻は悲しいくらい家族に執着している。諦めて、手放してしまえば良いのに、母親の繰言が邪魔をする。吾妻はまだ母親の言葉を信じているのだ。お前は此処の息子だと。そうして、愛を欲しがっている。与えられない家族の愛を、健一に求めている。求め、足掻いている。
 
 そう思った瞬間、指先に力が篭った。爪を吾妻の背へと突き立てる。肉に食い込んだ指がガリッと皮膚を削った。一度始めれば、もう止まらなかった。
 
 ガリッ、ガリッ、と二三度確かめるように掻いて、それから一気に炎を掻き毟った。流動する皮膚を、肉を、両手でガリガリと削る。暫くそれを続けていると、吾妻の背が小刻みに震え始めた。母親の腹で蹲る赤子のように、吾妻は膝を抱いたまま震えている。
 
 次第に血が溢れ始めた。爪の剥げた健一の左薬指から、吾妻の背から、血が溢れ、シーツを赤く汚した。
 
 自分がどうしてそうするのか、もう理由は分からなかった。衝動が身体の内側で暴れ狂う。無我夢中だった。息が止まりそうだった。背中の皮膚を剥ぎ取ってやりたかった。肉を抉ってやりたかった。この男を、この世界から消してやりたかった。
 
 
「けんいち、やめて」
 
 
 哀れに震えた吾妻の声。聞いた瞬間、眼球の奥で憤怒が弾けた。立ち上がり、傍らにあった枕で吾妻を殴り付ける。背や腕や頭に何度も枕を叩き付けて、内に燻る怒りを欠片でも消化させようとする。それなのに怒りは高まるだけで、下がることを知らない。
 
 体内から溢れた液体が内太股を伝う。その感触に、狂乱する。枕を跳ね飛ばして、畳の上に投げ出されていたズボンを拾う。ズボンについたベルトを引き抜いて、怒りのままに振り下ろした。バチン、と鋭い音が響く。吾妻の背が跳ねる。そのまま、何度もベルトを叩き下ろす。吾妻の背が赤黒く染まり、震えが段々と大きくなっていく。しかし、震えるだけで、吾妻は抵抗しようとしない。抱えた膝に顔を埋めて、ひたすら耐えた。
 
 
「けんいち」
 
 
 幼く呼ぶ声に、脳味噌が発火する。一際強くベルトを打ち付けた瞬間、吾妻の咽喉から甲高い声が溢れた。
 
 
「やめて…!」
 
 
 子供の泣き声にも似た悲鳴に気をとられた瞬間、身体を倒されていた。吾妻が健一の身体を布団に押さえつけて、やめて、やめて、と舌ったらずに繰り返している。
 
 
「やめて、健一だけはやめて」
 
 
 哀れな懇願に、張り裂けそうな憎悪を感じた。
 
 お前は、やめてと俺が何度言ったって、やめてくれなかったじゃないか。オレの大事なものを片っ端から奪っていったじゃないか。それなのに、今更被害者面するのか。哀れげに涙声をあげるのか。巫山戯るな!
 
 
「巫山戯んな、お前も首吊って死ねッ!」
 
 
 吾妻がハッと顔を上げた。青褪めたその顔には、左耳朶がついていない。こびり付いた血が吾妻の左顔面を汚していた。その凄惨な面を射抜くように睨んで、吼える。
 
 
「真昼じゃなくてお前が死ね! お前が死ぬべきだったんだ! 死ね! 死ねっ! 死んじまえ! 手前なんか生きてる価値ねぇよ! この…野良犬の息子ッ!」
 
 
 吾妻の瞳が泣き出しそうに細められた。噛み締められた唇の隙間から「ぼくは…」と哀れっぽい声を零す。
 
 その言葉が最後まで言われる前に、吾妻の指先が伸ばされた。首筋に絡まった指を蔑むように見つめて、健一は叫んだ。
 
 
「殺せッ! 殺せよ! 殺せぇえ!」
 
 
 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、血走った目を見開き、腹の底から叫んだ。四肢を振り乱し、吾妻の身体を何度も叩いた。
 
 しかし、吾妻の指に力は篭らない。力ない指先が数度戦慄いて、首筋から外される。そのまま吾妻は、健一の胸に額を押し付けて、掠れた声を上げた。
 
 
「健一、名前呼んで」
「黙れ、野良犬の息子! 手前に名前なんかあるもんか! 誰も手前の名前なんか呼ばない! 一生、呼ばないッ! 手前は野良犬の息子のままだッ!」
 
 
 怯えたように、吾妻の身体は打ち震えた。そうして、吾妻はお決まりの繰言を囁くのだ。
 
 
「健一、愛してる。愛してる」
 
 
 譫言のように口にされる言葉を聞いた瞬間、煮え滾っていた憎悪が空気の抜けた風船のようにしゅわしゅわと萎んでいった。虚脱感に溢れる。震える吾妻の肩を眺めながら、遣る瀬無さに全身の力が抜けた。
 
 結局、こいつはこの言葉しか知らないのだ。馬鹿の一つ覚えのように『愛してる』と繰り返していれば、気持ちが伝わると本気で思っているのだ。それしか愛を伝える方法を知らないのだ。
 
 何て馬鹿だろうか。この男は、愛していると言いながら、愛とは真反対の行動ばかりしている。殴り、蹴り、奪い、雁字搦めに縛り付ける。この男は愛し方を知らないのだ。全うな愛を与えられたことがないから。愛を知らなければ、誰かを愛せるわけがないじゃないか――
 
 
「…お前は、オレのことなんか愛してないよ」
「あいしてる、健一」
「嘘つき。そんな下らない思い込みを、お前は一生続けていくつもりなのか?」
 
 
 吾妻の首が小さく揺れる。幼児のようにたどたどしく頷いた吾妻は、再び健一の胸に顔を埋めた。
 
 朝日が部屋の中に満ちる。だが、心は暗かった。出口のない暗闇に閉じ込められて、もう抜け出せないような気がした。
 
 
 
 
 
 
 薄白い湯気をあげる白飯を、ぼんやりと眺める。
 
 炊き立ての白米の臭いがムッと鼻先に漂って来て、胃の中身が逆流しそうになった。白飯、味噌汁、椎茸と蓮根の味噌和え、ナスの漬物、白身魚を焼いたもの、と並べられた朝食は豪勢だった。
 
 しかし、一向に食欲は湧かない。向かい合うようにして食事を取っている男が不愉快極まりないせいか、それとも朝食を持ってきた組員の窺うような視線が気に食わなかったせいか、単に身体の調子が悪いせいか、理由は分からなかった。食べ物に対して執着心を感じなかった。目の前の料理が、レストランのウィンドウに飾られたプラスチックの見本のように見える。
 
 吾妻は黙々と飯を口に運んでいた。そのロボットのように規則正しい動きを意味もなく見つめる。美味そうでもないし、不味そうでもない。食事を取るのは唯の義務とでも言いたげな淡々とした動作だった。吾妻が視線を健一の皿へと移す。
 
 
「――食べないの?」
「…食べたくない」
 
 
 そう、と吾妻は興味なさそうに呟いた。
 
 
「明日には、この家を出るから、健一も用意しておいて」
 
 
 白身魚をほぐしながら、何てことないように言う。『用意』という単語を聞いて、健一は口角を皮肉げに歪めた。
 
 
「〝用意〟?」
「欲しいものがあったら、何でも持っていったらいい」
 
 
 咽喉の奥で「何にもないよ」と小さく呟く。
 
 この男は、何て無神経なんだろうか。欲しいものなんか何もない。持って行くものだって何もない。『用意』するだけのものを、健一が持っているとでも思っているのだろうか。全てを奪った男が一体何を言っている。その苦々しさに、膝頭で拳を握り締める。
 
 その時、ある事に気がついた。吾妻の前に並べられた皿の中で、唯一減って行かない料理がある。他の料理は殆ど食べ終わっているのに、椎茸と蓮根の味噌和えだけが残されている。違う、蓮根はちゃんと食べられている。残されているのは、椎茸だけだ。皿の端っこに寄せられた椎茸を見つめて、健一は血の気が引いていくのを感じた。
 
 
「…しいたけ、嫌い、なの?」
 
 
 途切れ途切れな声で問い掛ける。自分の声が擦れているのが分かった。吾妻が顔をあげて、何故?と健一を不思議そうに見つめている。
 
 
「食べれないわけじゃないけど、苦手なんだ」
「…笠の、うら?」
「え?」
「笠のうら、が気持ち悪いから?」
「どうして分かるの?」
 咽喉がひゅっと音を立てて、引き攣る。まさか――
「あんた、俺が真昼と焼肉行ったとき、聞いてたんだろ…?」
「そうだよ」
「全部聞いたなら…」
 
 
 分かるだろ?と言おうとした言葉は、「でも」という吾妻の声に遮られた。
 
 
「でも、僕が聞いたのは全部じゃない。途中からしか、聞いてないよ。それまで、…やることがあったからね」
 
 
 舌打ちでも零しそうな面で、吾妻は言った。その歪んだ表情は、苦渋に塗れている。やること――あぁ、真夜を抱いていたのか、と思い当たったが、健一にとってそれは既にどうでも良い事だった。
 
 それよりも、吾妻は『あの会話』を聞いてなかったのだろうか。わざと、椎茸嫌いのフリをしているのではないのか。それならば、本当に真昼と同じように椎茸が嫌いで、
 
 もう顔を上げていられなかった。健一は胸倉を掴んで、前のめりに俯いた。Tシャツを握り締める掌が、汗でじっとりと湿っている。
 
 椎茸嫌いの真昼と吾妻、同じように笠の裏が気持ち悪くて嫌いだなんて、そんな偶然の共通点要らないんだ。そんな『家族』みたいな――
 
 
「健一、大丈夫?」
 
 
 狼狽した吾妻の声が聞こえる。それに返す言葉すら思いつかない。声が固まって、咽喉から出てこない。藻掻くように、唇だけがパクパクと開閉を繰り返す。不意に、真昼の言葉を思い出した。
 
 
『いつか、真澄兄を許してあげてね』
 
 
 その言葉に、胸が絶望で満ちる。真昼、お前は自分を殺した男を許せと言うのだろうか。きっと、真昼はそれでも許せと言うんだ。決して、殺せだなんていわない。復讐なんて望まない。だって、真昼だ。家族を憎み切れない優しい女の子だったんだ。こんな最悪な兄を、いつか許してと言ったんだ。吾妻のために、自分の兄のために、『許してあげて』って――
 
 もう耐え切れなかった。ひっ、と咽喉が鳴った。それなのに、涙が出てこない。心臓は引き裂かれそうなほど痛いのに、眼球はカラカラに渇いている。悲しくて堪らない。何で、何で、こんな事で今更思い知らされるんだろう。
 
 
『吾妻と真昼は、紛れもない家族だったのに』
 
 
 それなのに、吾妻は、真昼を裏切った。一番酷い方法で殺した。それでも、吾妻と真昼は家族なのだ。同じように椎茸が嫌いな兄妹だった。真昼は、吾妻を大切に思っていたのに――
 
 
「健一、どうしたの? どこか痛い?」
 
 
 焦燥を滲ませた吾妻の声。
 
 吾妻には、言えなかった。真昼が吾妻を大切にしていた事など、言えるわけがなかった。自分を家族として唯一想っていてくれた妹を殺したなんて、たった一人の家族を、お前は自分の手で失ってしまっただなんて――きっと一生言うことはできない。あまりにも悲しすぎて。
 
 
「…ゆびが、いたい」
 
 
 言い訳のように呟く。
 
 爪の剥がれた左薬指にはシルバーのリングが嵌められている。吾妻の愛情の証。その指を握り締めて、震える唇をそっと噛み締める。
 
 
 愛情のために家族を殺すというなら、愛は何て残酷なのだろうか。何て醜いのだろうか。歪んだ愛情故に失われる家族は、何て悲しいのだろうか――ゆびが痛い。愛が痛い。愛は悲しい。家族は悲しい。
 
 
 吾妻が残念そうに呟く。
 
 
「キャッチボール、できないね」
 
 
 キャッチできない。
 
 
 
 
 
 
 数週間後、吾妻が「弥生からだよ」と言って、一枚の紙切れを差し出してきた。所々が赤いシミで汚れたそのメモ用紙には、一言「ごめんなさい」と書いてあった。健一は、それを破り捨てた。
 
 吾妻が「弥生がどうなったか知りたい?」と泣き笑いにも似た微笑みを浮かべて問い掛けてきたが、健一は聞かなかった。両耳を塞いで、この悪夢が終ることをひたすら祈った。
 
 

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